映画『かしこい狗(いぬ)は、吠えずに笑う』ネタバレ感想〜友情という名の鎖〜

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クリスマスの25日、下高井戸シネマで映画『かしこい狗(いぬ)は、吠えずに笑う』を観てきました。

2012年、渡部亮平監督、出演はmimpi*β岡村いずみ

※2022年2月に久しぶりに再鑑賞しました。初めに2013年の初鑑賞時の感想、続いて再鑑賞して考えた個人的な解釈を書いていきます。



『かしこい狗は、吠えずに笑う』のスタッフ、キャスト

監督・製作・脚本:渡部亮平
熊田美沙:mimpi*β
清瀬イズミ:岡村いずみ
栗田:石田剛太
黒河マリナ:もりこ
西尾アヤ:瀬古あゆみ
谷(司法修習生)仁後亜由美

正直、この作品を観ようと思ったきっかけはドラマ『たべるダケ』で魅かれた岡村いずみさんが出ているということ。

九月くらいに観たかったのですが、予定が合わなくて、年末上映の下高井戸シネマさんありがとう、といったところです。

あらすじ紹介

女子高生の熊田美沙は、名字やその風貌から 「プー」と呼ばれて馬鹿にされ、友だちもいない孤独な学校生活を送っていた。

そんなある時、可愛すぎて女生徒たちから妬まれている同級生イズミと親しくなった美沙は、なぜか自分に興味を示すイズミに戸惑いながらも、友情を育んでいくが……。

出典:映画.com

脚本、監督の渡部さんの自主映画という触れ込みは聞いていました。ただ、自主映画というのがどういったレベルなのか僕はわからないので、あまりそこには着眼せず、物語は始まります。

※あまり公開されていない作品なので詳細にレビューしますが、ネタバレが嫌な方はお控えください。



映画のネタバレ感想(初見時)

以下、作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

可愛いと可愛くない

熊田美沙という不細工な女の子をmimpi*βが演じ、対照的に可愛らしい(自分でもそれをわかっている)清瀬イズミという女の子を演じる岡村いずみ。


美沙はその容姿と、恐らく苗字からであろう、プーさんというあだ名で蔑まれ、クラス内でいじめを受けていました。

一方でイズミもまた、その容姿から「ちょっと可愛いからって調子に乗るな」との陰湿な妬みを受けていました。

イズミの一言で2人は仲良くなり、前半部は友達になった2人の青春群像劇ですが、タイトルにもある「狗」というのは、イズミが自らを「チワワ」と、美沙のことを「ブルドッグ」と形容し、生ある犬であることには変わりなく、チワワであろうとブルドッグであろうと本人には非はない、というようなことを言った部分からでしょう。

イズミはそのようなことをあけすけに言う無邪気な女の子で、美沙もまた、そんなイズミに本音で向き合うことができたのです。

そもそもの鑑賞動機が岡村いずみだったのでイズミに目が行きがちな序盤でしたが、実質的な主人公である美沙を演じたmimpi*βも凄い。

朴訥とした口調、そしてそこに秘められたコンプレックス…彼女の美沙にだんだんと引き込まれていきます。

哀しきニコイチ論

ちょっと前の世代で使われた言葉でニコイチというものがありました。
例えば仲の良い女の子で一つのモノや考え方を共有する、ということで、昭和末期世代から少し下の現在22くらいの子たちまではよく耳にしていたのではないでしょうか。

仲良くなった美沙とイズミにおいて、美沙は親友が親友としていてくれることが何よりの喜びであったのに対して、イズミは時として隷属化してでも、美沙とニコイチであり続けることが、彼女の喜びになっていました、

これが彼女たちの友情関係に対する僕なりの見解です。

当然ながら、時として隷属化を強いる強引な繫がり方は、一方に恐怖心を植えつけます。

男の目線からすると、ただ重い、とか束縛とかいう言葉くらいでしか表現できないのかもしれないですけど、イズミの美沙に対する占有化、ニコイチでありたいという心はだんだんと顕在化していきました。

物語の後半から、美沙はイズミのことを恐ろしいと思い始めていきます。

後半からはストーリーが急展開していって、イズミの中に巣食う狂気とか占有心とか残酷さとか無邪気さとか惨たらしさとかがぎゅっと凝縮されていきました。

友情からの束縛は普通にあることだし、親友の二人においてイニシアチブを片方が握るなんてこともよくあること。

だから、本作は実際的な友情関係を描写したとともに実際的ではないスリリングな部分を描き出した濃厚な作品だと思います。

鬱屈と悶々。劇場を出た僕も悶々。

入場時に配布されたパンフレットには渡部亮平監督から撮影、照明を手掛けた辻克喜さん、音楽の近谷直之さん、そしていずみさんとmimpi*βさん。それぞれのメッセージが綴られていました。

