映画『ミセス・ノイズィ』ネタバレ感想|あなたの常識が試される…衝撃作です!

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こんにちは。織田です。

皆さんには、嫌いな人がいますか?
最近、誰かと喧嘩したことはありますか?

人間が喧嘩をするとき、その怒りの原動力となるものは、自分が受けた「不利益」だったり、相手に対しての「不信感」「嫌い」という感情だったりします。

喧嘩の多くの場合、お互いの「言い分」がぶつかり合っている状況です。
どっちが正しいか、どっちが間違っているのか。

学校であればクラスメイトや先生に仲裁を求めるでしょう。
事が大きくなれば裁判に至る場合もあるでしょう。

事前情報なしで観てほしい!

今回ご紹介する映画は、隣人トラブルをテーマとした『ミセス・ノイズィ』(2020年)です。

本当に素晴らしい映画でした。マジで面白かったです!

なぜ人はいがみ合うのか。
トラブルの火種はどのようにして生まれるのか。

共感と驚きとゾクゾクの連続です。

どうか映画館でご覧になっていただきたい。それくらい『ミセス・ノイズィ』は衝撃的な映画でした。

「今、あなたの常識が試される!」

映画の公式サイトや予告編ではこのようなキャッチフレーズが登場します。
是非とも「常識」を試されに、映画館へ足を運んでいただきたいと思います。

この記事では前半部分で映画の予告編や配役情報、簡単なあらすじ、後半部分でネタバレを含んだ映画の感想を書いていきます。

これから観ようかなと思っている方は、ここまでで読むのを止めてもらって大丈夫です!
事前情報なしで観た方がきっと面白いです!



予告編

あらすじ紹介

母親として日々家事をこなし、小説家としても活動する吉岡真紀は、スランプに陥っていた。あるとき彼女は、隣人の若田美和子から嫌がらせを受けるようになる。真紀は美和子がわざと立てる騒音などでストレスがたまり、執筆が進まず家族ともぶつかってしまう。真紀は状況を変えようと、美和子と彼女からの嫌がらせを題材にした小説を書き始める。

出典:シネマトゥデイ

騒音おばさん

『ミセス・ノイズィ』公開にあたって注目されたのが、2005年に話題となった「騒音おばさん」です。
奈良騒音傷害事件とも呼ばれ、英字新聞では「Mrs.Noisy」と表現されました。

この「騒音おばさん」は、布団を叩きながら罵りの言葉を叫んだり、ラジカセで大音量の音楽を流したり。
ご近所トラブルを巻き起こして有名になってしまったわけですが、この映画『ミセス・ノイズィ』は騒音おばさんをモチーフにしています。

あの事件を覚えている人にとっては、思い出すきっかけになるとは思いますが、当時を覚えていない方、また事件を知らない世代の方が映画を観ても、全く問題ありません。

『ミセス・ノイズィ』のスタッフ、キャスト

監督 天野千尋
脚本 天野千尋、松枝佳紀
吉岡真紀 篠原ゆき子
真紀の夫 長尾卓磨
真紀の娘・菜子 新津ちせ
隣人のおばさん・若田 大高洋子
若田の夫 宮崎太一
真紀の従兄弟・直哉 米本来輝
大家さん 三坂知絵子

主人公の真紀(篠原ゆき子)は作家業を営む一児の母。旦那さん(長尾卓磨)と、未就学児の娘(新津ちせ)がいます。

新津ちせと三坂知絵子
真紀たちの娘を演じた新津ちせさんは、真紀たちのマンションの大家さんを演じた三坂知絵子さんの実の娘なんですね。親子共演にも注目です!

一家3人が引っ越した郊外住宅で、隣に住んでいたのは、早朝からでかい音で布団を叩くおばさん(大高洋子)
おばさんは夫(宮崎太一)との二人暮らしのようです。

在宅作業で小説を書く真紀は、隣の騒音おばさんの出現にフラストレーションをためていきます。果たしてどうなってしまうのでしょうか?

 

小説版も映画公開と同日に発売されました!

