こんにちは。織田です。
2020年に公開された映画『MOTHER』を鑑賞しました。
監督は『さよなら渓谷』や『タロウのバカ』の大森立嗣監督。
主演を務めた長澤まさみが、いわゆる“毒親”を演じていることで話題になりました。
今回は、映画の元になった実際の事件や、それにまつわる書籍も合わせて映画『MOTHER』をご紹介していきます。
あらすじ紹介
ゆきずりの男たちと関係を持つことで、その場しのぎの生活をおくる自堕落で奔放な女・秋子。しかし、彼女の幼い息子・周平には、そんな母親しか頼るものはなかった。やがて寄る辺ない社会の底辺で生き抜く、母と息子の間に“ある感情”が生まれる。そして、成長した周平が起こした“凄惨な事件”。彼が罪を犯してまで守りたかったものとは——?
題材の事件は?
この映画には、明確な“原案”としての実在事件があります。
2014年に埼玉県川口市で起こった、少年による祖父母殺害事件です。
川口市祖父母殺害はなぜ起きたのか~少年事件の深層を探る~(隈本ゼミ調査報告)という記事に概要がわかりやすく記載されていますが、ネグレクト(育児放棄)を親から受け、住むところを転々としながら居所不明児童として学校に通うこともできずに思春期を過ごした少年が起こしてしまった殺人事件でした。
そしてこの事件の裁判を傍聴し、少年の周辺を丁寧に取材した毎日新聞の山寺香記者の著書が、『誰もボクを見ていない』。
映画鑑賞後にこちらの本を買って読んでみましたが、映画の何倍も現実は凄惨でした。映画でもホテル生活、路上生活、ドヤ街での生活と印象的なシーンがありましたが、実際はさらに想像を絶するものでした。
長澤まさみが演じた母親に焦点を当てた映画、事件の直接的な加害者となった少年にスポットを当てた書籍と少し視点の違いはありますが、映画をご覧になった人には是非読んでほしい一冊です。
『MOTHER』のスタッフ、キャスト
監督:大森立嗣
脚本:大森立嗣、港岳彦
秋子:長澤まさみ
周平(少年期):奥平大兼
周平(幼少期):郡司翔
秋子の妹:土村芳
秋子の母:木野花
リョウ:阿部サダヲ
高橋亜矢:夏帆
長澤まさみ=マザー
2020年6月に33歳となった長澤まさみ。
彼女が母親、しかも毒親を演じるという衝撃は大きなニュースになりました。
『世界の中心で、愛を叫ぶ』や『涙そうそう』、『タッチ』(浅倉南役)などで国民的美少女の地位を確立し、『モテキ』、『海街diary』では魅力的な20代を熱演。
2018年に『嘘を愛する女』で、結構ヤバめの女を演じたことはありましたが、基本的に快活な役、イメージを担うことが多い女優さんだったと思います。
そんな長澤まさみの演じる秋子は声を荒げて息子を罵倒し、金の無心をしていきます。これは本当に衝撃です。
周平を演じた奥平大兼、郡司翔
ヤバめな長澤ママみについていく息子・周平は、幼少期(小学生)は郡司翔、その後の時期に入ると奥平大兼が演じました。
実質的な主役です。
偏った母親の愛情だけでなく、学校という普通の子供たちが通過していく社会を知らないがゆえに、手を差しのべようとする周りの人たちと触れ合うと周平(奥平)は首をかしげます。
自分のことを心配されているのに、どこか他人事のように、実感無さげに。
また、木野花が演じた秋子の母(周平にとっての祖母)も上手でしたね。
金をむしり取るように押しかける実娘に対して「縁を切る!」と泣き叫ぶように言い放ちました。
自分が普通に育てたはずの娘が社会的なモンスターへと豹変し、自分たちの生活を脅かすわけです。当然の行動ですね。
以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
映画のネタバレ感想
ここからは映画を観た上での感想を書いていきます。作品のネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。
