こんにちは。織田です。
今回は2021年公開の映画『由宇子の天秤』をご紹介します。
ドキュメンタリーディレクターを務める主人公・由宇子が直面する「真実」。
真実を送り届けるディレクターとしての矜持と、一人の人間としての自分の人生と。
天秤のはかりにかけるように、正しさとは何なのか?と問うてくる作品です。
“正義とは何だろう”と考えさせる素晴らしい映画は少なくありませんが、『由宇子の天秤』はその中でもかなり私たちの現実にガツンと問いかけてくる作品でした!
また152分と2時間半の映画ながら冗長さが全く感じられず、素晴らしい脚本でした。
監督・脚本・編集は春本雄二郎さん。主人公の由宇子は瀧内公美さんが務めています。
この記事では「真実」、「正論」、「最善」という部分から感想を書いていきます。
ネタバレになりますので映画未見の方はご注意ください。
あらすじ紹介
3年前に起きた女子高生いじめ自殺事件を追うドキュメンタリーディレクターの由宇子は、テレビ局の方針と対立を繰返しながらも事件の真相に迫りつつあった。そんな時、学習塾を経営する父から思いもよらぬ〝衝撃の事実〞を聞かされる。大切なものを守りたい、しかし それは同時に自分の「正義」を揺るがすことになるー。果たして「〝正しさ〞とは何なのか?」。常に真実を明らかにしたいという信念に突き動かされてきた由宇子は、究極の選択を迫られる…ドキュメンタリーディレクターとしての自分と、一人の人間としての自分。その狭間 で激しく揺れ動き、迷い苦しみながらもドキュメンタリーを世に送り出すべく突き進む由宇子。彼女を最後に待ち受けていたものとはー?
スタッフ、キャスト
監督・脚本・編集 | 春本雄二郎 |
木下由宇子 | 瀧内公美 |
由宇子の父 | 光石研 |
小畑萌(メイ) | 河合優実 |
メイの父 | 梅田誠弘 |
長谷部仁 | 松浦祐也 |
矢野登志子 | 丘みつ子 |
矢野志帆 | 和田光沙 |
小林医師 | 池田良 |
富山宏紀 | 川瀬陽太 |
瀧内公美さんと光石研さんは『彼女の人生は間違いじゃない』でも親子を演じていましたね。
二つの真実を追いかけて
以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
映画『由宇子の天秤』では、主人公の由宇子(瀧内公美)が二つの事象の“現実”、そして“真実”に向き合っていきます。
一つは自分たちが手がけているドキュメンタリー番組で追っている、3年前に起こった女子高生自殺事件。
女子高生・長谷部ひろみさんが自殺し、なおかつ生徒との関係が疑われた教師・矢野先生も自ら命を絶ちました。
女子生徒の父親(松浦祐也)、また矢野先生の遺族である母(丘みつ子)、その娘(和田光沙)を取材・撮影し話を聞くことで、由宇子たちは事件の本質、真実に迫っていきます。
もう一つは父親が経営し、自身も(仕事の合間を縫って)講師を務めている塾の生徒・小畑萌(河合優実)について。
父親(梅田誠弘)と二人暮らしの萌は、家にいる時間が短い父親との関係がよくなく、虐待を受けている可能性も滲ませます。父親は働いているものの、定職につけていないのでしょう。ガス代を滞納し、健康保険料も払えていないので娘を病院に連れていくこともままならない状況です。
萌は物語の中盤で体調を崩し、彼女の口からは「妊娠したかもしれない。相手は木下先生(由宇子の父)」と衝撃の言葉が飛び出しました。
撮影クルーとテレビ局
ディレクターとしてドキュメンタリー番組を制作する由宇子ですが、彼女や富山(川瀬陽太)、池田(木村知貴)は、テレビ局の社員ではありません。おそらく番組制作会社の派遣・契約社員という立場です。
由宇子たちは取材・撮影した素材をもとに番組構成をテレビ局側に提案し、編成側からOKや直しを受けることになります。
この外部の視点が由宇子たちのドキュメンタリー番組では、マスコミ(テレビ局の「報道」側)を糾弾したものとしても描かれていて、それを由宇子は「自浄作用」と表現しています。
ただ局側は由宇子が示した「自浄作用」の構成に首を縦に振ることはありませんでした。
真実と正論と最善
由宇子が向き合っていく事件と萌、この映画ではそれぞれの新たな真実がむき出しになっていきます。
ただし、その真実が必ずしも「正しいか」というとまた違いました。
事実としての「正しさ」と、道義的な「正論」と、当事者たちにとっての「最善」はイコールではありません。
どういうことなのか、それぞれの事例から見ていきましょう。
自殺事件の場合
まずは高校生・ひろみさんとその教師・矢野先生が自殺した事件の場合です。
自殺した生徒と関係にあった、と学校や報道から濡れ衣を着せられたとして、矢野先生は自らの命を賭して抗議しました。これは彼の遺書が物語っていることです。
由宇子たちは矢野先生の遺族から話を聞き、矢野先生が学校や報道に追い詰められたものという形でドキュメンタリーを構成。「真実」を白日の下にさらそうとしました。
由宇子たちのスタンスとしてあるのは、女子高生の遺族や、矢野先生の遺族、また学校や報道といったどの「側」におもねるわけでもなく、ただ真実を世に出したいという思いだけです。
矢野先生の無念を晴らすため、ではなく由宇子たちのドキュメンタリーがオンエアされることによって結果的に矢野先生の無念が晴らされる、という順序です。
しかし、矢野先生の遺族・志帆(和田光沙)が先生の遺書を改ざん(というか自分で書いたものにすり替え)していたことが彼女の自白から明らかになります。
覆される真実
矢野先生は無実ではなかったんです。これは番組の構成を根本から覆してしまう新事実です。そしてその新事実はたぶん誰にとっても幸福ではない。
関係者が語る「真実」を信じ、その「真実」を番組という形で送り届ける由宇子たち。それを恣意的に編集し、自分たちの都合の良い「真実」をつくりあげる編成部。
そして新たに語られる「真実」は、由宇子たちが追い、信じてきた「真実」を覆してしまう。
真実を打ち明けた志帆を由宇子は富山の前から逃がしました。事実誤認があったと認めましょうと富山に迫りますが、富山からしたらそんなことを承認するのは無理です。
おまえどっち側なんだよ。
「側」ってなんだよ。
このままだったら私たち矢野先生を追いつめたマスコミと一緒だよ!