この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。




映画のネタバレ感想

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

ここからは映画を鑑賞された方向けに、感想を書いていきます。

隣のババアは悪く見える

主人公の真紀(篠原ゆき子)は、作家「水沢玲」として活躍する一児の母。

デビュー作「種と果実」が大ヒットしたものの、長いスランプに陥っており、夫の裕一(長尾卓磨)娘の菜子(新津ちせ)とともに、マンションに引っ越して心機一転を図ります。

真紀がパソコンで執筆作業に励む早朝に、飛び込んできたのは何かを叩く大きな音。

ベランダに出てみると、隣のおばさん(大高洋子)がものすごい形相で布団を叩いています。
こんな朝っぱらに。正気かよ。

まだ引っ越しの挨拶も済ませていない中で、第一印象がこれです。
真紀の心の中に、隣のおばさん=非常識/やばい奴、という図式が刻み込まれます。すなわち、不信感ですね。

やべえ隣人の隣に引っ越してきてしまった。
締め切りが近いはずなのに、隣人の騒音に集中力を削がれ、真紀の原稿用紙には「ああああああああ」が並びます。

バンバンと騒がしく、ノリノリで布団を叩く隣人のおばさんを、真紀が「ババア…!!」と罵るまで時間はかかりませんでした。

隣の芝は青く見える、ということわざがありますが、『ミセス・ノイズィ』は、隣のババアは悪く見えるを追求した作品ですね。

真紀の言い分

朝っぱらからバンバン布団を叩いて騒音を撒き散らし、外に出ていた娘・菜子と勝手に公園で遊び、あげくは菜子を自分の家に連れ帰って連絡すら寄越さない。

こっちはあんなに心配したというのに!!

自分の執筆作業だけではなく、菜子にも襲いかかろうとする魔の手に、真紀は怒り心頭です。
小さいお子さんを持つ親御さんならわかりますよね。

明らかに要注意人物な隣人が、自分の目を盗んで我が子に手を伸ばしたのですから。
誘拐と言っても差し支えありません。

隣のババアは、こちらが怒って注意しても騒音をやめようとせず、むしろ挑発的なものにエスカレートしていきました。
菜子を(極端な言い方をすれば)さらったことについても、娘から目を離したアンタが悪い!母親失格!と屈辱的な言葉を浴びせられます。

はぁ?!悪いのはそっちでしょ?!

真紀は食卓でも家族のことは差し置いて、いかに隣人の若田がやべえババアかということをブチ切れモードでまくし立てます。
娘も旦那も引くほどに、真紀の脳内は「あの隣人ありえない」で埋め尽くされていきました。

おばさんの言い分

観ている側に、真紀(篠原ゆき子)と同じ「やばいババア」を植えつけた後、物語は隣人おばさん(大高洋子)の視点に移ります。

真紀にとっては生活権を侵害する騒音トラブルでしかない布団叩きには、実はそれをしなければならない理由が隠されていたんですね。

おばさんの視点からすると、布団を叩くのには若田家のある事情があり、それは真紀たちが越してくる前から行なっていたことでもありました。

それを新入りのお隣さん(=真紀)は挨拶もソコソコにいきなり苦言を呈しはじめ、しまいには人格を否定するような暴言を吐いてきたわけです。当たり屋気味に、いきなり喧嘩を売られたわけです。

喋ったこともない赤の他人に、いきなり「非常識!」と罵られたらどうでしょう。
そんなこと初対面で言ってくる方が非常識!と逆ギレしない自信はありますかね?僕にはない。

アンタの事情なんざ知らねえよ

あらゆる「争い」についての普遍的真理をテーマにした、天野千尋監督によるオリジナル脚本。

公式サイトではこのように書かれており、極論すればこの映画はてめえの個人的事情なんて知らねえよの繰り返しです。

記事の冒頭で喧嘩にはお互いの「言い分」がある、と書きましたが、物語は「純然たる加害者」に見えたおばさんの「言い分」も描いていきました。

口喧嘩をするときに、両者はお互いの正義・言い分を信じて相手を論破しようとするわけです。
そこへの疑いはありません。あったら負けです。
相手が(自分よりも)どれだけ悪いか、を意識的に、あるいは無意識的に見つけていくわけです。

 

映画で軸となるトラブルの争点はこの二つ。

・布団を叩いて騒音を撒き散らすことの是非。
・親への断りもなしに菜子と関わることの非常識。

前者はベランダで、後者は玄関先で壮絶な口論が行われました。

同じシーンが二人の視点で再度描かれるわけですけども、興味深いのは、真紀視点と隣人おばさん視点で、相手の悪意が実際よりも増して見えるところですね。

観ている側に「本当の被害者は私です」と刷り込ませているんですよ。

真紀側から見たら、こちらがちゃんと注意しているのに反省もせず、やることなすこと口元を吊り上げたような笑みを浮かべているように見えるし、おばさんからしたら、真紀は挑発的な嘲笑が顔に貼り付いているように映ります。女流作家だかなんだか知らないけど偉そうに振る舞う、非常識な新入りなわけです。