特に辻さんと近谷さんのものには見応えがあって、限られた予算で、いかにして照明や音楽を工夫していたのか。そういう部分の話を聞いて、僕もこれからの鑑賞時に少し頭の隅に置いておこうと思った次第です。

ちなみに、この作品の軸にあるのはナポレオン・ボナパルトの「人を動かす梃子は恐怖と利益」というもの。それが最後までブレなかったから、イズミの変遷も視聴者側は受け入れることができました。

そして、僕の心の中に残ったいくつかの回収できなかった伏線。エンディング後のカットや、エンディング前のラストシーン。あるいは保健室で横たわる美沙の見た悪夢(あれは夢だったのだろうか)、イズミが美沙に似たパッツンの髪型で現れるカット。

劇場を出る時に、前を歩いていた2人組の男の人が早速私見を述べあっていました。
自分もそこに入りたかった、そう思えるくらいには多義的な捉え方ができる作品です。

最後に、岡村いずみさんの可愛さを再認識したと同時に、彼女の跳ねるような演じ方、瞳と口角をくいっと動かして笑顔の段階を調節するところなど、『たべるダケ』のダーヨシでは見ることのできなかった素敵な一面を目にできて良かったです。

今後も色々な媒体で活躍してほしい俳優であり、これからも応援したい方です。

レビュー自体は中途半端になってしまいましたが、濃密な95分間。無駄な時間はありません。

 

ここまでが2013年の初鑑賞時に感じた感想です。



映画のネタバレ感想②(2022追記)

以下、作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

 

ここからは2022年に配信で再鑑賞した上での感想になります。
2014年以降も映画館やレンタルで鑑賞していたのですが、今回は自分なりの解釈を追記していきます。(2022年2月)

『かしこい狗は、吠えずに笑う』では、美沙(mimpi*β)イズミ(岡村いずみ)の関係を描いた物語の大部分が、実は美沙の供述に付随した回想だったことがわかります。
美沙がなぜ供述していたかというと殺人容疑の罪で捕まっていたからです。彼女は弁護士と司法修習生に面会しています。

最後に美沙が「嘘」という言葉を使っていたことから、映画内で綴られていたイズミとの日々には美沙の恣意的な「嘘」が含まれていたと考えられます。

美沙が語った清瀬イズミとの全てが、彼女の創作だったという捉え方もできますし、美沙とイズミの立場は全て逆だったという見方もあります。
また、死んだイズミのキャラクターを美沙が引き継いだというものや、美沙にイズミが乗り移ったという考え方もできます。

個人的には、何度観ても「どこが嘘なのか」というところは答えを見つけられなかったのですが、映画を再鑑賞して気になった点をいくつか考えてみました。

  • エンドロール前の鏡のシーン
  • 美沙とイズミと青と赤
  • ラストシーンの解釈
  • チュン太と西尾アヤ
  • 「怖い」イズミについて

こちらの部分についての雑感になります。

エンドロール前の鏡のシーン

エンドロールに突入する直前、美沙(mimpi*β)は女子トイレでメイクをしており、突如右目の痛みを訴えると彼女の右の瞳は赤くなってしまいました。

花瓶で鏡を叩き割ると、美沙の両目は青く変化。彼女は「自分を守る嘘、あんたの武器でしょ」と鏡の中の自分に話しかけました。

この部分が難解なのは、映画前半にイズミ(岡村いずみ)が全く同じ行動を女子トイレで取っていたからです。珍しくイズミが単独で映っているシーン。

流れ的には二人がチャリンコで疾走してお互いを名前で呼ぶようになった、「親友」成立のすぐ後ですね。

美沙の女子トイレのシーン、彼女は今まで履いていたコンバースのスニーカーではなく、イズミたちと同じローファーを履いています。
(二人乗りの時にお互いの靴を片足ずつ履いていたのを除き、作内での美沙は一貫して白いコンバースを履いていました)

これはイズミが美沙に対してとったような親友関係の構築を、美沙が新たに始めようとしているシーンの描写だと考えます。

映画の進んでいく順番の通り、美沙が釈放されて学校生活に戻ってからの出来事という捉え方もできますし、前半部分にあったイズミがトイレで化粧するシーンは実は美沙で、美沙がイズミの立場になったという考え方もできます。(イズミが化粧するシーンの直前、美沙は「私が変わり始めていました。人を変えられるのはやっぱり人なんですね…」と述懐しています。)

もし後者の捉え方をするのであれば、「美沙」「イズミ」と呼び合うようになった後の二人の関係は、映画内で受ける印象とは大きく異なりますよね。
ここではシンプルに前者の美沙が釈放された後という解釈をしたいと思います。

