映画『空白』ネタバレ感想|号泣。添田充の探し求めた答えとは…

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こんにちは。織田です。

今回は2021年公開の『空白』をご紹介します。

『さんかく』の吉田恵輔監督がメガホンを取り、古田新太さん松坂桃李さんが主演を務めています。

スーパーで万引きをしようとした少女を店長が追いかけた末、少女は道路に飛び出し、車にはねられて死亡。
少女の父親は娘の無実を証明しようと事故の関係者を追及していく中、その関係者たちの人生は次々と狂っていきました。

ガチで泣きました。

心が深く動かされる「感動」という言葉がありますが、この涙の量は感動なんて言葉じゃないです。
みんなそれぞれが正しいと思って動いているのに、その「正しさ」は他の誰かにとっては決して「正しく」なんかなくて。

じゃあどうすればいいのだろう?と答えの出ない、暗闇しか待っていない明日へ向かって過ごすような人たちの映画でした。

どうにもできないやるせなさを描いた映画としては過去イチではないでしょうか…!
  • 添田の求める答え
  • 青柳たちが探す答え
  • 正義の描き方

本記事ではこの3点を軸に、感想を書いていきたいと思います。



あらすじ紹介

女子中学生の添田花音はスーパーで万引しようとしたところを店長の青柳直人に見つかり、追いかけられた末に車に轢かれて死んでしまう。娘に無関心だった花音の父・充は、せめて彼女の無実を証明しようと、事故に関わった人々を厳しく追及するうちに恐ろしいモンスターと化し、事態は思わぬ方向へと展開していく。

出典:映画.com

スタッフ、キャスト

監督・脚本 吉田恵輔
添田充 古田新太
添田花音 伊東蒼
充の元妻 田畑智子
青柳直人 松坂桃李
花音の担任 趣里
野木龍馬 藤原季節
中山楓 野村麻純
中山緑 片岡礼子
草加部麻子 寺島しのぶ

愛知県の蒲郡を舞台にしており、添田(古田新太)野木(藤原季節)は漁師として、また青柳(松坂桃李)草加部(寺島しのぶ)は地元のスーパーマーケット・アオヤギで働いています。

 

映画『空白』の作品情報については、MIHOシネマさんの記事であらすじ・感想・評判などがネタバレなしで紹介されています。合わせて観たい映画なども掲載されていますので、是非ご覧になってみてください。

この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



事故の“答え”を求めて

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

「スーパーアオヤギ」でマニキュアを万引きした女子中学生・添田花音(伊東蒼)が、スーパーの店長・青柳(松坂桃李)に呼び止められて逃走。追いかけっこの末に車道に飛び出し、コンパクトカーにはねられ、トラックに轢きつぶされて死亡します。

亡くなった少女は父子家庭。父の添田充(古田新太)は、娘を失った悲しみに暮れる一方、事故が花音の万引きに端を発するという店長の供述や報道事実に憤慨。娘の無実を証明しようと、青柳店長の元へ抗議に向かいました。

娘は万引きなどしていない。もしやっていたとしても、それはいじめっ子に強要されてやったものだ。
受け入れがたい娘の死と、事故へと至った娘の行動の真実。

映画『空白』は、基本的に添田(古田)が答えを探し求める物語です。ただし、そこに事実はあっても答えはありません。

この部分がこの作品のやるせなさを一段と押し上げています。

誰かのせいにしなくてはいけない

明確に「犯人」が存在する殺人事件と違い、多くの交通死亡事故において「故意」という概念はありません。

今回の花音が死亡した事故については、道路に飛び出したところを中山楓(野村麻純)の運転する車にはねられ、倒れたところをトラックに轢かれて命を落としています。

運転手の二人からすると、飛び出してきた被害者の存在は予測できないもので、貰い事故と言っても差し支えないものです。交通事故は多くがそうですよね。

ふらっと道に出たり車道側に入ってしまったことで、クラクションを鳴らされ、運転手に怒られたことはないでしょうか?
あれは運転者の立場になると怒る気持ちがよくわかりますよね。

けれど、人を殺めてしまった以上、故意でなかろうが罪に問われてしまうことになります。歩行者と自動車の場合、多くにおいて自動車の運転手側が過失の割合を追います。

だから警察は楓とトラックの運転手に対し、取り調べで執拗に「過失」はなかったか問うていました。誰かの「せい」を問うことは警察の務めとも言えます。

映画『空白』のイントロダクションではスーパーの店長・青柳が添田に「人生を握りつぶされていく」と表現されていましたが、交通事故を“起こした”側の運転手二人(プラス家族もでしょう)も、ある意味では花音に、また彼女を追いかけた青柳に「人生を握りつぶされた」存在といえます。