由宇子の取った行動は多分正論ではありません。けれど、志帆たちをこれ以上追い詰めないために選択した「最善」ではあったはずです。
萌の妊娠の場合
続いて萌(河合優実)のケースです。
体調を崩し、妊娠が明らかになった萌。その相手は塾講師であり、由宇子の父でもある木下政志(光石研)でした。これは萌の口から語られた真実です。
由宇子の父は「萌の父親に話そう、その上で罰は受ける」と覚悟を決めましたが、由宇子は「司法はそうでも社会は許してくれない」と一蹴します。
「真実」を解き明かす判断から「最善」へと舵を切ります。
真実を明らかにする代償
これは矢野先生の遺族を取材して、由宇子が痛感していたことでもあるでしょう。
矢野先生のお母さんはアパートで光を最小限に絞って気配を消しながら生活しています。いつ引っ越してもいいように、家のものは最小限です。
事件があってから何度も引越しを迫られました。朝起きたら2時間かけて自分たちの住所がネットに晒されていないかチェックして、そこからやっと一日が始まる、と言います。
志帆とその娘も、執拗な出自探しと醜悪な風評被害に悩まされていました。
真実を明らかにしたところで誰が幸福になるのか。あなたは罰を受けて楽になれるかもしれないが、真実をさらすことでどれだけの関係者が人生をつぶされるのかわかっているのか、と問います。萌にとっても、周りの人間にとっても、最善なのはその選択ではない。
つまり真実の隠蔽です。
人の命がかかっているんだ
萌の安全を鑑みて病院での中絶を勧める知り合いの医師(木村知貴)に対しても、由宇子は頑なに病院へ萌を連れていくことを拒み、違法な薬物による中絶を懇願します。
ここの二人の会話では「正論と最善は違う」という言葉が飛び出しています。
『由宇子の天秤』は真実を追求する立場・信念の由宇子が、「最善」を探して選択を天秤にかけるところが最大の魅力だと思います。
ただし萌は子宮外妊娠の可能性が高まり、薬物による秘密裏に進める中絶は厳しくなりました。
母体(萌)の安全を最優先に、医師は病院での手術を強く進言しましたが、ドキュメンタリー番組を世に出すまで待ってほしいと話す由宇子。人の命がかかってるんだぞ(正論)という医師に、こっちだって人の命がかかっている(既に死んでいる)と叫ぶ由宇子。
いや、萌ちゃん大丈夫なのかって話なんですが、ここでも由宇子は正論と最善を秤に掛けています。
物語の終盤で由宇子は塾の男子生徒から萌の実態、父以外の男性とも寝ていてウリもやっている、あいつはすぐ嘘をつく、という情報を聞き、萌を追及しました。
萌の言い分の「真実」から第三者の語る「真実」へと信じる対象を塗り替えます。
そこにあったのは「自分たちにとっての最善」です。
これは都合の良いように長谷部さんの発言を切り取って編集したテレビ局側と、ある意味近いのではないでしょうか。
嘘と救い
テレビ局の恣意的な編集や、男子生徒の言い分を信じて萌を追及した由宇子の行動。それはある一つの真実を「脚色」したものです。「嘘」と言い換えてもいいと思います。
ただ、その脚色とは単に当事者にとって「都合が良いもの」になるだけの露悪的なものかと言われればまた違うと思うんですよね。
救われるものがあるから脚色は行われます。ある一方にとっては、「最善」の選択となるわけです。
テレビ局の上層部が、報道と学校の責任を問うた長谷部さん(松浦祐也)の発言を切り取り、「学校」だけに責任を押しつけたところは、事実の改ざんとして糾弾されるべきだとは思いますが、テレビ局側からすれば報道部のメンツや社員たちの人生を守るために、そんな簡単に「自浄」なんてできないんですよね。
「真実」に照らしあわせて間違いを認めてしまえば、関係各所に多大な迷惑がかかります。
報道の自由や権利、自分たちの存在意義を脅かされるかもしれません。
だから長谷部さんの言葉を握りつぶして改ざんしたところは、正論ではなくても彼らにとっては最善の選択でした。その選択によって救われる人々がたくさんいるからです。
嘘に灯して
また本作は、タイトルを「嘘に灯して(仮)」から「由宇子の天秤」に更新致しました。
これからは「由宇子の天秤」としてお見知り置きください。本作は現在、海外の国際映画祭へ応募中です。
日本での公開は2021年を予定しております。
