映画『許された子どもたち』ネタバレ感想|元ネタの事件と一緒に「正義」を考えよう

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あなたの子どもが人を殺したら、どうしますか?

こんにちは。織田(@eigakatsudou)です。

今回は2020年に公開された映画『許された子どもたち』についてご紹介していきたいと思います。

中学1年生の男子生徒が、いじめの延長から同級生の命を奪ってしまいます。
裁判に問われた彼は「不処分」となりシャバにあっさりと復帰。これが題名の「許された」の部分ですが、彼を「許した」のは司法だけでした。

ヒートアップする、周りの加害者叩き。
罪を認めても、認めなくても、決して社会的に許されることのない生き地獄を進む親子。
少年犯罪、いじめの原理、社会のバッシングによる二次被害。

『先生を流産させる会』『ミスミソウ』を手がけた内藤瑛亮監督が、着想から8年かけて完成させた作品です。
どうか覚悟して観てください。

鑑賞の際はご注意を
この映画はPG12作品ですが、生徒が命を落とすシーンでは刺激的な描写があります。痛いのが苦手な方はご注意ください。



あらすじ紹介

とある地方都市。中学一年生で不良少年グループのリーダー市川絆星(いちかわ・きら)は、同級生の倉持樹(くらもち・いつき)を日常的にいじめていた。いじめはエスカレートしていき、絆星は樹を殺してしまう。警察に犯行を自供する絆星だったが、息子の無罪を信じる母親の真理(まり)の説得によって否認に転じ、そして少年審判は無罪に相当する「不処分」を決定する。絆星は自由を得るが、決定に対し世間から激しいバッシングが巻き起こる。そんな中、樹の家族は民事訴訟により、絆星ら不良少年グループの罪を問うことを決意する。

果たして、罪を犯したにも関わらず許されてしまった子どもはその罪をどう受け止め、生きていくのか。大人は罪を許された子どもと、どう向き合うのか。

出典:映画公式サイト


どこかで聞いたことのあるような展開かもしれません。それもそのはずです。

この映画は実際に起きた事件を参考にして作られた映画です。
どのような事件と関連性があるのかは、このあと紹介しますね。

『許された子どもたち』のスタッフ、キャスト

監督:内藤瑛亮
脚本:内藤瑛亮、山形哲生
加害者家族
市川絆星(きら):上村侑
市川真理(絆星の母):黒岩よし
市川祐司(絆星の父):三原哲郎
四宮(絆星の弁護士):相馬絵美
被害者家族
倉持樹(いつき):阿部匠晟
樹の父:地曵豪
樹の母:門田麻衣子
いじめっ子
緑夢(ぐりむ):住川龍珠
香弥憂(カミュ):茂木拓也
匠音(ショーン):大嶋康太
絆星の転校先の同級生
桃子:名倉雪乃
春人:春名柊夜
莉子:池田朱那

少年少女を演じた俳優はいわゆる無名の方ばかりです。
これが作品のリアリティの追求に拍車をかけています。

すでに観たことのある役者さんに対してはイメージづけとかが出てきてしまうんですが、本作の「子どもたち」にそういった先入観を抱くことはありません。

絆星(きら)を演じた上村侑さんも、絆星が転校した中学校で彼を糾弾する春人を演じた春名柊夜さんも、こちらに腹立たしさとかもの哀しさとか、そういった感情をダイレクトに植え付けてくれます。

映画内の時間経過に伴って、上村さんは少し声変わりが進んでいった風にすら感じました。気のせいかな。

本当に身の回りにいそうな子たちのキャスティングが素晴らしかったですね。

「絆星」や「緑夢」に潜む挑発

主人公の絆星(きら)に始まり、緑夢(ぐりむ)香弥憂(カミュ)匠音(ショーン)と、“許された子どもたち”はいずれも読むのが少し難しい役名を有しています。

これらは作品内でいわゆる「キラキラネーム」として、(映画内の)ネット上で嘲笑されるわけですが、ここには内藤監督からの挑発的なメッセージが含まれていると個人的には思っています。

映画を観る側も彼らを名前で異端視していないかということです。

別に非行少年の名前は何だっていいわけです。それをあえて揃いも揃って読むのが難しい名前にしたことは、明らかな意図を感じます。

「キラキラネーム」という固有名詞はメディアでも多く取り上げられていますが、そもそも侮蔑の意を含む「DQNネーム」と同じように「普通じゃない」意味を包含します。

でも、人の名前を「普通と違う」って差別することは本来絶対にやってはいけないことだと思うんですね。

絆星をとてもいい名前だと口にした桃子(名倉雪乃)のように、観る側も「読みにくい」とか「珍しい」とかそういう異端視するものではない目線を持てるのか?そんな風に試されている気がしました。

