こんにちは。織田です。
今回は2021年に公開された映画『青葉家のテーブル』をご紹介します。
松本壮史監督。西田尚美さん、市川美和子さんをはじめとした出演陣です。
「やりたいこと」や「なりたい私」に向かって生きる高校生たち、また高校生の母親世代が抱く「なりたい私」「なりたかった私」が描かれる映画。
「やりたいこと」を追求して生きてきた自分自身にとって、すごく響きました。
将来の夢とか目標とか、ビジョンを抱いている人にぜひ観ていただきたい素晴らしい作品です。
- 「なりたい私」へのアプローチ
- 評価されることへの恐怖
- 「センス」という単語
今回は上記の3点を考えながら感想を書いていきます。
作品のネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。
あらすじ紹介
シングルマザーの青葉春子(西田尚美)は息子のリク(寄川歌太)、飲み友達のめいこ(久保陽香)とその彼氏で小説家のソラオ(忍成修吾)と共に暮らしている。その家に、旧友の知世(市川実和子)の娘・優子(栗林藍希)が、美術予備校の夏期講習に通うために居候することに。しかし、春子と知世はある過去の出来事をきっかけに気まずい関係になっていた。
スタッフ、キャスト
監督 | 松本壮史 |
脚本 | 松本壮史、遠藤泰己 |
青葉春子 | 西田尚美 |
国枝知世 | 市川実和子 |
国枝優子 | 栗林藍希 |
青葉リク | 寄川歌太 |
ソラオ | 忍成修吾 |
与田あかね | 上原実矩 |
瀬尾雄大 | 細田佳央太 |
なりたい私へのアプローチ
以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
冒頭にも述べた通り、この映画では「なりたい自分」や「なりたかった自分」を抱く登場人物たちが描かれています。
高校生の優子(栗林藍希)や与田(上原実矩)、瀬尾(細田佳央太)はクリエイティブな職業を目指し、夏休みを利用して絵画の予備校に通っていますし、リク(寄川歌太)たちはバンドを組み自分たちの音楽を届けたいという思いを抱いています。
そしてその少女少年たち、さらにはもっと大人の人たち(=世間)が、「夢を叶えた成功者」として尊敬し、認めている存在として、優子の母・国枝知世(市川実和子)が登場します。
この知世、またリクの母であり下宿の優子を迎えた青葉春子(西田尚美)の二人による、母親の「なりたい私」「なりたかった私」にも時間が割かれており、夢を追う人々が年齢問わず描かれている作品でした。
夢を追うことにタイムリミットはないことも示している中、特に心に残ったのは“圧倒的な成功者”知世の娘である優子についてです。
一心不乱か、寄り道か
夢を叶えるためのアプローチ。
そこには人によって様々な違いがある中で、一目散に目標を追い求める専門性の高いタイプと、いろいろな物事を経験しながら自分の最適解を見つけていくタイプに大別できると思います。
『青葉家のテーブル』でいえば、前者のエキスパート型は与田であり、後者のいろいろなことに挑戦していくのは優子。
この二人の出会いは夏休みの画塾であり、そこに来ている生徒たちは美大を目指し、専門職に就きたいという、未来へつながるレールを想像できる人が多かったはずです。与田もその一人です。絵で生きていきたい明確なビジョンがあります。
一方の優子にとっての絵画は、自分の才能や可能性を発現できる「かもしれない」対象のひとつです。これまでも動画撮影や粘土作家、写真、弾き語り、Tシャツのタイダイ染めと、様々なことに手を出しながらも、「どこかしっくりこない」ことから、“作品”を公開することはありませんでした。
絵画教室で行われた歓迎会の自己紹介では、自分の母親が著名人の「国枝知世」であることをアピールします。
自慢したいわけではなくて、あくまで自分に興味を持ってもらうため、会話の糸口として使いたい、くらいの感じだとは思いますが、優子自身のパーソナリティとはあまり関係ないですよね。
国枝優子としての自己紹介ではなく、国枝知世の娘としての自己紹介です。
痛いのか、強いのか
個人的な話になりますが、私自身は与田と同じようなアプローチで人生を歩んできました。
高校に入った段階でなりたい・やりたい職種があり、大学受験も大学のサークルもその職種に就くために最善と思われる場所を選びました。そして幸運にも現在は好きなことを仕事にして生きることができています。
