映画『彼女が好きなものは』ネタバレ感想|「理解がある方」なんて言えない

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こんにちは。織田(@eigakatsudou)です。

今回は2021年公開の『彼女が好きなものは』をご紹介します。

浅原ナオトさんの小説『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』を映画化し、神尾楓珠さん山田杏奈さんが主演を務めています。

原作小説は、映画では端折られた部分も回収されています。よろしければ読んでみてください!

ゲイであることを隠している男子高校生と、BL好きの女子高校生。同性愛者と異性愛者。主人公の男子高校生・純(神尾楓珠)が自分らしさについて葛藤していく物語です。

このブログでは基本的に「共感」だったり自分ごとに引き寄せた「同一視」を軸に感想を書いているんですが、その点では何とも感想を書くのが難しい作品でした。

その理由を含め、『彼女が好きなものは』の感想を書いていきます。

感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。



あらすじ紹介

妻子ある同性の恋人と付き合っている男子高校生・安藤純(神尾楓珠)は、ゲイであることを隠して日々を過ごしていた。ある日、書店で同級生の三浦紗枝がBL(ボーイズラブ)漫画を買うところに出くわし、紗枝から「誰にも言わないで欲しい」と口止めされる。それをきっかけに二人は急接近し、一緒に遊園地に行くなど交流を深めていくうちに、純は彼女から告白される。自分も異性と交際し、周囲と同じような人生を歩めるのではないかと思った純は、紗枝と付き合うことにする。

出典:シネマトゥデイ

スタッフ、キャスト

監督・脚本 草野翔吾
原作 浅原ナオト
安藤純 神尾楓珠
三浦紗枝 山田杏奈
亮平 前田旺志郎
小野 三浦りょう太
今宮 池田朱那
近藤隼人 渡辺大知
佐倉奈緒 三浦透子
佐々木誠 今井翼

主人公の純(神尾楓珠)は母子家庭で母親(山口紗弥加)と二人暮らしです。
純の彼氏は妻子持ちの男性(原作では40過ぎと表現)・誠さん(今井翼)

純のクラスメイトには美術部の三浦(山田杏奈)、幼馴染でバスケ部の亮平(前田旺志郎)、同じくバスケ部の小野(三浦りょう太)、三浦と仲の良い今宮(池田朱那)といった面々がいます。

この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



腐女子バレ

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

 

『彼女が好きなものは』ではゲイであることを隠して生活している男子高校生・安藤純(神尾楓珠)が、クラスメイト・三浦紗枝(山田杏奈)のボーイズラブ嗜好を期せずして知ることから話が動いていきます。

純が彼女の“秘密”を知ったことで、単なるクラスメイトでしかなかった二人の間には秘密の共有が生まれ、関係が太くなっていきました。

このあたりは『君の膵臓をたべたい』で“共病文庫”を目にしてしまった「僕」と「桜良」の関係とも似ていますね。

で、この三浦紗枝さんは自分が腐女子であることが周りにバレるのをとても恐れています。なんでも中学生の時にクラスの中心的女子にバレてひどい目に遭ったのだとか。

平和で楽しい高校生活を送るためには、BL好きという嗜好は隠しておきたいと考えているようです。

私がモテてどうすんだ

ここで一つ紹介しておきたいのが、2020年に公開された『私がモテてどうすんだ』です。

この映画ではBLが大好きでカップリングの妄想に忙しい女子高生が主人公。脳内で想像する対象だった4人のイケメンから実際に言い寄られてモテていく様子が「どうすんだ」の文脈で描かれ、なかなかシュールな映画となっています。

この主人公・花依の場合、同級生の親友にBL好き腐女子がいて、その子から「オタバレダメ絶対!」と釘を刺されながらも、イケメン4人衆の前で盛大にオタバレをかましてしまいます。

ただ、そこで彼女の高校生活が終わってしまったかというとそうではなくて、彼女は腐女子だからと言って軽蔑されることもなく、実際可愛いんだから腐女子でもなんでも良くね?で物語は進んでいきます。むしろルッキズムの話です。

この『私がモテてどうすんだ』では、イケメンの一人として神尾楓珠さんが出演しているんですよね。池袋のアニメイトの前に主人公と一緒に並び、主人公の好きなアニメを理解しようと(下心ありで)努力する神尾さん。素敵。

そんな彼が、本作『彼女の好きなものは』で、三浦紗枝たちとともにまたアニメイトに並んでるわけです。今度はつまらなそうな顔をして。

アニメイトで戦利品を獲得した後はサンシャイン水族館に行って、オタクの休日にお付き合い。池袋も昔はもう少し怖い香りがありましたが、今や完全にガールズタウンとなりましたね…笑

サンシャイン水族館のペンギン

サンシャイン水族館のペンギン。2021年撮影

『私がモテてどうすんだ』をまだご覧になっていない方は、『彼女が好きなものは』と合わせて観ていただけると面白いかなと思います。
映画全体を通しての温度感はだいぶ違うものの、BLへの熱量とかオタクの生き様という点では『彼女が好きなものは』の三浦や佐倉姐さん(三浦透子)と同じようなアツさが感じられる作品だと思います。