合わせて観たい映画

少年の非行やいじめを描いた『許された子どもたち』。
それと合わせてご覧いただくと面白そうな作品をいくつか選んでみました。

『タロウのバカ』

高校生男子が主人公の映画ですが、足立区の河川敷を舞台にした不良少年の闇を描く『タロウのバカ』(大森立嗣監督)は本作品と少し共通するところがあります。

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映画『タロウのバカ』ネタバレ感想〜狂気のYOSHI。受け止める覚悟はできていますか?〜

2019年10月7日

不良グループの中にも、良心の呵責を感じたり歯止めにブレーキがかかる子はいます。
ただし、その歯止めがわからない暴走するリーダー格によって「やりすぎ」の域まで進むと、状況は後戻りのきかないものになってしまうんです。

「ちょっと悪いことするのが楽しい」はずだった子たちが行きすぎてしまう残酷さ。その点で、『タロウのバカ』は『許された子どもたち』と似ているところがあります。

親が言う「付き合う相手を考えなさい」というのは、まさにこういうところですよね。

『リリイ・シュシュのすべて』

『許された子どもたち』では、絆星を中心とした不良グループ4人が、田んぼにあるカカシをめちゃくちゃに破壊していくところから映画が始まります。


これも器物損害の罪なんですけど、毎日の鬱屈を晴らすものとして分かる行為でもあります。

『リリイ・シュシュのすべて』(岩井俊二監督)では、同様に中学生の男子が希望なき抑圧された日常の中で耐え忍び、開放を求めていく姿が描かれます。それは時として万引きだったり、いじめだったり。

中学生の毎日は、状況が刹那的に変わっていきます。
昨日まで友達だった奴に急にハブかれる事もあれば、いじめのターゲットがある日突然変わる事だってあります。

美しい田園風景の中で、不条理な毎日に悩む中学生男子。『許された子どもたち』と共通する部分があるのかなと思います。

『ミスミソウ』

内藤監督が手がけた2017年の映画『ミスミソウ』です。

『許された子どもたち』では絆星が樹をボーガンで撃ってしまう冒頭の描写がマジでエグいんですが、「痛みを与える」という点では遥かに上回ります。

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映画『ミスミソウ』ネタバレ感想|どうしてこんなに痛いの?凶器一覧と赤・白・黄色

2020年6月20日

突き刺す、切る、引き抜く。
『許された子どもたち』で「赤」が絆星のボーガンに印象的に用いられているのと同じように、『ミスミソウ』もまた「赤」をかなり象徴的に使っている映画ですね。

当然ながら赤とは血を想起させる色でもあります。
また下駄箱でイタズラを受けるシーンも、『許された子どもたち』と共通するシーンですね。

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。



映画のネタバレ感想

絆星(きら=上村侑)樹(阿部匠晟)を撃ってしまう。
あまりにも目に、心に突き刺さるムゴい描写が、開始10分で訪れます。マジで吐き気を催します。

僕と一緒に鑑賞した方は、「マジでこの映画嫌い。観なきゃよかった」と言っていました。

主人公の絆星は紛れもない悪ですし、こういうイカれた犯罪に遭うというのは基本的に不運なものだと僕は思っています。
子供を持つ親だったら、あんな奴が我が子の前に現れないことを祈ると思います。

自分たちは犯罪に巻き込まれることは想像できても、自分が犯罪を起こす側の関係者になるとは考えませんよね。普通。

絆星を「悪」と知っているのは?

ただし、です。
主人公が悪だと知り、彼を断罪することができるのは、恐らくスクリーンを見ている観客だけです。
防犯カメラがあろうと、供述で本当のことを話そうと、それは現実世界において本人以外絶対に誰も辿り着けない真実なんですね。

「正義感」の元に主人公たちをネットリンチする世間は、絆星を悪魔扱いして彼の個人情報を晒そうとする同級生たちは、果たして本当に正しいのでしょうか?
「正義感」をかさに着ていればそれをする権利があるのでしょうか?

また盲目的に絆星を庇護し、作品の中でいわゆる「毒親」のように描かれている絆星の母親(黒岩よし)を糾弾するのは本当に正しいのでしょうか?

視聴者は「真実を知る」視点を手にできると書きましたが、この映画では、観る側にいじめやバッシングの「傍観者」であることを許してくれません。

だからこそ、見終わった後にとてもダメージが残るし、人によっては罪悪感や後悔、またとてつもない嫌悪に駆られる方もいるかもしれません。
でも、それでいいと思うんです。『許された子どもたち』の衝撃を受け止めて、自分ごととして考える。それができる映画って凄く貴重なんじゃないでしょうか。

実在の事件との関連性は?