許してもらえるなら何だって

中山楓(野村麻純)も、トラックの運転手も、法定速度を守って運転をしていました。

花音(伊東蒼)の万引きを見つけて裏へ連行した店長の青柳(松坂桃李)も、万引きを防止するという店側の当たり前に則って行動していました。

青柳の行動について

万引き犯に声をかけるタイミングとしては、実は店を出る前でも声をかけることが可能です。精算前の「店のもの」を自分のバッグの中に入れて「自己の占有」に移動した時点で、窃盗行為は「既遂」になります。

ただ、「後で精算するつもりだった」と言われるとどうしようもできません。自分がスーパーでバイトしていた時はレジの横を通過してから声をかけるように、と言われていました。

けれど、過失なき行動によって積み重ねられた花音の逃走動線は不幸な死に繋がり、彼女はもう戻ってくることはありません。
楓は何度も添田(古田新太)の元に足を運んでは頭を下げ、執拗に添田から追及された青柳も彼に万引き発見後の自身の行動を平身低頭で謝っています。何なら土下座だってしています。

許してもらえるなら土下座だって何でもします。
けれど、添田は許そうとしませんでした。そして許されることのなかった楓は、自ら命を断つことになります。

片岡礼子の名演

中山楓の死に際し、弔問に訪れた添田。
そこで、楓の母親・緑(片岡礼子)が添田の元に訪れます。

花音の葬儀に青柳が来た時に、添田は青柳に詰め寄り、罵りました。娘の行動が冤罪だったことを信じて。

一方で今回は、添田自らが無視を続けた末、罪の意識に苛まれた(ある意味加害者側の)楓が、自ら命を絶ってしまいました。母・緑の立場からすれば、添田に対して「あんたが殺した」「娘を返して」と言っても不思議ではない状況です。

添田を見つけ、腰を上げた緑に対して彼女の親族がとった心配そうな表情は、緑が添田と同じく“加害者”を糾弾するのではないか、という不安に裏打ちされたものだったのではないでしょうか。

けれど、「謝んねえぞ」と強情を貫く添田に向かって、緑が放った言葉の数々には心が震えました。感情の鎖がボロボロと外れていきました。

緑は、自ら命を絶った娘の行動を事故の罪を償うことを途中で放棄した愚行として詫びます。自分がその罪を背負って生きていくことも添田に告げました。
その上で、贖罪をする機会を永遠に失った娘を許してあげてほしいと添田に懇願します。

作品全編を通じて涙を何度も流したんですが、片岡さんのこのシーンはちょっと尋常じゃなかったです。それまでに楓がしてきた謝罪も相まって、もう止まりませんでした。

ない“答え”を探して

青柳(松坂桃李)も楓(野村麻純)も、「あの時」追いかけていなければ、車を運転していなければ、という念に襲われたことは想像に難しくありません。

それでも事が起こってしまった以上、二人は「どうすればいいのだろうか」=「どうすれば添田に許してもらえるのだろうか」という見えない答えを求めながら、答えの出ない地獄のような毎日を過ごしています。

一方の添田(古田新太)の立場から考えてみます。
彼が求めていた“答え”とは何だったんでしょうか?

積み重なっていく証拠

添田は花音を事故に至らしめた青柳の追走にまず目を向けます。娘はそもそも万引きなんてやっていなかったという観点です。
本当にマニキュアを盗ったなら防犯カメラの証拠を見せろ、証拠出せよ証拠!と青柳に詰め寄ります。娘がマニキュアを塗っているのなんてそもそも見たことがない、とも。

ただ、花音はマニキュアを盗っていたこと、その色は透明だったこと。
彼女を万引きに駆り立てるような校内でのいじめもなかったこと。

次々と「証拠」が添田の前に明らかになっていきます。しかしその証拠は、添田が求めている答えでは多分ありませんでした。

添田の求めていた答えは、花音は万引きなんてするはずもない娘である、という父親としての自身が考える花音像、言い換えれば自分が花音の父親だったことの証明だったと思うんですよね。

けれどその答えは無残にも打ち砕かれていって、父親である自分が花音のことを何も知らなかったという事実だけが残ります。

その事実を“答え”として受け入れることができないがゆえに、添田は店側に、学校に、過失を問うていきます。父親の自分が負うべきだった責任だとはどこかでわかっていながらも、その責任を「誰かのせい」に転嫁していくことで、自分が「花音の父」であることを確かめようとしていたのではないでしょうか。