あの3文字への恐れ

『彼女が好きなものは』に話を戻します。

なぜ三浦(山田杏奈)は腐女子であることをここまで公にしたくないのか。それは先ほども書いた通り、中学時代にハブられた経験があるからです。

「ホモを嫌いな女子はいない」
「でもホモを好きな女子を嫌いな女子はたくさんいる」

こんなような三浦の言葉があったと思いますが、BL好きの嗜好を知られた彼女は、「え、きも」という3文字を投げつけられ、このたった3文字で彼女の中学生活は終わってしまいました。

このセリフを区切りながら言う山田杏奈さんがめっちゃ良かったですね…!

純(神尾楓珠)からしてみれば、同性愛者を隠して生活している彼からしてみれば、三浦の心配は些細なことに映るのかもしれません。けれど実は純も同じで、ゲイであることをカミングアウトできない理由には「自分を気持ち悪いって思われたくない」の思いが働いています。異性愛者でないことでのしかかってくる可能性のある「え、きも」はあまりにもリスクが大きい。

女を抱ける男は偉い。誰よりも僕自身が、そう思っている。

出典:浅原ナオト『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(角川文庫)

原作小説の中で、純はこのように告白しています。

なので『私がモテてどうすんだ』のように「BL好きなんだ?別にいいんじゃね?」で完結できるほど、『彼女が好きなものは』の世界は甘くないし寛容ではありません。異端のレッテルが容赦無く降りかかってきます。だから純も誠さん(今井翼)も、異性愛者を演じながらコウモリのように生きているわけです。

距離と防護壁

最初のシーンでは三浦の描いた「ソーシャルディスタンス」の絵が登場した本作品。
原作小説と比較すると、映画では「距離」にフォーカスしているところがとても印象的でした。

挨拶がわりに下半身を弄ってくる親友・亮平(前田旺志郎)を「距離感ぶっ壊れてる亮平」と評し、書店でぶつかった三浦(山田杏奈)との距離は0メートル、また誠さん(今井翼)との距離は「0.01mm」と表現する純(神尾楓珠)

ソーシャルディスタンスという言葉が出てくるように、この映画はコロナ禍を経験した後(マスク皆無なのでコロナ完全消滅後なんでしょうね)の世界の出来事なわけですが、純は自分を中心とした半径に防護膜みたいなものを常に張りながら生きています。
これはソーシャルディスタンスとは関係なく、パーソナルスペースと呼ばれるものだと思います。

パーソナルスペース(英: personal-space)とは、他人に近付かれると不快に感じる空間のことで、パーソナルエリア個体距離対人距離とも呼ばれる。

出典:Wikipedia

僕自身もパーソナルスペースが広い(=相手との距離が広い)タイプなのですが、『彼女が好きなものは』の純の場合、空間的な距離に加えて精神的な距離感も含まれてきます。

人を遠ざける純

純は三浦と誠さん、二人の“恋人”に対して違う態度を取ります。

“彼氏”の誠さんには子犬のように甘え、そこに警戒感はありません。
一方で“彼女”の三浦に対しては斜に構えた様な言葉が次々と繰り出され、言葉の端に含まれた無数の小さなトゲが彼女との間に壁を作っていきます。

「こんな可愛い子と付き合える僕は幸せだと思う。でも客観的なんだ」
クールというにはあまりにも他人事ですよね。付き合う前ならまだしも、付き合ってこれは傷つきます。

その他にも他者と精神的な距離を取る手段はあって、例えば純が「母子家庭」であることを伝えれば三浦は「ごめん」と言いますし、同性愛者だとカミングアウトすればさらにその境界線は太く濃いものになります。これは純にとっては隠しておきたい秘密であると同時に、相手との断絶を図る切り札でもあるんですね。

原作小説において、純は三浦に母子家庭であると告げた後、このように心の中で呟きます。

他人を遠ざけるのなんて簡単だ。しかも僕はまだ最強のカードを切っていない。切った瞬間、他者から見た僕の人間性を一つの肩書きに集約してしまう、あのカードを。

出典:浅原ナオト『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(角川文庫)

だから純にとって人を遠ざけることは難しいことではないし、「真顔で人刺しそう系」と三浦に評されたことも、距離を保つ純にとってはある意味狙い通りであるわけです。



寄り添い方

ただ、ここまで腐女子だ距離だと書いてきたんですけど、この作品は同性愛に切り込んだ映画、とかBL映画とか、そういう風にカテゴライズできるものではないと思うんですね。

観終わった後、「同性愛やボーイズラブへの理解が深まりました」みたいな感想には決してとどまらないと思うんですよ。
またこの記事では形式的に「青春映画」にカテゴライズしていますが、それも正しくはないと思っています。

この映画の一番の見どころは、純が飛び降り、彼のいない教室で生徒たちが同性愛についてディベートを行ない、三浦と小野が疑問を呈するところだと思うんですよね。

道徳的な議論かと思いますが、そこで弾き出されたのは同性愛への理解や共感みたいな「答え」ではありませんでした。

クラスメイトたちが同性愛について肯定・容認したい、自分は「理解がある方だ」という意見が多々出る中で、小野はそれを遮り、他人事だからそんなことが言えるんだと反発します。

この小野のセリフ、映画の中の出来事に対して非当事者だった私たちが、当事者意識を突きつけられたような感覚ではなかったですか?

