映画『流浪の月』ネタバレ感想|原作超えてきた…!衝撃の亮くん

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こんにちは。織田です。

今回は2022年公開の『流浪の月』の感想をご紹介します。

松坂桃李さん広瀬すずさんを主演に据え、監督は『悪人』、『怒り』などを手がけた李相日監督が務めています。

『流浪の月』については凪良ゆうさんの原作小説を読んでから映画を鑑賞したんですが、この小説がめちゃくちゃ好きだったんですよね…。

後半になるにつれて自然につながっていくストーリーはもちろん、凪良さんの文章のタッチが本当に好きです。

そんなわけで、今回は小説既読の立場で『流浪の月』を鑑賞した感想を書いていきます。
具体的には下記の3つの部分に焦点を当てます。

  • 違和感を感じた部分
  • 映画が重視しているポイント
  • 亮くんは映画版の圧勝

感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。



あらすじ紹介

雨の公園で、10歳の少女・家内更紗がびしょ濡れになっているのを目にした19歳の大学生・佐伯文。更紗に傘を差し出した文は、引き取られている伯母の家に帰りたくないという彼女の気持ちを知り、自分の部屋に入れる。そのまま更紗は文のもとで2か月を過ごし、そのことで文は誘拐犯として逮捕されてしまう。被害女児、加害者というらく印を押された更紗と文は、15年後に思わぬ再会を果たす。

出典:シネマトゥデイ

スタッフ、キャスト

監督・脚本 李相日
原作 凪良ゆう
家内更紗 広瀬すず
佐伯文 松坂桃李
中瀬亮 横浜流星
安西 趣里
更紗(小学生時代) 白鳥玉季
安西梨花 増田光桜
湯村店長 三浦貴大
谷あゆみ 多部未華子

メインキャストの皆さんはマジで素晴らしかったです。
主人公の更紗を演じた広瀬さん、白鳥玉季さんも、を演じた松坂さんも抱いていたイメージそのままでした。

特に凄かったのが中瀬亮を演じた横浜流星さん。そのキャラクターには原作小説を凌駕する説得力があったと思います。

映画版の亮くんについての感想は記事の後半部分で紹介していきます。
この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



違和感を感じた部分

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

 

映画『流浪の月』については公開前から楽しみにしていました。
それには原作小説をとても気に入ったことも関係しています。当然ながら期待値を爆上げして鑑賞しました。

一方で原作から私が受け取った感触と、映画で強調された部分に、少し距離を感じたのも事実です。

まずはその部分からお話ししていきたいと思います。

更紗の生育過程の省略

アイスクリームの画像

出典:Pixabay

本屋大賞を受賞した原作小説を映画に再構成するにあたって、多少の省略や変更は必要になってきます。映画版で省略化を最も感じたのは更紗(広瀬すず)文(松坂桃李)と出会う前の過程でした。

文の前で自由に振る舞う更紗が、「自由な子」としてどのように育てられていたのかという部分です。

原作では更紗が両親と暮らしていた時代について、ある程度の分量を割いて描写されていました。それにより、更紗がアイスクリームを食事中に食べたり、寝っ転がりながら映画を観て床に直置きのピザをつまんだりと、自由奔放な所作をする理由が綴られています。

余談ですが目玉焼きにケチャップは少数派なんですね…。私もケチャップ派でした。

一方で、映画では更紗が両親と過ごしていた時代をバッサリ省略していました。
それにより父親は病気で死に、母親は更紗を置いて出ていった、という情報しかわからないと思うんですよね。更紗のお母さんへの印象は悪いんじゃないでしょうか…?

原作ではそんな母親から更紗が影響された部分も描かれているので、映画をご覧になった方は小説で更紗母の人となりを感じてみてください。

阿方と梨花の説明不足

また更紗のお父さんの数少ないエピの一つに、ウイスキーをワイングラスで飲んでいたという描写がありました。これは文のカフェの下階でアンティークショップを営む阿方(柄本明)と更紗の接点になるわけですが、正直要るのかな?という感じです。

阿方が言った「ものも人も同じだよ。出会って別れて、また出会う」のセリフは良かったです。文と偶然の再会を果たした更紗の背中を押す一言になったとは思うんですが、阿方はその後出てこなくなったので結果的には唐突な印象を受けました。

ちなみに更紗はあのワイングラスをタダで譲り受けています。これは阿方が病気を患っていて、後にお店をたたむことも関係しています。
映画で阿方のビルに文を罵倒する落書きがされていて「アンティークショップはどうした?」と思った方もいたと思いますが、あのとき既に阿方の店は営業していなかったと考えられます。