また映画のタイトル『かしこい狗は、吠えずに笑う』はこの場面で表現されていると考えました。

「犬のお巡りさん」を口ずさむ美沙は「…ワンワン、ワワン」の歌詞の直前で目に痛みを覚えて花瓶を叩きつけました。
映画内で「自分を守る嘘、あんたの武器でしょ」と独りごちる美沙は無表情に見えますが、映画の脚本(2014年鑑賞時購入)では「美沙の表情、薄ら微笑み」と記されていました。

美沙とイズミと青と赤

例のトイレでの化粧シーン、美沙の右目は赤くなり、彼女が花瓶を叩きつけると両目が青く変化します。

前半にあったイズミの同シーンでは、花瓶で鏡が破られるとイズミの瞳は元の色に戻っています。

この映画では美沙に対してイズミに対してのイメージカラーが用いられています。

美沙に降る雨 イズミに降る雨
美沙の自転車 イズミの自転車
美沙の携帯 イズミの携帯
チュン太 イズミのビニ傘
イズミのペディキュア 美沙のペディキュア※1
美沙のペディキュア※2 栗田の弁当箱
美沙の化粧ポーチ イズミの化粧ポーチ
美沙の瞳の色※3 イズミ、美沙の右瞳※4
※1:イズミの部屋で塗ってもらったとき
※2:留置所でのフットネイルの色
※3:エンドロール直前の化粧のシーン
※4:各々の化粧シーン

こんなところでしょうか。イズミについては彼女の部屋やお弁当箱など、色々なものが赤やピンクを基調としたものでした。

トイレでの美沙が青目化したシーンに話を戻すと、ここでの彼女にはイズミの影響からの逸脱を感じたんですよね。

イズミのキーカラーであるは、コタツで美沙に塗ったペディキュア、あげた自転車、あげたビニール傘といった形で美沙に渡っています。見方を変えればイズミが美沙を赤く染めています。
これはイズミにお弁当を作ってもらっていた栗田の弁当箱でも同様です。

その一方でイズミも、自らの足の爪を青にしたり、セキセイインコのチュン太を貸してと言ったりして、を自分の中に取り入れようとしていました。

親友のものは自分のもので自分のものは親友のものであるという考えに基づくものではありますが、一方的に美沙を赤く染めるだけではなくて、イズミ自身も美沙の色に染まりたいという思いはあったのではないでしょうか。タバコを自分も吸ってみたのも美沙を知りたいと思う一環でしょう。

留置所で美沙の爪が青かったことで、(イズミの部屋で塗ってもらった)元の色と逆になっていましたが、それより前に彼女の赤いペディキュアは剥がれ始めていました。
その後に美沙がイズミに対しての疑念を強めていったことで、美沙はフットネイルを赤から青に自分で変えたとここでは解釈させていただきます。

ラストシーンの解釈

エンドロール後のラストシーン、今まで美沙が座っていた席の女子生徒が携帯を取り上げられ、それをかつてイズミが座っていた席から美沙が見つめています。

没収された携帯には美沙や栗田がつけていた南京錠のストラップ。イズミから渡された南京錠のストラップ。

イズミは自宅に入る時や栗田のアパートに入る時に大きな鍵束を使っていましたし、対象を鎖や錠で“繋いでおく”ことで守っていました。「大好きだから繋ぎ止めたい」という表現も美沙のナレーションで出てきました。

その繋ぎとめる側に、美沙が回ったということを表しているラストシーンだと思います。

彼女は自分を変えるための化粧をイズミに教えてもらい、不細工から抜け出しています。この後に美沙がどのような形で「友達」と関わっていくのかはわかりませんが、映画内で綴られたイズミのような立場になった、というシンプルな解釈で私は落ち着きました。

チュン太と西尾アヤ

続いてセキセイインコのチュン太と、監禁されていた西尾アヤ(瀬古あゆみ)の行方についてです。

美沙の供述に従えば、チュン太はイズミに投げつけられて絶命して美沙が埋め、アヤはイズミが刺殺したとなりますが、無罪が下された後のシーンにより、チュン太とアヤの真実がわかりにくくなっています。

死んだはずのチュン太は電線に留まっていて、アヤは依然として行方不明の張り紙が貼られたままです。美沙の無罪を伝える新聞記事にもアヤの名前はありません。

アヤに関しては、事件当日栗田の部屋にアヤは監禁されていなくてまだ行方不明のまま。もしくは死亡したアヤの叙述が新聞記事に載っていなかった、といった選択肢があると思いますが、個人的には後者の死亡パターンだと思います。新聞記事に載っていなかったのは美沙の殺人容疑と関係がないと判断されたからでしょう。