公式でも触れられているように、『許された子どもたち』は実際に起きた事件に着想を得て製作されたオリジナルストーリーです。

事件を知っている人からすると、あくまで「あの事件っぽい」と感じる程度の引用ではあるものの、どのような実在の事件とリンクしているのか紹介していきます。

山形マット死事件

1993年に山形県新庄市の中学校で起きた事件です。

男子生徒が体育館の用具室内で巻かれたマットの中に逆さの状態で入っており、遺体となって発見。
男子生徒をいじめていた7人の生徒が警察の事情聴取に反抗を認めて逮捕、補導されましたが、のちに反抗の否認やアリバイの主張に転じます

結局逮捕された3人の少年たちは家庭裁判所で無罪に相当する「不処分」に。その後、司法の決定が二転三転することになるのですが、学校におけるいじめの深刻な問題性が明らかになったのとともに、少年法改正のきっかけとしても大きな意味を持つ事件でした。

「不処分」
『許された子どもたち』では、加害少年の自供撤回、そして「不処分」という部分で関連性がうかがえます。

川崎市中1男子生徒殺害事件

2015年に神奈川県川崎市の多摩川河川敷で起こった事件です。

中学1年生の男子生徒が、河川敷で遺体となって発見。防犯カメラの映像やLINEのトーク履歴から犯行グループの存在が浮かび上がり、逮捕に至りました。
また、ニコニコ生放送の配信者が被害者の通夜の会場や加害者少年の自宅に赴き、個人情報を配信したことも問題となりました。

『許された子どもたち』では河川敷、防犯カメラ、少年たちのLINE、凶器を燃やして処分したことなどの事件現場や状況証拠の面に加えて、ネット上での過剰な犯人探しにおいても、この事件との関連性が大きくうかがえます。

「拡散希望」
プライバシーを無視したネットへの書き込み行為や盗撮・配信。『許された子どもたち』では画面いっぱいに、加害者家族を糾弾するメッセージが打ち込まれるシーンが繰り返されます。

正義感が高まり、誰もが「自分は悪を処罰する側」だと錯覚してしまうとこのようなバッシングに転じる恐れがありますね。

さらに象徴的に描かれているのが、絆星たち加害者家族がカラオケで楽しい時間を過ごすシーン。
これは川崎の事件の加害者家族がカラオケ好きだったという報道から、内藤監督が意図したものだということです。
(参照:少年事件と私刑の今を問う「処罰感情が、加害者をより凶悪に」(Lmaga.jp)

カラオケ
罪の意識を微塵も見せずにマイクを握る姿はこちらに違和感と嫌悪感をマジマジと植えつけます。その異常性の一方で、カラオケは絆星一家にとっての日常的なエンターテインメントであり、家族の繋がりを再確認できる場所でもありました。

大津市中2いじめ自殺事件

2011年に滋賀県大津市の中学校で起きた事件です。

中学2年生の男子生徒がいじめを受けて自ら命を絶ちました。
事件前後における学校や教育委員会の隠蔽体質が社会的な問題となり、後年の「いじめ防止対策推進法」の可決に至りました。この事件を受けて、いじめに対する「被害届」が激増したことも特徴です。

またインターネットで加害者の関係者として、無関係の人間の個人情報が晒されるデマ拡散・中傷が行われたことも問題となりました。

ビラまき
『許された子どもたち』では、加害者生徒・絆星の母が、学校で潔白を主張するビラを配るシーンがありました。これは大津の事件で主犯格の生徒の母親が行なった行動に着想を得て作られたシーンだと想像できます。

東松山都幾川河川敷少年殺害事件

2016年に埼玉県東松山市の都幾川河川敷で起きた事件です。

川崎の事件同様、河川敷でリンチに近い形で犯行が行われ、少年一人の命が奪われました。
LINEの電話に出た/出ないを発端とした怒りや、被害者のことを「チクった」犯行契機に加え、犯行グループ内で主犯格をかばうような供述が行われたことも、波紋を呼びました。

裏切り
『許された子どもたち』では、最初に口を割った緑夢に対して、絆星が詰め寄るシーンがありました。東松山の事件では少年の一人が事情聴取に応じた後に「俺が犯人って言ってる奴だれ?キモい」 とTwitterに投稿。個人的に関連性を感じたシーンでした。

