映画『タロウのバカ』ネタバレ感想〜狂気のYOSHI。受け止める覚悟はできていますか?〜

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こんにちは。織田です。

9月に公開された映画『タロウのバカ』を鑑賞しました。

監督は『セトウツミ』『さよなら渓谷』などの大森立嗣。
本作は1988年に発覚した巣鴨の置き去り事件にインスピレーションを得て、構想を温めてきたものということです。

主演には本作が俳優デビューとなった16歳のYOSHIを抜擢し、菅田将暉仲野太賀(太賀から改名)と悪ガキトリオを形成しています。

菅田将暉は『セトウツミ』でも大森監督とタッグを組んでいましたね。

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映画『セトウツミ』ネタバレ感想|フシがある選手権

2016年7月29日

タイムアウト東京さんが行なったYOSHIと大森監督のインタビュー記事がとても面白いので、映画をご覧になった方は是非!

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。



『タロウのバカ』のスタッフ、キャスト

監督・脚本:大森立嗣
タロウ:YOSHI
エージ:菅田将暉
スギオ:仲野太賀
吉岡:奥野瑛太
洋子:植田紗々
小田:國村隼

あらすじ紹介

『タロウのバカ』は、暴力、脅迫、売春といったいわゆる犯罪行為による社会の暗部と、障害、ネグレクト、教育放棄、体罰などのタブーに相当踏み込んだ作品でした。

目に痛いシーンや心臓をえぐられるような痛みが伴い、おそらく鑑賞後は精神的に相当滅入ってしまいます。
それゆえに賛否は分かれてきそうな作品でした。

どうか覚悟を決めて、ご覧いただきたいと思います。

作品概要に関しては、映画.comさんの作品解説を引用させていただきます。

「さよなら渓谷」「日日是好日」の大森立嗣が監督・脚本を手がけ、刹那的に生きる3人の少年の過激な日常を描いた青春ドラマ。主人公タロウ役には、本作が俳優デビューとなるモデルのYOSHIを抜てきし、タロウと行動をともにするエージを菅田将暉、スギオを仲野太賀がそれぞれ演じる。

戸籍も持たず、一度も学校に通ったことのない少年タロウには、エージとスギオという高校生の仲間がいる。エージとスギオはそれぞれ悩みを抱えていたが、タロウとつるんでいる時だけはなぜか心を解き放たれるのだった。

空虚なほどだだっ広い町をあてどなく走り回り、その奔放な日々に自由を感じる3人だったが、偶然にも1丁の拳銃を手に入れたことから、それまで目を背けてきた過酷な現実に向き合うこととなる。

出典:映画.com

一丁のピストルを手にした少年というテーマは、今夏公開された『天気の子』の帆高とも似ていますね。

ただ『天気の子』とは異なり、本作では常にピストルが切り札として少年たちに付きまとい、拳銃を手に入れたことでどんな可能性が広がるのか、そしてどんな危険が待っているのかを描いています。

キャラ紹介〜3人の悪ガキ

続いてストーリーの本筋に触れない程度に、出演キャラクターを紹介していきます。

タロウ(YOSHI)


本作品で俳優デビューを飾ったYOSHIは撮影当時15歳。
菅田将暉、仲野太賀という経験豊富な二人に物怖じすることなく堂々たる演技でした。YOSHIのタロウは軽やかに、そして凶暴に感情を表現していきます。

学校に通わず育ってきたタロウは映画内で「僕は多分14歳か15歳」と話し、自分の年齢を理解していません。学年という物差しがありませんからね。

高校生のエージ、スギオに対して媚びることも気後れすることも甘えることもなく、「友達」として接していきます。

ただ、無垢で素直なタロウは、それゆえに彼らに狂気を増幅させていってしまいます。
菅田将暉も仲野太賀も良かったと思いますが、この『タロウのバカ』はタロウの恐ろしさが最大のキーポイントだと個人的には思っています。

疑いようのない主演。中村憲剛の若かりし頃に似ていますね。

エージ(菅田将暉)


柔道のスポーツ推薦で高校に進学しながらも、膝の怪我で第一線からの離脱を余儀なくされたエージ。
顧問からは心無い言葉を吐かれ、文字通りやさぐれていく様子が描かれています。

髪の毛をブリーチし、白シャツの下にいかにも彼っぽい柄Tシャツを着る菅田将暉は確かに菅田将暉でしたが、さすがに高校生役が似合わなくなってきたなと思えるほどには年輪を重ねてきました。

菅田将暉は『共喰い』で見せたような、こちらを刺し殺してしまいそうな目もできる役者です。
ただ、今回はそこまでの殺意や敵意をむき出しにしたような目ではありません。『溺れるナイフ』のコウちゃんの鋭い目つきや濁った目つきとも少し違います。

本作の菅田将暉が求めているのは「悪いことをする(できる)俺」。内輪(タロウとスギオ)の中でのボスザルとして振る舞い、彼ら二人に明確に悪影響を与えていきます。オーラとかではなく、恫喝に近いことをしながら支配していきます。