添田が初めて実感した“家族”

映画序盤の食卓のシーンを見ていても、添田は花音にまっすぐ向き合おうとしていませんでした。

電話で声を荒げ、中学生とはこんなものと決めつけ、娘は常に自分の理解の及ぶ範囲内で動いているものだと認識しています。だからマニキュア、万引きという自身の想像の及ばない花音の行為を事実として認めることができませんでした。

花音を失って以降、添田は自分が花音の父であることを拠り所に行動していくわけですが、自分が花音の父親をきちんとできていなかった“事実”が少しずつ明らかになります。

モンペ兼モンスタークレーマーと化してしまった添田でしたが、ただ一人の“家族”を失って初めて、彼が手にしたのは二人の“家族”だったのではないでしょうか?

添田の元妻・花音の実母である翔子(田畑智子)は、添田よりも花音のことをよく知っていました。学校のこともマニキュアのことも。

添田に対して「あんたはあの子の何を知ってるの?」と言い放ち、添田の無知を、痛いところを指摘します。再婚した夫との間に生まれる子供には花音の漢字をとった名前をつけ、育てていくと明かしました。

そしてもう一人が、添田の下で漁師として働いている野木龍馬(藤原季節)の存在です。

こんな人が周りにいたら、間違いなく一番大事にしてほしい存在…!

口も素行も悪く、頑固でこの上なく面倒くさい添田に対しても、愛想をつかすことなくそばに居続けようとする野木。
嵐のように荒れすさむ添田に対しても「自分は充さんの気持ちや立場がわかるわけじゃない」ことをわかった上で、彼に愛ある突き放しをしました。

上で引用した「俺、正直、充さんが親だったらキツイっす」もそうですよね。

実際野木にとって添田は師匠であり、親代わりみたいなものです。添田に見離されたら行くとこなくなりますよという彼の台詞は決して大げさなものではありません。
それでも、何も考えずに添田に迎合したりすることなく、“家族”として彼に意見したわけです。

自分は花音の父親だったのかという答えに添田が向き合うためには、精神的な苦痛が伴ったはずです。時間も必要だったはずです。

その中で翔子と野木の存在は自分と同じ世界に立ってくれる“家族”として、添田が明日へ向かって歩むための大きな支えになったのではないでしょうか。

映画のラストで添田は自らも船から見た「イルカのような雲の空」を花音が描いた絵を目にしました。花音は添田と同じ空を見ていて、なおかつ添田の船もキャンバスに落とし込んでいます。
「同じ空の下でつながっている」という表現がありますが、あの絵は添田が花音と同じ世界で繋がっている父親であることを証明してくれたんですね。

慟哭。添田の感情は想像を絶しますよね。

この映画が描く正義

最後に、映画『空白』の中で描かれる「正しさ」「正義」という部分についての感想です。

具体的には添田(古田新太)と青柳(松坂桃李)を追いかけるマスコミ連中と、青柳を全肯定して寄り添おうとする草加部(寺島しのぶ)です。

露悪的なマスコミ。だけど…

まずは花音の事故死をめぐり、遺族の添田と事件現場に居合わせた青柳を追い回したメディア連中についてです。
事故から2週間が経ってもなお添田を追いかけている以上、彼らにとってのこの事件の価値がわかります。

メディアにとってニュースの価値とは、すなわち話題性です。その話題性というのは人々(視聴者や読者、リスナー)に感情、特に怒りや嘲りの感情を抱かせるものです。

花音の事故で言えば、事実としては「女子中学生が車道に飛び出して車にはねられ、トラックに轢かれた痛ましい事故」というものです。
事故の特徴としては、「女子中学生の若い命」、「凄惨な轢かれ方」という感じだと思いますが、いずれも「痛ましい」「かわいそう」という感情を想起させるものです。

ただ、ここに「被害者は万引きをして逃走し」、「店長が彼女を追いかけ回した末に事故を誘発し」、「店長は反省の色を見せず」、「被害者の父が怒り狂いテレビのインタビューに答える」という性質が入ってくると、人々の印象は変わってきます。
悪者を見つけ、嘲ったり怒りを覚えたりする作業に変わってきます。

今回の事件ではそのようなことはありませんでしたが、もし彼女をはねた車の運転手が怒りを買うような供述だったり態度を見せた場合は、運転手が槍玉にあげられることも容易に想像できます。