もし10代の頃に与田や優子、瀬尾と同じところにいたならば、私は優子に対し「色々なものに手を出して結局どれも中途半端で投げてしまう」という印象を持っていたはずです。かつての自分は。
有名人である母親の名前を出して自己PRをするところなんて、痛いと思ってしまったかもしれません。親の七光りっていう言葉もあるくらいです。
ひとつの目標を追い求めて歩みを進めてきた私みたいな人も多くいます。一方で、色々なことに興味を持って飛び込んだ末に、巡り巡って今の業界に入り、活躍している人もたくさんいます。
例えば誰かにインタビューをして記事にする仕事があったとしましょう。
ライターになりたくて修行を積み書き手となった人は、記事のライティングには一日の長があります。
一方、優子のように写真を「かじった」ことのある人は、インタビュー対象の人のどんな写真を撮るといいのかを判断できますし、YouTubeをやっていたら動画というプラットフォームを使った形も提案できます。写真や動画に対する経験値がゼロか1以上かの違いは相当に大きい。
そもそも一つのことをかじっては他のことに手を出すっていうのは、とても勇気がいることです。
「しっくりこない」から、自分には向いていないと認める勇気。他にも向いていることがあるんじゃないかと希望を持つ強さ。もちろん色々なことに挑戦する時間やお金といったコストもかかります。
そうやって挑戦して切り捨ててきた物事たちは、自分の中でゼロになることはありません。与田と同じで、優子のどこへでも飛び込んでいく強さは私にも羨ましく映りました。
だから『青葉家のテーブル』における優子は、「なりたい私」を探す誰かにとって一つの答えになると思います。
ただの長続きしないつまみ食い型として描くのではなく、与田が認めたように最終的には優子の自分(の可能性)探しを肯定したことが、この映画は素晴らしいですね。
評価される恐怖
一方で優子(栗林藍希)は「合わない」と感じるとすぐに放り出してしまう一面もありました。言い換えれば「浅い」ということになるでしょうか。
上で書いてきたように、その「浅さ」を補って余りある「広さ」を彼女は武器として持っていると思うんですが、『青葉家のテーブル』で問題視されているのは、挑戦してきた物事を「公開」して世に放つことをしなかった点です。
「色々なことをしてきたけど下書き保存だけが溜まっていく」
優子はこう自重します。「下書き保存」だけが溜まっていって、「公開」「投稿」ができないジレンマです。
何かに取り組んでいても、それを誰かに知ってもらわなければやっていないのと一緒になってしまう。
でも、誰かに知られるのは、評価されるのはとても怖い。
私も下書き保存ばかりが溜まっていくタイプの人間なので凄くわかります。
時代変化に伴う「見られる」こと
現代はYouTubeやTwitter、Instagramなどを使って、誰もが公開範囲を制限せずに発信できる時代です。
今こうして書いているブログもそのうちの一つのツールです。
昔は世間に向けて自分の作品を公開したい場合、専門のメディアに投稿したり持ち込んだりという手間がかかりました。そしてそのうちのほとんどはボツとみなされ、人目に触れることはありませんでした。
作品がどんなに共感を得るものだったとしても、知られなければ誉められることはありませんし、その逆も然りです。どんなに拙くても知られずに闇の中に葬られれば、貶されることもありません。
雑誌だったりテレビだったりラジオだったりっていう世間に“公開する”プラットフォームで審美眼を持つ管理者が、その障壁だったりあるいは防波堤だったりになっていました。
私はサッカー雑誌を貪るように読み漁っていた中高生の頃に、「この記事はおかしい」とか「この記事は素晴らしい」とか(偉そうに)感想を抱いていたんですが、当時その自分の意見を発信できるツールはありませんでした。mixiみたいなSNSも確か18歳から使用可能だった記憶があります。
けれど今は、誰もが全世界へ向けて発信可能な時代です。同様に誰もが、それを目にして評価できる時代です。いいねだったりコメントだったり。
それにより、誰かが“何者”になれるチャンスは格段に広がりました。同時に批判に晒される機会も格段に増えました。