この映画の主人公は、実は観客として観ている我々なのではないか。
それほどには、純たちの苦悩を見て「分かった気になった」自分への無力感が溢れ出てきました。

この映画には「共感」や「同一視」で片付けられる答えが用意されていません。

「だから何?」

少し映画内の時間を戻します。

飛び降りて怪我を負った病室の純のもとへ、お母さん(山口紗弥加)がやってきます。
息子が抱える悩みを初めて知ったお母さんは、彼に寄り添おうとしたのでしょう。

「お母さんも同性の女の子を好きになったことがあった」と昔話を始め、純の抱えているものは私も通ってきたの(だから悩む必要なんてない)的な話をします。

唯一の家族である母親が、息子の傷を理解し、自分の過去と同一視し、共感しようとする。シチュエーションで言えば美しいんですよ。
けれどもそれは同一なんかではなくて、「お母さん“も”いたんだよね」の“も”に対応するas well asは純ではないんですね。

「だから何?」

ひとしきり母親が自分語りをした後、純はこう問います。おそらく観ていた方皆さんの思いが代弁されたのではないでしょうか。

寄り添おうとするお母さんの気持ちはわかります。けれどお母さんの経験した「好き」と僕の「好き」は全く別ものです。

当事者以外が純の悩みを同一視することは不可能だということが、ここでわかってしまうんですね…

一方でお母さんの発言が思慮の浅いものだったかといえば違って、お母さんはお母さんなりに全力で純に向き合い、寄り添おうとした結果の発言です。純のことを気にしながら、一人で純を育ててきた姿も描かれています。だからこそ無力感が凄い。あまりにも凄い。

簡単な世界

『彼女が好きなものは』では「ただし摩擦はゼロとする」という言葉が出てきます。これは「世界を簡単にする」という言葉でも言い換えられていますが、要は自分が理解しやすいように世界を単純化して事象を読み解こうとすることです。

お母さんが自分の身の上話をしたのも、ディベートで生徒が「理解がある方」だと肯定的な意見を述べたのも、そういう世界の見方をした方が自分にとって理解がしやすいからです。

でも「私は認める」「理解できる」と言ったところで、現実はそうではありません。

事実、近藤(渡辺大知)や小野はゲイに対してネガティブな捉え方を隠そうとしていませんでしたし、それは彼ら自身が同性愛者を特別嫌悪しているわけではなくて、そういうレッテルを貼ることで区別する風潮が世界に残っているからです。

原作小説では腐女子バレを心配する三浦のことを「そこまでのことかな」と訝しむ純に対し、彼の相談相手であるミスター・ファーレンハイトはこう告げました。

『真に恐れるべきは、人間を簡単にする肩書きが一つ増えることだ』
『人間を簡単にする肩書き?』

『その子に関して、腐女子以外に何か大きな特徴はあるかな?』
『絵が上手いかな』
『そこにその子が腐女子であるという情報が加わると、さすが二次元好きの腐女子は絵が上手いな、となる』

出典:浅原ナオト『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』(角川文庫)

赤い文字で表記したのがミスター・ファーレンハイトの発言ですが、こういった特性を理由に物事を解釈するのは、「腐女子」だとか「同性愛」に限らず色々な場面で起きるのではないでしょうか。

純たちが通う学校でも「ただし摩擦はゼロとする」は大きな前提条件として存在していて、あの人はこういう人だから、あの人はこういう扱いをしていい、みたいなキャラ付けが蔓延っています。生徒たちは時に「自分を簡単にして」振る舞うわけです。もちろんその方が楽で居心地の良い人もいますよね。

自分と違う側面を持つ相手とどう向き合うのか。

お母さんやディベートで発言していた生徒のように、自分ごとに引き寄せて、自分と同一視して「わかったことにする」難しさをこの映画は炙り出していると思います。

でも自分と相手は絶対に違うわけで、その違いをわかった上で、わからないとわかった上で、相手にいかに寄り添うかという部分が重要なのかもしれません。小説版の解説で三浦直之さん(劇作家・演出家)は「エンパシー」(他人と自分を同一視することなく、他人の心情をくむことをさす)という言葉を使って、登場人物への寄り添い方を述べていました。

これを書いている僕自身、自分ごとに引き寄せて解釈をしてしまうタイプの人間です。
その危うさに警鐘を鳴らされ、簡単に共感するのって果たしてどうなんだっけ?と側頭部をぶん殴られたような感じでした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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