しかもお互いの一番論理的な言い分が、全く相手の耳に届いていないのが悲惨。
おばさんは菜子を家に招きながらも真紀に連絡を寄越さなかったことに、詫びを込めた説明をしているのに、頭に血が上った真紀には全く聞こえていません。逆も然りです。

映画内では弁護士(田中要次)が言ってましたが、人の喧嘩っていうのは、「自分がどこから見るかで起こる」ものなんですよね。

やったやられたの諍いっていうのは、小さな子供の頃からおじいさんおばあさんに至るまで、ずーっと人間にまとわりついてくる種類のトラブル。
いやはや、本当にお見事でした。

傑作ご近所物語の誕生

作家・水沢玲として燻っていた真紀(篠原ゆき子)は、従兄弟の直哉(米村来輝)の入れ知恵で、隣人おばさんを題材にした小説執筆に着手。題名は『ミセス・ノイズィ』。

小説の中でおばさんは、「井村光子」という名前で描かれています。

一方で直哉は真紀とおばさんのバトルの様子を無断で動画に収め、公開します。

現実のバトル風景を収めた動画はみるみる間に再生回数と話題性を獲得し、相乗効果で真紀の連載の人気も爆上がりします。

フィクションにおいて「あるある」が人気獲得に繋がるのは小説に限ったことではないですが、「あるある」が「ノンフィクション」となった瞬間、その説得力はさらに上がりますよね。

自分がどれだけ騒音に、非常識に苦しんでいるのかも真紀にとってはリアルな体験です。原稿にも実感がこもります。

実在の迷惑隣人をネタにしたことで、真紀と直哉はクリエイター、プロデューサーとしての価値、報酬を獲得していきました。

炎上マーケティングの是非

やばい隣人にフラストレーションを溜め、バトルがその渦の半径を拡大していく様子はコミカルに、リズミカルに描かれます。

映画の前半はそれを傍観者として見ていたんですが、この作品は次第に傍観者であることを許さなくなっていきます。

彼女たちのエンタメバトルを眺めていた自分たちが、急に映画内の当事者になったからです。

いまどき就職なんて負け組のすることだ、と言う直哉のとった手法は、炎上マーケティングでした。
真紀が原稿を持ち込んだ出版社の若手編集者・山田(和田雅成)も、『ミセス・ノイズィ』をこれはバズると言って後押ししました。

その結果、どうなったかは皆さんご存知の通りですね。

マジで闇が深いんですよ。

映画を観終わった後だと、直哉や山田の決断は軽率で片付けられるんですけど、悪手に見えるこの炎上マーケティングって今の時代の正攻法でもあります。

炎上商法だろうが、名も無き者が作ったコンテンツは拡散されて話題になるのが、まず大事なことなんですよね。

どんなに素晴らしく、正しいものだったとしても、世間の話題の網に引っかからなければ誰にも届かない。良いか悪いかを判断される土俵にすら上がれない。

隣人おばさんをネタにすることに尻込みする真紀を直哉はセルフプロデュースができない前時代的なおばさんだと言って、『ミセス・ノイズィ』の企画に対して慎重な姿勢を見せた先輩編集者を山田は、今の時代の売り方は違うとバッサリ斬りました。

人々の興味に燃料を投下せよ

モノやサービスを享受する我々は「消費者」という言い方をされます。

これまで以上に今の時代に求められているのは、「消費される」コンテンツです。人々の消費欲を満たすものです。

必要とされているのは燃料となるものなんです。
それが例え最終的に炎上という結果に追い込まれるパターンであっても。

自分自身の話をすると、僕は直哉(米本来輝)山田(和田雅成)のようにとにかく話題性を獲得する方を選ぶやり方を、怖いと思うタイプの人間です。

以前メディアの会社で働いていましたが、そこを辞めたのは(誰かを傷つける可能性があっても)お客さま=消費者の導火線に火をつけることが第一とされる炎上上等主義に、自分がついていけなくなったからです。

ただし、そこで働き、時に炎上しながらも“話題性の高い”コンテンツを生み出している人たちがみんな麻痺しているかといえばそうではなく、倫理的な正しさとはある程度割り切って仕事と捉えている同僚も当然いました。