「至っていない」と判断されれば、無視されるだけでなく低評価を受けることになります。そしてそれは自分が目にする場所に、ダイレクトに跳ね返ってきます。
自信がないと言ってしまえばそれまでなのかもしれませんが、力不足を直接指摘されるのはダメージが相当に大きい。
でも公開しない限り、周りの人は優子が「どれだけ出来るのか」のレベルを測れないわけです。彼女が色々なことに挑戦して得られる経験値は、「実績」につながることなく「興味がある」にとどまってしまいました。
自分がどれほどのレベルに達しているかの判断ができないまま、“まず世に出してみないと始まらない”現代の難しい部分とも言えます。
結果的に優子は、名声を築いた母・知世にもかつては黒歴史的な“若気の至り”があったことを知って、重い扉をひらいていきました。
あのお母さんは「私を見つけてください!」と言ってましたからね。笑
何かをつかむためには、自分はまだまだ足りないんじゃないかとかそういう恐怖心を振り払っていかなければならない。そうして下書き保存から公開へと切り替えた優子はやっぱり強い人だと思います。
センスという言葉
最後に「センス」という言葉の持つ重みについてです。
『青葉家のテーブル』において優子(栗林藍希)は親が有名人であることの重圧を感じていましたが、一番きついなと思ったのが「センス」って単語なんですよね。
具体的には優子が与田(上原実矩)に言った「知世さんの子だからセンス良さそ〜、とかよく言われるし」の部分です。
満福店主/ライフスタイリストの知世は“センスの人”として紹介されていました。
では、「センスが良い」って何なんでしょうか。
センスは自分でつけるものなのか
音楽だったり運動だったり、もちろん与田や優子が頑張っているアートの部分でも「センス」っていう言葉は往々にして出てきます。卓越した技量や飲み込みの早さにも「センスが良い」という表現は使われますが、これって他者が人を評価するときに使う言葉ですよね。自分で「私はセンスに自信がある」って言う人は見ません。
もっと言えば、国枝知世は“センスの人”として表現されて名声を得ていますが、その“センスの人”っていうのは彼女が有名になったからついてきた形容詞だと思うんです。
国枝知世という発信者に支持者が賛同し共鳴し、知世さんのすることなら説得力があると信頼して、初めて生まれたものです。著名になった人への評価の証みたいなもので、決して先天的なものではないはずです。
優子は、「センスがいい(と言われている)」知世の娘というだけで「センス良さそう」というレッテルを貼られました。その言葉はセンスが良さげな行動を取らなければいけないと優子を縛り付けます。知世と違って彼女はまだ何者にもなっていないのに、です。
「センスが良い」っていう表現は“平凡”を上回る何かを持つ人に使われ、誰にでも使われる言葉ではありません。希少性、優位性が含まれます。
「優子ちゃんはセンス良さそう」って優子に言う人は、優子に対して自分が下位にあることを受け入れるためにそう言っているように感じます。「センス」っていう抽象的かつ、選ばれた人だけが持っている才能みたいな言葉を使って、あの人はセンスがあるから私より上回っていても仕方ないと自分を慰めているように聞こえます。
自分のスタイルを貫く人に送るセンスが良いという表現自体は良い褒め言葉だと思いますし、それを言われて悪い気がする人はいないでしょう。
けれどなりたい自分がまだ定まっていない相手にセンスが良さ「そう」とぼやっとしたレッテルを貼るのは凄く重荷になるし、自分も避けていかなければいけないなと思いました。「〜のセンスがある」と評価する段階で使っていきたいですね。
『青葉家のテーブル』は、「なりたい自分」を求める人たちの素直な思いが見える映画でした。そこにはなりたい私を追いかけるキラキラした部分だけじゃなくて、嫉妬も焦りも恐怖心もあります。そういう痛いところも飲み込んだ上で踏み出し、世間の評価を問う勇気。見事でした。
その目標設定が「何になりたい」だけではなくて「どういう自分でありたい」という形になっていたのも印象的です。現代における「夢」の形を表しているようにも感じました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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