物足りなかった「支配」の描写
すべてを狂わせる《この女》 聖母(マリア)か。怪物(モンスター)か。
映画『MOTHER』はこのようなキャッチフレーズがポスターに落とし込まれています。
この「聖母か、怪物か」という二項対立を煽る以上、もう少し秋子(長澤まさみ)の精神的な支配について描かれていたらよかったなというのが正直な印象でした。
山寺香さんの『誰もボクを見ていない』では、以下の叙述があります。
人を信じてみたいが、信じて裏切られるのが怖い。幸子はそんな優希に、優希が信じようとする人たちの悪口を聞かせた。希望を捨てきれずに信じようとしても、優希は相手の表情や仕草、行動にほんのわずかでも「疑わしい」ものを見て取ると心を閉ざした。
書籍内の「幸子」は秋子、「優希」は周平に該当します。
秋子は確かに彼女なりの形で「舐めるように」周平へ愛情を注いできました。
ただ、なぜ周平が彼女の元を逃れられなかったのか。あるいは子供たちを支援する立場の高橋亜矢(夏帆)が差し伸べた手をどうして振り切ってしまったのか。その理由を「秋子と周平の共依存」だけで説明するには、依存性の部分で弱かったのではないでしょうか。
本来描かれるべきは、周平が幼い頃から母親に心理的な支配を施され、母親以外との関係を断絶され、母親以外に頼る大人を知らない状況に追い込まれたことだと思います。
事件を起こすまでの間に、周平側からの視点ーー母親に対して愛しいと思うとか、怖いと思うとかーーが入ればまた違うんでしょうが、この映画はあくまで客観的に秋子や周平たちを映していきました。そのため、どうして周平が「こんな母親でも僕にとってすべて(世界)」という境地まで至ったのかがよくわかりません。
端的に言うと、感情移入できないんですよね。
原案となった事件を調べる限り、本来観客に与えるべき感情としては「ひどい」が正しいと思います。
それが映画ではあくまでも「おかしい母親(と内縁の夫)」と「かわいそうな息子」という置かれた状況での判断しかできないところに終始してしまっています。
ただ見方を変えれば、映画は元の事件をマイルドに緩和したのかもしれませんし、客観的事実の羅列を意図的に行なったのかもしれませんね。
マザー・長澤まさみの悪意
子供を支配下に置き、精神的に支配する描写が物足りなかった一方で、長澤まさみのナチュラルに悪い言葉遣いは光っていました。
「あんた学校なんか行っても絶対いじめられるかんね」
彼女を支配欲にまみれた毒親たらしめるためにはさらに執拗な口撃が欲しかったのは上で書いた通りですが、秋子の言葉の端々には明確な悪意を感じます。
悪意というのは意地の悪さと置き換えてもいいかもしれません。
先ほど紹介したセリフには、子供が本来通う権利のあるはずの社会的な場所=学校に対して意味のないものだとバッサリ切り捨てる残酷さが見えますし、「いじめられる」ことへも秋子の主観と主張が感じられます。マインドコントロールの典型的なやり方です。
彼女がいかに周平の立ち位置を勝手に決めつけ、彼の行動を束縛しているかがわかります。
学校に行ってもいい、行くな以前に、明確に彼の未来を決めつけています。そこに「いじめを受ける『だろう』」の憶測はありません。
怒鳴り声に感じる嫌悪感
秋子はどんな窮状に追い込まれても働くことをしませんし、せっかく手に入れたお金もパチンコであっさりと使ってしまいます。
このあたりの破綻した金銭感覚が「男に溺れる女」という側面重めで描かれていたのは勿体無かったなと思いますし、秋子とリョウ(阿部サダヲ)による大声の恫喝に虐待が特化していたのも残念でした。
リョウも実は秋子の金ヅルの対象でしかなかったんですが、周平から見た「怖い」よりも我々観客が抱く嫌悪感の方が強くなってしまったかなと思います。