映画本編にはないものの、脚本(2014年鑑賞時購入)では交番の篠崎巡査(アヤの安否を気にしていた警官)のこんな描写がありました。具体的には傍らの新聞記事が映る直前です。

口を尖らせた篠崎はアヤの張り紙を眺めている。
張り紙をグシャグシャに丸めて捨てる。

彼のやるせなさ、後悔みたいなのはアヤを助けられなかったこと、海老鍋の夜に美沙の話を聞いていれば防げたことへのものだと思いますが、篠崎のこの描写に則ればアヤは既にいなくなってしまったことの予想がつきます。

掲示板に落書きされたアヤのポスターが残っていたのは時間の経過(ポスターの劣化、落書きがされていること)や、その落書きを美沙がした可能性を匂わせる演出だったのではないかと思います。美沙の記憶ではアヤに落書きをされて虐められていましたし、監禁されていたアヤは顔に落書きをされていました。

美沙の供述を揺るがす真偽

ただチュン太に関しては、彼が生きているかそうでないかとの捉え方で、事件当日の考え方が全く変わってきます。

もしも電線に留まっていたセキセイインコ(それを見て吠えているチワワはイズミを例えてるんでしょう)がチュン太だとするならば、美沙の「イズミが投げつけて絶命し、自分が埋めた」という供述はダウトです。

そのシーンが偽だとすると、いよいよあの日の一連の動き自体が怪しくなってきます。確定しているのは栗田のアパートで事件が起き、栗田とイズミが死亡し、自首した美沙が無罪釈放されたということだけです。

美沙の「自分を守る嘘」がチュン太についての供述にもかかっているとするならば、チュン太が今でも生きていて籠の外で飛び回っているという未来も想像できます。

一方で美沙の証言をそのまま受け取ると、チュン太が電線に留まっているのは美沙の「心の中で生きている」描写になりますね。

チュン太の安否については、私見として死んでいない=電線に留まっているチュン太が真実と考えました。
前述の通り、事件当日の供述自体を疑うことになりますが。

「怖い」イズミについて

最後にイズミ美沙に対して見せていた“恐怖”の部分です。

イズミが水槽を落として金魚の金太郎が死んでしまい、金太郎を死なせてしまったことを決して謝らなかった頃から、美沙はイズミに対してちょっとおかしいなと思い始めます。
「(チュン太を)これ貸して。いいから貸せよ」と詰めたあたりからは「怖いと思うようになった」と弁護士に明かしています。

美沙同様、金太郎の一件から観ている我々もイズミがヤバいなと思うようになっていきます。

ただイズミ側から考えた場合、異常に映る彼女の行動理は明確な理由に基づいているんですよね。
「ありがと」って言ってもらうためです。

アヤとの思い出に受験のお守りを渡して喜んでもらったことを挙げていたのもそうでしたね。

三陰交のツボを教えた。
ストラップをあげて喜んでもらった。
内緒で金太郎に餌をやって感謝された。
コタツでペディキュアを塗ってあげた。
雨が降っていたので傘を貸してあげた。
消しゴムを届けてあげた。
お弁当を作って美味しいと言ってもらえた。

美沙に感謝されるたびにイズミは「フヘヘ♪」と嬉しそうに笑います。彼女が「自分を守る嘘」と表現した嘘の笑顔ではない心底の笑顔です。「人を動かすテコは恐怖と利益」で言えばイズミにとっての「利益」の部分です。

金太郎を死なせてしまった一件も、美沙をサプライズで喜ばせようとしたチャレンジが裏目に出た形でした。

疑心暗鬼

一方で良かれと思ってイズミがする行動を、次第に美沙は疑い始めます。発端はもちろん金太郎の一件です。
イズミの言動や行動の裏側に狂気を感じていきます。

これは渡部亮平監督の『哀愁しんでれら』(2021)でも同じような形があるんですが、人は一旦疑いのフィルターをかけてしまうと、相手の真意とは違うネガティブな受け取り方をしてしまいます。

『かしこい狗は、吠えずに笑う』の美沙で言えば、ストラップを外した時や万引きした化粧品を断られたとき、チュン太を貸してと言われた時、シャーペンをカチカチさせてイズミに呼び止められた時などに、イズミからの恐怖を感じていました。

ただ、その恐怖には美沙のイズミに対する不信感が前提としてありました。もしかすると実際にイズミは、あのシーンの数々でそんなに脅迫めいた言い方をしていなかったかもしれないんですよね。

イズミの無垢な狂気に目が行きがちでしたが、それを“狂気”というのは見ている側のフィルターに依るのではないか。そんなことも思いました。

 

再鑑賞時の感想をだらだらと追記しました。
最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

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