なぜやるのか。需要があるから。

自分自身、同じような業界で働いていたことがあるので『空白』で添田や青柳に群がるマスコミの愚行は身に沁みてわかります。実際に取材する際にはへいこらするくせに、ちょっと離れたところだと「おい添田来たぞ」と呼び捨てで記号化してるところとか本当そのままです。

赤信号みんなで渡れば怖くない的な感じで、現場にドカドカと乗り込んでくるのもそうですね。

そのへんの「態度」の部分はさておき、メディアはなぜ露悪的な報道をするのか。そこには需要があるからです。

以前ゴシップ週刊誌が舞台となった『生きてるだけで、愛。』という映画の感想記事で書いた部分を引用します。

有名人のケツを追っかけて必死に揚げ足を取りたいと思って入ってきた人なんて多分ほとんどいないんじゃないでしょうか。

でもなぜやるかと言うと、仕事だから。そしてその揚げ足取りが世間で話題になる(評価される、稼げる)からです。需要があるからです。

そんなん誰も幸せにならないよと思っていても、その悪意的なスクープを求めている人たちはいるわけです。良いか悪いかではなく。

“叩き”の感情につながる燃料(話題)を世の中に、刹那的に投下していくお仕事です。誰かを傷つける報道をしたとしても、その傷を負わせたことはあっさりと風化し、忘れ去られていきます。

石橋静河は映画内で「私たち、忘れてもらうために仕事してるんですか?」って言ってましたよね。

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人の醜悪な感情を煽動する、いわゆるスキャンダルを投下しているメディアの人たちの中でも、それが人に褒められる仕事ではないと思っている人は結構います。

でもなぜやるのかというと、その“叩き”の感情に需要があるからです。需要に見合うネタを供給することが自分たちの仕事だったり使命だったりするわけで、翻ってそれはメディアにとっての正しさにもなります。

だから“叩き”の感情を呼び起こすことができなくなったら、消費者が消費することに飽きたら、メディアは別のネタに乗り換えます。
東京五輪の数ヶ月前、開幕直前、開幕後の報道を見れば分かる通り、平気で手のひらを返します。

テレビも雑誌も新聞もオワコンと言われて久しいですが、それでもなお報道業界が生き残ってるのは、消費者側が“叩く対象”を待望しているからとも思います。

ヤフコメとか見てると、どうしてそんなに怒ってるのかと不思議になるようなのも結構ありますよね…

だから、本当に残念なんですが、今後も『空白』に出てきたような報道はなくならないと思います。
ああいう類の燃料を必要としている人たちがいる以上。

草加部さんの振りかざす善意

もう一人、『空白』では強い正義感の元に行動し、青柳を追い込んでいく人物がいました。

スーパーアオヤギで働く草加部(寺島しのぶ)です。

添田の執拗な追及とマスゴミの印象操作に疲弊していた青柳店長を救おうと、彼女は強い正義感を胸に青柳を擁護します。
なんだか知らない間に「店長」から「直人くん」に呼び方が変わっています。

つらいときは私がそばにいるから、私はいつでも直人くんの味方だよ。
ちゃんとご飯食べてる?差し入れ持ってきたよ。家の中、掃除しようか?

10年以上前の名曲さながらにI’m by your side babyです。

まあボランティアで海岸掃除だったり炊き出しに精を出している草加部さんなので、青柳店長を守ってあげたい、彼の潔白を証明したいという善意が主だとは思います。
でも「直人くん」への反応を見ていると、彼女を動かしてるのは100%の善意ではなく、そこにはいくらかの下心が含まれていたのは明らかでした。

同僚の送別会で店長の前の席に陣取る草加部さん…。あれ絶対に動かないですよね…

仮に花音を追いかけて事故に追い込んだのが青柳ではなく別の店員だったら、草加部はあそこまでしたの?って話です。

自らの父親像に則り、家庭で花音に対し圧をかけていた添田同様、草加部もボランティアで自分の中での「慈善」を振りかざして、仲間の少女を追い込んでいました。
正義感というよりも自分が正しいという過信とも言えるかもしれません。

結果的に彼女が差し伸べた救いの手は、青柳にとって重圧へと変わっていきました。重い。重すぎるんですよ。
いま青柳が欲しいのは草加部の施しではなかったし、理解されたかった対象は彼女ではなかったんですよね。一方で草加部を偽善者というのもちょっとかわいそうだなと思います。

自分が信じる正しさは、必ずしも他者にとっての正しさとが限らない。
『空白』はそんなことも炙り出された映画でした。

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