加えて安西(趣里)の娘である梨花(増田光桜)の扱い方も少し雑に感じました。

シングルマザーの安西が新しい恋人に熱を上げ、梨花の世話を更紗に頼むのは理解できるんですが、梨花に対して“小学生の女児”という記号以外の描写が足りないと思うんですよ。

梨花は物分かりが良く、手のかからない子です。更紗のことを「更紗ちゃん」と呼ぶ彼女は物語後半の重要人物なだけに、更紗に信頼を抱くに至る理由となる共同生活シーンがもっと見たかったですね。

原作小説では更紗と文に預けられる“前段階”や、ホットプレートを使って梨花と食事をした更紗の部屋になぜ文がいたのか?などが描かれていますのでぜひ!

ちなみに梨花と文が連行された後についてですが、安西と連絡が取れて梨花を更紗に預けた旨を確認できたため、文は釈放されます。この部分も映画では省略されていました。

更紗と文の関係性

これは個人的な感覚になってしまうんですが、私が原作小説を読んで受け取った感触と、この映画が軸に置いているポイントが少し違った部分。それが更紗と文の関係性の部分についてです。

原作を読んだ後に印象に残ったのは、更紗と文の関係が言い表せないというところや、互いを必要としている二人が取った執着的な行動といった部分でした。

 わたしは文に恋をしていない。キスもしない。抱き合うことも望まない。
 けれど今まで身体をつないだ誰よりも、文と一緒にいたい。

(中略)
 わたしと文の関係を表す適切な、世間が納得する名前はなにもない。
 逆に一緒にいてはいけない理由は山ほどある。
 わたしたちはおかしいのだろうか。

引用元:凪良ゆう『流浪の月』p275(創元推理文庫・電子書籍)

一方で映画を鑑賞して更紗と文の間には愛を感じました。もちろん恋と愛は違うものでしょうし、「一緒にいたい」を映像化したのがあの温度感なんだと思います。

次項で触れますが、「一緒にいてはいけない理由」に相当するレッテル——加害者と被害者——についてはより強調されていたとも思います。

けれど、文は世間で言われているような人ではないのだとわかってもらえないことに更紗が苦しんでいるところは薄いと思いましたし、更紗が文との偶然の再会後、彼に接近していくストーカー的な執着“偶然の再会”に至るまでに文が取ったプロセスも観たかったのが本音です。

特に文の部分は小説を読んでいてかなり救いに感じたので…

ただ映画『流浪の月』はキャラクターの独白に頼ることを全くしなかったので、その部分の省きは仕方なかったことかなとも思います。
文の本意に関しては、梨花に文が「ずっとある人(=更紗)のことを気にかけていた」と明かしたシーンに繋げる形でもう一押し欲しかったですね…。

恨み節をダラダラと書きましたけど、省略や再構成は当然のことですし、複数回鑑賞することで映画を(原作小説を一旦頭から外して)フラットな目線で観ることもできました。

2回目を観た後は、「メリハリのついた省略をしながらもストーリーをスムーズに進めている」という印象も受けました。

次は映画がどこに重点を置いていたのか考えていきます。



映画が重視している点

続いて映画版で強調されていると感じたところについて考えていきます。

まずは更紗(広瀬すず)文(松坂桃李)について回るレッテルについてです。

保護なのか誘拐なのか

ふたりで過ごした2ヶ月は
女児誘拐事件と呼ばれた。

出典:『流浪の月』本予告

原作小説には“事実と真実は違う”という表現で更紗の苦悩が記されていましたが、映画版でも“事件”後に二人に付き纏う世間の評価が象徴的に描かれています。

具体的には、佐伯文=小児愛者家内更紗=ロリコン野郎にわいせつ行為をされた被害者、というものですね。

ここで思い出したのが2019年に起きたある“事件”です。

家出希望の女子中学生2人を約2ヶ月にわたり自身が管理する借家で生活させたとして、男性が逮捕される事件がありました。(参考記事:サンケイスポーツ

衣食住を不自由なく、個室も与え、外出自由。将来に役立つ勉強をさせるなど、「保護」と言っても差し支えないような養い方をしていたようですが、それでも男性のしたことは「誘拐」とみなされました。

結構この件は話題になり、容疑者への同情や女子中学生が親元へ帰るのは正解なのか?など意見が割れていたのを覚えています。

更紗と文に付随する記号

『流浪の月』の文(松坂桃李)と更紗(白鳥玉季)も同様で、いくら更紗が希望して帰らなかったのだとしても、文の部屋が更紗にとってのシェルターであっても、それは誘拐事件として扱われます。文は加害者になり、更紗は被害者になります。

