映画の『凶悪』です。
13年、白石和彌監督、山田孝之、ピエール瀧、リリー・フランキー。
新潮社刊『凶悪』とのすり合わせが主になるので、映画を未見の方はご遠慮ください。
あらすじ紹介
取材のため東京拘置所でヤクザの死刑囚・須藤と面会した雑誌ジャーナリストの藤井は、須藤が死刑判決を受けた事件のほかに、3つの殺人に関与しており、そのすべてに「先生」と呼ばれる首謀者がいるという告白を受ける。須藤は「先生」がのうのうと生きていることが許せず、藤井に「先生」の存在を記事にして世に暴くよう依頼。藤井が調査を進めると、やがて恐るべき凶悪事件の真相が明らかになっていく。
スタッフ、キャスト
監督 | 白石和彌 |
脚本 | 高橋泉、白石和彌 |
藤井修一 | 山田孝之 |
須藤順次 | ピエール瀧 |
木村(先生) | リリー・フランキー |
藤井洋子 | 池脇千鶴 |
登場人物の紹介はこの後でも触れます。
映画のネタバレ感想
以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
キャラクターの相違点
まず、人物について。
書籍版では一部実名を使っていたけど、映画では一貫して仮名が使われている。
左が映画版の名前と役者、右が書籍での表記(敬称略)。なお人物説明内の名前は映画版に準拠します。
須藤純次(ピエール瀧)…後藤良次
死刑囚。塀の中で上申書を作成。
藤井(山田孝之)…宮本太一
須藤を取材した雑誌記者。新潮ではなく『明潮』になっている。認知症の母と妻の三人暮らし。妻を演じるのは池脇千鶴。
木村(リリー・フランキー)…三上静男
“先生”。須藤が告発した黒幕。
五十嵐(小林且弥)…小野塚(仮名)
須藤に心酔している舎弟。現実では実刑も、映画版では”先生”から五十嵐の裏切りをほのめかされ、誤解した須藤によって射殺される。須藤は”先生”が五十嵐殺害を嵌めたことにも告発の一因があると主張。
書籍では藤田という可愛がっていた舎弟の世話を”先生”に一任するも自殺に追い込まれ、告発の動機となったと記されている。殺人事件に加担した小野塚(仮名)と藤田を合わせたキャラクターと仮定。
日野(斉藤悠)…鎌田(仮名)?
木村の舎弟。木村の頼みにより須藤の下に入るが、作中では須藤や五十嵐の狂気ぶりには染まり切れていなかった。
佐々木の逃亡を幇助したとして須藤と五十嵐に順子ともども殺害される。これは書籍版の宇都宮事件に相当する。(なお書籍では不義理を働いたこの男はパシリとしか表記されていない。)
書籍版では鎌田が不義理を働いた記述はないので、明確なモデルはないと思われる。
田中順子(範田紗々)…?
書籍版の宇都宮事件の被害者女性。映画では須藤らと宴席で飲むシーンがあり、日野が彼女に対して好意を見せることがほのめかされていた。殺害される際、薬物を打たれ、乳房をあらわにして最期を遂げるのでインパクトは強い。
遠野静江(松岡依都美)…須藤の内縁妻
佐々木(米村亮太朗)…斎藤正二
須藤のムショ仲間。つまらない嘘の話で須藤を激昂させ、那珂川から簀巻きにして落とされる。通称ケンちゃん。
森田(外波山文明)…山田正一(仮名)?
木村が殺害してしまった男の処分を手伝う。現在植物状態。
福森(九十九一)…岡田毅(仮名)?
島某という男性の殺害を依頼。作中では老人介護会社の人間。
上の森田とともに、書籍版の山田正一、岡田毅(いずれも仮名)といった”先生”の周りの共犯者を描いたと思われる。
芝川(村岡希美)…無し
藤井の上司の編集長。
被害者家族で言えば、書籍版の”カーテン屋”こと栗山さんとその家族(逮捕)は牛場という名前で描かれていて、内装業ではなく電器店を営んでいる。
「先生」の不気味さは半減
映画版ではまず須藤の佐々木殺害、日野と順子殺害、五十嵐に発砲と、彼の殺し屋ぶりを見せたのちに須藤と藤井の面会へ移る。
そこからはしばらく藤井の調査、彼の家庭内の状況といった描写が続く。書籍版はルポ・ドキュメントのため、筆者のプライベートな部分を描く必要もなかったが、山田孝之演じる藤井の環境を描くことで終盤への伏線を作って行った。
藤井は早々と木村の本名を突き止める(実写だと先生という代名詞を貫くのが不適かもしれないですね)。
僕のイメージでは、須藤や現場近くの人間の証言によって藤井が木村という人間の印象を作っていく際に、ぼやけた影や顔を隠したカットなどを使い書籍で感じた気味の悪さを再現してくれたらと思ったが、ずいぶんすんなり。
そして、シーンは恐らくこの映画で最も残酷でありながら、最も現実に近い犯行グループたちの凶行に移っていく。
藤井は木村の事務所を訪れ、窓から中の様子をうかがう。
部屋の中にカメラは移り、木村は借金を踏み倒そうとした男の首を絞め、殺してしまった。
窓の外に藤井はいない。
つまり、窓の外(現在)から窓の内(一連の事件の当時)へと鮮やかな場面転換が行われたのである。ここから小一時間ほどであろうか、木村と須藤、それに五十嵐や日野も混じっての凶行が描かれる。書籍を先に読んだ人間としては一番盛り上がる時間帯。
お前もお前もお前も凶悪だ
ただこの映画がオリジナリティを出しているのは須藤や木村の殺し(ぶっ込み)のシーンではなく、むしろいくつかの事件を端折ってまで入れているのが藤井の家庭問題である。
認知症の姑に辟易している藤井の妻(池脇)。しかし、藤井は妻を助けることもせずに我関せずを貫く。
終盤で妻が藤井に言い放つ一言は衝撃的であり、彼女の凶悪性を感じさせるもの。
その一方で、事件取材に一心不乱にのめり込み家庭をかえりみない藤井もまた凶悪だ。
むろん、須藤と木村の犯罪者2人はまごうことなき凶悪であり、法廷で、面会で藤井は彼らを激しく叱責する。
須藤を取材しながらも、それは彼への加担でもなければ彼の犯した罪を軽くするものでもない。
ただ、木村という悪の枢軸を白日の下に晒すことに対して藤井は執念を燃やしていた。
彼の語る正義感とやらはまた、別のものから見れば屈折しており、彼もまた凶悪にカテゴライズされる。
須藤に心酔していた五十嵐や、犯罪の片棒を担いだ福森、牛場一家も含めて、この作品は普通の人間にも潜んでいる凶悪性をあぶり出す作品だった。
書籍版と比べて構成や事件の詳細、また警察との絡みは随分変わっているし、藤井の取材もそれほど熱心には描かれていない。
しかし、書籍をベースにしてもう一つの凶悪、しかも犯罪者ではなく日常にある凶悪を描いたことは凄い。
単なる焼き直しではなくて、積極的な改変だと思う。