個人的な感覚ですが不良の主格というのは、ああいうタイプの人間ですね。

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2019年9月16日

スギオ(仲野太賀)


太賀改め仲野太賀。彼も菅田将暉同様、高校生役がちょっと難しい年齢にはなってきました。

スギオはタロウやエージと比べて、社会(学校)から明確なドロップアウトをしていません。
良心と常識の歯止めが効くキャラクターでしたが、エージはそれをビビりと言って刺激します。

太賀自身、これまで色々な役を演じてきましたが、彼のこれまでの遍歴が良い意味で生きていると思います。

スギオは決してトリオの中でナンバーワンにはなろうとしません。
その一方で、彼はタロウやエージにはない「普通」の感覚を有しています。恋心とか将来のこととか。

主役のタロウを演じたYOSHIが突出していたのは事実ですが、そのヤバさを引き立てていたのが太賀のスギオだったと思います。大人の円熟味ですね。

キャストについては公式ページの紹介がかなり詳しいです。
出演者をほぼ網羅しているのでぜひご覧ください。

以下、本記事はネタバレを含みます。未見の方はご注意ください。



映画のネタバレ感想

以下、作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

実在の事件との関連性

この映画は吉岡(奥野瑛太)という半グレが、自分たちの経営する障害者施設を訪問する場面から始まります。

施設といっても監禁に近く、吉岡は自分たちに面倒ごとを押し付けやがってと言ったような言葉を吐きながら、「お前ら全員死ねばいい」と喚きます。

この傍若無人に思える吉岡のセリフは、相模原で2016年に起きた障害者施設での殺傷事件にインスピレーションを得ていると容易に想像がつきます。

擁護するつもりもありませんが、社会の暗部の一つとして、吉岡のような思考回路に至る人間がいたというのは事実です。

また、こちらも作品序盤で、やさぐれたエージが綾瀬コンクリート詰め殺人事件(1988年)の実行犯に対して憧れ、羨望のニュアンスを(彼のモノローグとして)口にする描写がありました。

映画の舞台は東京・足立区で、エージが「昔この辺りで」と言っていることからも同事件を指していることは明らかでした。

上で述べた巣鴨のネグレクト事件を含め、3つとも日本の犯罪史に残る残酷な事件です。
それらをオブラートに包むことなく作品に登場させてきた時点で、登場人物たちの異常性は色濃いものになりました。

ここで描かれているのは、紛れもない犯罪者です。悪です。

犯罪者の心理(エージ)

菅田将暉が演じたエージを、キャスト紹介の項で僕は「不良の主格タイプ」と表現しました。

現在にこのようなタイプの不良が現存するのかは置いておいて、犯罪者への道を歩む3人の主犯格はエージだと思います。

「悪いことやろうぜ」
「なぁやるだろ?」
「やるだろ!」

破壊や悪事への衝動を抑えきれず、時にマウントを取りながら周囲を巻き込んでいくエージは、まさに犯罪集団の主犯の思考そのものでした。

ピストルを手にしたエージは、銃口をタロウとスギオに向けて服を脱ぐように命令しました。

また壁を蹴ったりして、少し弱気なスギオを煽りました。
大きな音を出して威嚇する典型的な手法です。

ザリガニを捕ったり砂場で取っ組み合いをしたり「バカ」を一緒にできる並列の友達だったはずのエージとスギオには、明確な力関係が生まれていきました。

一方で、タロウはそんなエージに怯えることなく、あくまで対等に振舞っていました。
タロウは威嚇も銃口も怖くないんです。怖いという感情が欠落しているんです。

そんなぶっ飛んだタロウに対して、スギオは恐れを抱いていったように見えました。
エージよりもタロウを恐れていたと思います。

何より恐ろしく凶悪なのは、まだ声変わりも完了していないタロウでした。

犯罪者の心理(タロウ)

YOSHIが演じたタロウに対しては嫌悪感と恐怖しかありませんでした。

タロウは、明らかにぶっ飛んでいました。
ネジが外れているとか、タガが外れたとかよく言いますが、彼にはもともとネジなんてありませんでした。

狂っているということは、何かから著しく逸脱している場合に使います。
リミットや加減を知らないタロウは、間違いなく狂っていました。

タロウは自分がバカだとわかっているし、周りからもバカと言われていますが、そのバカの定義は読み書きができないとか一般常識を知らないとか、そういうものではありません。

端的に言ってしまえば善悪の判断が、そして生死の判断がつかないということです。
吉岡の言葉として、これは映画内でも引用されています。

エージも確かに狂ってはいました。

しかし、エージは吉岡を襲撃した後あたりから、自分たちが後戻りできないところにきてしまったことに気づいていたはずです。
ここまでやってしまっては死と背中合わせだとわかっていたはずです。