さらに成人間近の男子と小学生の女子という関係から、世間はその誘拐事件に性的犯罪を既成事実として付け加えます。

文にはロリコンの変態野郎という記号がつき、更紗にはわいせつ行為を受けた可哀想な少女という記号が貼られます。

苗字を変えていた文はともかくとして、更紗につきまとうレッテルはどこへ行っても周知の事実でした。みんなが更紗をそういう境遇の前提で見ようとしました。

だから自分と初顔合わせの阿方(柄本明)と話す時の更紗は生き生きしていたんでしょうね。

「ねえ亮くん、わたし亮くんが思ってるほど可哀想な子じゃないよ」という更紗の台詞も、彼との肉体関係を拒もうとする以上、説得力を持ちません。亮くんが更紗の拒否の理由を佐伯文に求めるのも仕方ないでしょう。

もちろん“可哀想な子”として捻じ曲がった評価を受け続ける更紗の苦悩はより大きいですよね。
既に事実と化したそのレッテルを、真実のものに変えることはできません。

亮(横浜流星)が「佐伯文」に対して抱く感情や、谷(多部未華子)が「吐きそうになった」と語ったように、“事実”に対する当事者以外の嫌悪は覆されるものではありませんでした。

「好きにする」の捉え方

一方で、更紗もまた文に対して貼られたレッテルを“真実”として捉えていました。

「更紗は更紗だけのものだ。誰にも好きにさせちゃいけない」
「更紗はやっぱり更紗だな」

このように語っていた文に対し、更紗は「文だけが私を好きにできる人だから」と言っています。

「好きにする」の意味には肉体的なつながり、精神的なつながりなどあると思いますが、更紗は文が小さな女の子を好きだという嗜好を自分が受け入れるという意味で発言しているはずです。「ただ文のためになりたい」とも続けています。

これは文が小児愛者だということを前提にしていますよね。その嗜好の何が悪いというスタンスです。

終盤のシーンで明かされるように、小さい女の子を好きだという風に見える文の顔は、彼の絶対に知られたくない秘密を隠すための仮面です。ロリコンという形容詞で罵られたとしても隠したいものが文にはありました。

生の実感

文の言った「更紗は更紗だけのものだ」が印象に残ったのは先ほど書きましたが、映画で「更紗が更紗として」描かれているシーンもご紹介します。

「生き返った(感じ)」と更紗が口にするシーンです。

文の部屋で爆睡して最初に目覚めたとき、また森林公園で文と仲睦まじくスワンボートを漕ぐときに言っていたと思いますが、「生き返った」には更紗が文と一緒にいる意味を示してくれる象徴的な言葉でした。

「生き返る」と口にするときは、ネガティブな前段階がありますよね。ビールを飲み干したり、お風呂でリラックスする時などに使う場合にも、仕事だとか疲れとか負の蓄積から解放されるという意味があります。

更紗の場合はそういった比喩的なものよりももっと直接的で、「生き返る」前は本当に死んだも同然だったんですよね。

15年前に文の部屋へ避難してきた時は、伯母さんの家で堅苦しさと屈辱に満ちた生活を送り、現在は恋人からDVを受ける日々から脱出して文の街へやってきました。

伯母さんの家、また亮くんとの同居生活は、社会的な安定と信用をもたらす一方で、更紗を確実に蝕むものでした。原作小説では抑圧と庇護という表現がされていました。

更紗がどうして文のそばにいたいのかと考えると、やっぱりそこが彼女にとって正常に呼吸をして生きられる場所だからなんでしょう。

「生き返った」は小説にはなかったと記憶していますが、とても良い表現だったと思います。

加えて、2人が手を繋ぎ、一つの布団で寝るラストシーンは満点だったと思います。これから流浪を続けていく2人。それを照らす月。もう離すことのない互いの手。

それまでの更紗と文は、2人が同じ場所で寝ていることはありませんでした。15年前は更紗に文がベッドを譲っていましたし、カフェ「calico」でも2人はソファーとチェアという形で隔絶されていました。

精神面では分かり合っていても位置的につながれない、つながることが許されない2人を見てきただけに、あのラストは嬉しかったですね。



横浜流星の亮くんが強烈すぎた

最後に、横浜流星さんが演じた中瀬亮について触れていきます。

映画『流浪の月』では松坂桃李さんをはじめ役者陣の演技が凄かった中で、特に横浜流星さんの亮くんですよ。
原作贔屓の私ですが、亮くんは原作をぐんと超えてきました!