いや、やっぱり正しいんですよ。

インフルエンサーと呼ばれる人々は(予期せぬもの、理不尽なものも含めて)炎上を経験している方が多いし、コンテンツは誰かの目に触れることがなければお金を生み出しません。

この世界の10人が知っていて、10人全員が絶賛するものと、賛否両論どころか否が多くを占めていても100万人が知っているものがあったとすれば、後者の方が圧倒的に正しいわけです。

真紀のような作家には誰しもがなれるわけではありません。
けど、真紀の身に、おばさんの身に起こったSNS炎上、さらにはメディアによるリンチは、この時代誰の身にも起こりうることではないでしょうか。

隣人バトルを笑いに笑っていた消費者が、一転してその作り手を叩く側に回り、嗤っていく。

正義って何?どうすれば良かったの?

『ミセス・ノイズィ』の衝撃的な展開にはマジで鳥肌が立ちました。
何度も言いますが、この映画は僕たちに傍観者であり続けることを許してくれませんでした。

ハッピーエンド。なのかな?

ドタバタバトルは洒落にならないレベルの社会現象となり、結果的には若田のおじさん(宮崎太一)の自殺未遂という悲劇を生み出してしまいました。
おばさん(大高洋子)は傷つき、間接的な加害者となった真紀(篠原ゆき子)も深い傷を負います。

映画は結末として、大幅に修正されて心温まる(正真正銘の)ベストセラーとなった『ミセス・ノイズィ』を、真紀がおばさんに送り、おばさんがそれを読んで楽しそうに笑うというものを用意してきました。
仲直りですね、めでたしめでたし。

真紀たち一家は半ば追い出される形であのマンションを離れ、今度こそ心機一転で新たな町で暮らしています。
離婚危機も乗り越えて。
良かったね菜子ちゃん。良かったね真紀さん。良かったね裕一さん。

これを美談、ハッピーエンドと捉えればそれまでなんでしょうけども、個人的には強烈な恐怖が残りました。

本当にそれでいいの?
真紀家の問題は引っ越すことで解決されたの?
とんでもない事件になってしまったけど、喉元過ぎれば…で風化させていいの?謝るのは真紀だけ?

常識の向こうの無責任

隣人バトルの根っこには、真紀たち一家の問題もありました。

湯沸かし沸騰器のように怒り狂う真紀も真紀でしたが、夫・裕一のとった「まあ頭冷やせよ、真紀の方もあまり相手を悪く見ちゃだめだよ」という諭しは結果として無責任な突き放しとなり、悲劇へと真紀をいざなってしまったわけです。

おじさんの自殺未遂後、真紀が叩かれる側に回ると、旦那は弁護士とともに撤退やむなしの立場に立ち、揉め事を嫌う大家の意向に沿って、「ご迷惑をかけました」と引っ越しました。離婚もほのめかしました。

きっと悪意はないんですよ。

彼が菜子のことを思っていることは確かだし、世間(=弁護士や大家さん含め)に合わせた行動だと思うんですよ。

けど、自分では平和的解決をしているつもりでも、妻・真紀にとっての味方ではなかったんじゃないでしょうか?
彼にとってあの騒動は、巻き込まれた事故のような他人事だったんじゃないでしょうか?

非常識と非常識がぶつかるおばさんバトルを、一番近くでありながら蚊帳の外で見ていた常識人・裕一。

裕一は新しい街で、どんなお父さんになったんでしょうか?

旦那の常識とか、直哉や山田に代表される、世間の常識って本当に正義だったんだっけ?ということを問いかけざるを得なくなる、強烈な違和感の残るラストでした。
挑戦的にすら感じました。

結局何の解決にもなっていないんです。
やばいですよ。

あの頃があったから今がある、とか、雨降って地固まる、とか、とんでもないと思うんですよね。そんな世界線本当にあるのかなとすら思います。

怖すぎる。

最後になりますが、非常識と無責任が渦巻く喧騒の中で、ただ一人の純然たる被害者だったのは菜子ちゃん。
どうか彼女の未来に幸あれ…!

 

2020年に鑑賞した中で、最大級に価値観をえぐり、揺さぶってきた大傑作。

こうやって「常識」を問うている自分もまた、無責任な外野ですね。

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罪を犯した少年とその家族に起こる壮絶なバッシング。
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カメラを止めるな!

これも『ミセス・ノイズィ』同様に、前情報を入れずに鑑賞した方がいいですね。
大いに騙されてみてください!