『タロウのバカ』でもそうだったように、罵声による抑圧は大森立嗣監督の得意な形なのかもしれません。それが本作にフィットしていたかどうかは、ちょっと疑問が残ります。
周平の心情を考えてみる
小学生時代の周平(郡司翔)は、一ヶ月間アパートに一人で置き去りにされたり、その間母親に現金を振り込んだりと明らかな虐待を受けて育ちます。
家を空けた母親にどんなに泣きついても、秋子は顔色を変えることすらありません。あんた生きてたの?と言わんばかりです。
この段階ではリョウ(阿部サダヲ)に熱を上げていた秋子にとって、またそんな秋子をいい女だと認めていたリョウにとって、周平は邪魔な存在でした。
ここで周平は思っていることを言わないでおくことの意味を、自分の考えを押し殺し、思考停止する術を覚えたはずです。
ただしリョウがいなくなってお金がいよいよ底をつくと、邪魔者だったはずの周平は秋子が金銭的に依存する対象になります。
実際の事件では、少年は働く他にもパチンコで勝って日銭を稼いだりしていたといいます。妹(映画では冬華=浅田芭路)の存在も大きかったことでしょう。
「お母さんにはボクがいないとダメだ」だけでなく、「妹を守ってやりたい」という思いもあったはずです。
周平とサッカー
ちなみに周平が唯一外の世界と関わるチャンスだったフリースクールで、「みんなでサッカーをやろう」というクリスマス会のシーンがあります。
これは映画オリジナルの演出ですが、映画序盤でばあちゃん(木野花)の家に金を無心に向かう秋子が自転車に乗って、そしてその後を周平がついていく境内のシーンに関連していると思われます。
必死に母の自転車を追っていく周平の横で、ボールを蹴って遊ぶ親子。この時の光景が周平の頭をよぎったのではないでしょうか。
『誰もボクを見ていない』には、実はこんな叙述もあります。
スポーツが苦手だった優希がクラスの男の子と仲良くなるきっかけがほしいと思った時、幸子は放課後などに一緒にサッカーの練習をしてくれたことがあった。
書籍内の「幸子」は秋子、「優希」は周平に該当します。
映画の中で周平が何かを楽しみにしていた貴重なシーンでしたが、彼の淡い期待はあっさりとつぶされてしまいました。個人的にはフリースクールを出て行かざるを得なくなったところは一番きつい描写でした。
最後に
『誰もボクを見ていない』の著者の山寺さんは「この事件は特殊な少年が起こした特殊な事件ではないのではないか。」と、取材のきっかけを明かしています。
恫喝や暴力による虐待という点では、秋子やリョウのような親を持つ子は僕の友だちでもいました。
その子は内にこもるというよりも、グレる、いわゆる不良として地元で名を馳せていきましたが、周平と決定的に違うのは彼が学校という“社会”に関わっていたことです。だから僕らクラスメイトも彼の存在を知っていましたし、周りの大人も何とか状況を改善させようと介入に動いていました。
周平の場合は違います。
彼は小学校の途中までは学校に行っていたものの、夜逃げのような転居を繰り返して住民票がなくなり「居所不明児童」となってしまいました。
こうなると彼の家庭環境を改善するどころか、そもそもの存在を把握することが難しくなっていきます。
どっちがいいとかそういう問題じゃなくて、この映画ではそんな環境下に置かれた子が、他人の知らないところに存在する。そんな暗部を描いたことに意味があると思いました。
正直言って観た方が良いと人におすすめする映画ではありません。
それでも、この映画を観たことで一つの現実を知れたこと。それはとても大きなことだと思います。
大森監督のこんな映画も
さよなら渓谷
『MOTHER』でも母親役を演じた木野花が真木よう子の母親役で出演しています。
星の子
タロウのバカ