上で引用したツイートの通り、更紗(広瀬すず)の過去を受け止めきれなかった亮くんですけど、単なる器の小さなDV野郎では片付けたくないんですよね。

彼の背負うものだったり、更紗を離したくない真っ直ぐさっていうのは決して非難できないです。私には。

印象に残ったシーンを見ていきましょう。

calicoでの亮くん

まず強烈だったのが、文のカフェ「calico」に更紗の後を追うようにしてやってきた時ではないでしょうか?

亮くんは「最近変な」更紗の後を尾けてcalicoに辿り着き、存在感を誇示するように足音を響かせながらやってきました。威嚇と言ってもいいかもしれません。更紗、そして文に対しての威嚇です。

自らの安息地にやってきた闖入者に驚きながらも平静を装う更紗に対し、亮くんも余裕の笑みを浮かべながら椅子に腰を下ろします。そして「おすすめ何?」文ではなくて更紗に訊きました。

更紗が常連だということを俺は知っているよというメッセージですね。

基本的に笑みと冗談を携えながら更紗の言い分を聞こうとする亮くん。優位な立ち位置だけに、血相を変えて糾弾しようとはしません。

  • 更紗が俺に嘘をついて退勤後に行動している
  • それを俺は知っている
  • 今戻ってくるなら許してあげる

ここまでがセットです。

けれどこの後に更紗の否定を受け、むしろ自分が粘着扱いされて、主導権は亮くんから離れていきます。

そうやって立場が悪くなったこともあったでしょう。
会計の際には小銭を投げつけ(音でわかるw)、またも威圧感たっぷりに革靴の踵を鳴らして出ていきました。

文が言う「更紗は更紗だけのものだ」を真っ向から否定するような支配がうかがえます。
更紗はバイト後の時間すらも自由に扱うことが許されず、家に直帰して夕飯の支度をすることを求められるんですね。

亮くんの事情

ただそんな亮くんにも、更紗を繋ぎ止めようとするだけの事情があったと思うんですよ。

(あまり映画だとわかりませんが)自由奔放に振る舞う更紗には、自由度の高い彼女の親の育て方がありましたし、寸分の狂いもなく規則正しい毎日を過ごす文もまた、彼の家庭環境の影響を受けています。

それが亮くんの場合は、実家が農家の長男で母親は既に家を出ており、跡取りとして期待される事情があります。
実家に帰った時の親父の口ぶりを見ると、その期待は亮くんを縛り付けるようなものにも感じます。

ばあちゃんが倒れた一方を聞いた亮くんが更紗にかけた言葉は、「更紗と一緒じゃなきゃ帰れない」でした。

これは婚約者を連れて行かないと親族に合わせる顔がないということですよね。亮くんは亮くんで生き方を追い込まれていたわけです。

彼は彼なりにどうすれば自分が幸せな今後の人生を送れるか考えた上で更紗を選び、彼女を(繋ぎ止めながら)一生懸命愛そうとしていました。

彼が口にした結婚もしっかり考えた上での選択だと思います。良かれと思った末の束縛です。

だからこそ更紗が自分から離れて、しかもよりによって文のところに通うなんて知った時には、それは裏切られたと感じますよね。
亮くんにとっての佐伯文は、更紗にひどいことをした男という位置付けですし。

安西さん(趣里)も若干肯定していましたけど、亮くんみたいな愛の形も決して間違っているわけじゃないと思うんですよね。需要あると思うんですよ。

ただ、それは更紗には繋がらなかった。ざっくり言ってしまえばパートナーとして合わなかったということではないでしょうか。

家での亭主関白ぶりもカフェでマウントを取ろうとする様も、更紗が出ていって憔悴する姿も、本当に横浜流星さんの亮くんは凄かったです。
その中でも私の一番は「文、文、文ってうるせぇなァ!」でした。

抑揚って言うんですかね、あのボリュームの上げ方。彼の中で切れた音が聞こえるようでした…!

今後しばらくは流星さんを見るたびに「亮くん…」とイコールで連想してしまうと思います。代表作とかそう言う次元じゃないです。それくらいに凄かったです。凄い凄いと語彙に乏しくてすみません。

 

最後になりますが、凪良ゆうさんの原作では、登場人物の背景がより豊かに描かれています。
映画をご覧になった方は読んでみてはいかがでしょうか。

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