皆様、引き続き応援宜しくお願い申し上げます🔥#由宇子の天秤— 映画『由宇子の天秤』🎊 動員1万人突破!! (@yuko_tenbin) August 31, 2020
『由宇子の天秤』はタイトルを「嘘に灯して(仮)」から更新して上映に至りました。
この仮題の『嘘に灯して』も映画をよく表したものだと思っています。この映画は(一つではない)真実の裏返しとして、たくさんの嘘が散りばめられているからです。
カメラを回し、スマホを録画モードにして真実を追求し、時には対象を追及していく由宇子。
由宇子もまた、これまで書いてきたように「嘘」を「真実」として背負ったり、もっと直接的なところで言うと、撮らないでくださいねと釘を刺されたにも関わらず矢野母のアパート外観を撮ったりと「嘘」を重ねています。
そのどれもが彼女にとって必要だったからです。
『由宇子の天秤』は、真実=正義で嘘=悪という二項対比ではありません。
繰り返しになりますが、「真実」は一つではないし、「真実ではないもの」が「嘘」とするのであれば、嘘に満ちあふれた世界です。
ただし、その「真実ではないもの」の裏にはたくさんの正論と最善があります。だから真実ではないものを否定なんて絶対にできないです。自分は。
真実なんてない、の普遍性
自分自身、映画を鑑賞する時って登場人物に感情移入して観ることが多いんですが、『由宇子の天秤』では同情とか憤りとか共感とか、そういう感情があまりせり上がってきませんでした。
第三者的に2時間半、食い入るように見つめていました。
でも客観でありながら、圧倒的に自分ごととして感じられるんですよね。
自分だったらどうするだろう?をずっと問いかけていました。
公平な真実なんてない
そもそも真実を追求する由宇子たちのドキュメンタリー番組は、取材対象者の言葉を「真実」として信じるところが前提です。
けれど、その言葉の「真実」は揺らぎかねない。ただそこを疑ってしまうと、ドキュメンタリーは何が本当なのっていう根本の話になってしまいます。
だから真摯に取材し、取材対象者の言葉を信じていくことで、ありのままの「真実」をつかもうとするわけです。
由宇子は矢野先生のお母さんと、また萌と一緒に、「1ついいですか」と言ってパンをもらって一緒に食べることで、彼女たちの心の壁を溶かしていきます。志帆、その娘とオムライスを食べてたのもそうですね。
しかし心を開いてもらうことは、由宇子が取材対象者「側」に心の天秤を傾けることにもなります。
だから由宇子の信じる真実は事実ではなく、矢野先生の遺族や萌が主張する真実に寄ったものになりました。
求めるのは真実か正論か最善か
この映画を観て真実、正解なんてどこにもないんだと絶望したかと聞かれれば、そうじゃないです。
私たちの日常に置き換えても、人は言葉を通じて物事を知り、相手を信用していきます。
誰しもが、嘘よりも真実を知りたいし、聞いた言葉は真実であってほしい。相手の言うことを真実だと信じることは生きていく上である意味前提です。
一方で本当の真実なんてものは話している本人しか知り得ないし、たとえ真実を話したところで、第三者が情報を取捨選択した瞬間、それはきっと真実ではなくなってしまいます。
ではその「真実ではないもの」の数々と向き合っていく時に、嘘だと疑うにしても、正しいと信じるにしても、どういう行動をとるのか。
そこで判断の物差しになってくるのが、「正論」だったり「最善」だったりすると思うんですよね。
コロナ以降の現代で考えれば、例えばマスクをするしない、あるいはマスクの素材ひとつ取っても、私たちは選択を迫られています。
開示された情報を真実だとして従う人もいれば、陰謀論だとして拒否する人もいます。そのどれもが、個々人の正論や最善に基づいたものであり、一方で世間の流れや新しい情報の開示によって、正論や最善は刻一刻と変わっていきます。
ドキュメンタリー監督とテレビ局、実父の犯罪など、刺激的な題材ではありましたが、自分だったらどうだろうと、自らの生活に落とし込んで考えさせられる作品でした。
瀧内公美さんの揺るぎない代表作誕生ですね。素晴らしかったです!
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。