スギオもわかっていました。
だから及び腰になって仲間から抜けようと考えたりもしました。

でも、タロウには後戻りとか超えたらいけないリミットとかの概念がありません。欠落しています。

人間としてやっちゃいけないことの歯止めが効いているのがスギオ。
歯止めをあえて外したのがエージ。
そして歯止めの概念をそもそも持っていないのがタロウです。



犯罪集団の心理

上で書いたように、エージもタロウもまごうことなき「悪」だったと思います。

ひったくり、襲撃、脅迫。スギオも含め、無差別型の犯罪を犯すのは悪以外の何物でもありません。

彼らは朱に交われば赤くなる理論によって、互いの存在によりおふざけを凶行へと変えていきました。

タロウはエージと出会わなければ脅迫や暴力にここまで魅力を見出すことはなかっただろうし、エージはタロウの暴走がなかったらここまで悪事の限りをつくすことはなかったのではないでしょうか。

そしてスギオも悪に染められることはなかったと思います。
スギオはもう少し普通の高校生でいたかったはずです。
洋子(植田紗々)のことが好きな普通の高校生で。

でもスギオが考えている「バカをやって遊ぶ」とエージの考えている「バカをやって遊ぶ」はもう意味が違ってしまっていました。

さらにこれまで述べてきた通り、エージとスギオにはある種の上下関係が存在していたし、スギオはエージに逆らうことができなくなっていました。

タロウがエージの暴走を煽り立てる場面も多く、2対1の状況が多かったこともスギオの立ち位置に関係していたと思います。

ヒャッハッハッハ!と甲高い声で笑うタロウが、たまらなく嫌でした。嫌いでした。
あの笑い声、感情は狂っている者にしか生み出せないものでした。

彼は何も持っていないから、何も失わない。
そして彼の狂った笑い声はエージの狂気を増幅させ、スギオの判断を狂わせていきました。

僕はタロウが嫌いでした。悪のトリガーとして暴走する彼を怖いと思いました。
そこまでの感情、畏怖を植えつけたYOSHIの演技には、心から拍手を送り、感謝したいと思います。

あなたはこの痛みに耐えられますか?

同じ見出しを『ビジランテ』でも僕は使いました。あの作品も同じテアトル新宿で鑑賞したものでした。

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映画『ビジランテ』ネタバレ感想〜桐谷健太の怪演に拍手を〜

2017年12月30日

『ビジランテ』は「容赦しない運命が暴れ出す」のキャッチコピーをうたっていましたが、『タロウのバカ』でも容赦ない痛みがスクリーンから襲いかかってきます。

3人に鉄パイプで襲撃された吉岡(奥野瑛太)は、頭を殴られて倒れ、さらに頭を蹴られた後に、上半身をほとんど動かすことができずに脚だけをビクンビクンと動かしていました。

人は上半身がやられてしまうとあんな感じになるのでしょう。

文字で書くと何ともドライですが、実際に目にするとひどく衝撃を受けます。悶絶とかいう言葉では言い表せない痛みがあります。

たくさんの人が殴られ、蹴られ、地に這った中で、このシーンは一層リアルで心に残りました。

また平日の昼下がり、公園でタバコを吸っていた主婦(小林千里)は、タロウに突然因縁をつけられてピストルを突きつけられながら彼の言葉責めに遭います。

何も非のない主婦が怯え、慌てふためき、泣き叫ぶこの場面も見ていて辛いものでした。
恐怖と痛みです。

それを可能にしたのはやはりYOSHIの狂ったような演技と、ピストルの存在と、こちらに息をつかせないカメラワークでした。

そして「痛み」の最たるものは、スギオが自分の頭を拳銃で撃つシーンです。
テアトル新宿は一斉に緊張が走りました。

隣の人はしばらく顔を背けていました。あそこまで直接的に残酷な痛みを映し出す描写はなかなか見ることができません。

「痛み」と向き合う必要は全くないとは思いますが、この映画を観るにあたってはそれなりの覚悟が必要だと思います。

大嫌い。大嫌いだけど。

タロウたちのやっていることは、まごうことなき犯罪で、疑いようのない悪です。

吉岡たちとの抗争を除けば、彼らの無差別な襲撃や脅迫を受けた一般市民には罪がありません。

僕たちが一番リアルに感じられるのは彼ら被害者側の恐怖でしょう。

一般市民の視点で言えば、狂気ほとばしるケダモノたちを吉岡が最初の復讐の時点で始末できていればよかったのにという考え方になります。

あのような凶悪犯が身の回りにいたらどう思うでしょうか?
僕は怖い。たまらなく怖い。

あのような種の人間とは極力関わることなく人生を終えたいと、普通の人たちは思うはずです。
映画であろうと、彼らのやっていることに理解や羨望をしてはいけないと思います。彼らを動かしているのは絶対的な悪の思考です。

タロウの部分でも書きましたが、映画で描かれる悪や狂気が僕はたまらなく恐ろしく、嫌いでした。
だからこそ、僕はこの映画を絶賛したいし、問題作にして傑作だと思います。