秋葉原連続通り魔事件

2008年に東京都の秋葉原で起きた事件です。

信号無視をした2トントラックが次々と歩行者をはね、さらにトラックから降りた犯人がナイフで通行人や警察官を切りつけました。

事件から6年後、犯人の実弟が自ら命を絶ちます。加害者家族が自殺に追い込まれる点では、佐世保高1女子殺害事件東京・埼玉連続幼女誘拐殺人事件とも共通します。

現代ビジネスの齋藤剛さんの記事では、秋葉原事件の犯人の弟が苦しんだ「加害者家族としての逃れられない運命」について細かく記述されています。

『許された子どもたち』で絆星の両親が辿るものとも共通する部分がいくつもありますので、映画をご覧になった方は一読してみてください。

長崎男児誘拐殺人事件

2003年に長崎県長崎市で起きた中学1年生の男子生徒による誘拐殺人事件です。
残虐な手口とともに、鴻池祥肇・青少年育成推進本部担当大臣(当時)による「犯罪者の親も(テレビに)映すべきだ。担任教師や親は全部出てくるべきだ。(加害者の)親なんか市中引き回しの上、打ち首にすればいい」という趣旨の発言が波紋を呼びました。

『許された子どもたち』の内藤監督は、家族にまで責任を問う姿勢、親が責任を取るのが当たり前という風潮が、いまだに日本社会に強く根ざしていると複数のメディアで明かしています。

特に水上賢治さんが行なった内藤監督へのインタビュー記事では細かく語られています。

なぜ被害者家族よりも加害者家族側に重点を置いたのかについては、内藤監督と阿部恭子さんの対談動画(Youtube)でも語られていますのでお時間のある方はこちらもどうぞ。



真里は本当に毒親なのか

最後に、絆星の母親・真里(黒岩よし)について少し感想を書きます。

絆星が犯罪を犯していないことを信じ、最後まで「それでも息子はやってない」を貫き通す真里。
作品内の「世間」だけでなく、絆星のやった事実を知っている我々から見ても彼女の絆星に対する擁護は常軌を逸するように映ります。

ただ、もしも自分が真里の立場だったら、自分は彼女と同じ行動を取らないと言い切れるでしょうか?

真里が絆星を盲信していたのは確かです。

絆星の家に並ぶぬいぐるみ。それはおそらく彼女にとって息子も可愛いお人形の一つであることを意味していますし、絆星は可愛いものでしかない、自分の目に入れても痛くない理想的な存在であることも、彼女の絆星に対する接し方を見ればわかります。

絆星への止められない擁護は自身の擁護でもあり、結果的に自分たちを動けなくすることも真里はわかっていたはずです。
それでも息子を守ろうとするのは、彼女が絆星の母親であるからです。

「うちの子がそんなことするはずない」から「この子を守れるのは私しかいない」へと彼女のスタンスも変化していきます。というか、状況がそうさせました。
そして最後には、「このお母さんを守れるのは僕しかいない」に絆星が変化していきます。

お互いに絆星が、お母さんが、間違った選択をしてしまったことには気づいているはずです。だからその間違いを理解し、間違いとともに歩んでいくこと。それが「守る」ことなのかなと思います。

絆星の両親は彼に対する育児放棄(ネグレクト)とか体罰とか、過度な期待とか甘やかしとか、そういうことをしてきた訳ではありません。
いわゆる少年犯罪が全て家庭の問題を原因にして起こっているわけではもちろんないんですけど、少なくとも相関性はあります。

確率で言えば低いはずなんです。こういう普通の家庭で育った子が非行に走るのは。

だからこそ、普通に見える子どもたちが「許されない」ことをしでかしてしまう『許された子どもたち』は、(観る側に)自分たちが加害者側へ行く可能性を、できれば考えたくない可能性を示して、逃げずに向き合うことを強制します。

その向き合うことはストレスだったり嫌悪感だったり、やり場のなさだったりをこちら側に植えつけます。
加害者側に想いを馳せる人もいれば、罪を犯した側の擁護と捉える方もいるでしょう。

何の問題もないように我が子を育ててきたのに、息子の犯罪一つで糾弾される点では、ある意味では両親は巻き込み被害とも言えます
親なんだからその責任を背負うのは当然でしょ?だけで済む話じゃないんです。

どうして被害者家族(樹の両親)と向き合おうとしないのか、絆星を突き放さないのか。しないんじゃなくてできないんですよね。
おそらくそこまで頭が回らない。できるのは絆星を守り、自分の親としての存在意義を守ることだけ。

もし自分に子どもがいて、その子が絆星と同じような犯罪を犯したら。それでも真里と同じような行動を取らないと言い切る自信は、個人的にはありません。

 

最後にもう一度問います。

もし、あなたの子どもが人を殺してしまったら、どうしますか?

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