映画『恋は光』ネタバレ感想|恋愛を学術的に読み解こう

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こんにちは。織田です。

今回は2022年公開の映画『恋は光』をご紹介します。

監督は『殺さない彼と死なない彼女』小林啓一監督
主人公の男子大学生・西条を神尾楓珠さんが演じました。

主人公の西条は、恋をしている女性がオーラを放つように光って見える特殊能力を持っています。そんな彼が、恋とはどういうふうに生まれるのか、どういう感情を恋と呼ぶのだろうかと煩悶していく物語です。

高密度でありながらテンポの良さとユーモアたっぷりの会話劇も魅力的な映画でした!



あらすじ紹介

大学生の西条(神尾楓珠)は、恋する女性が光って見えてしまう特異体質を持つために恋愛を遠ざけてきたが、「恋というものを知りたい」という東雲(平祐奈)に一目ぼれしたことで、彼女と恋の定義について意見を交わす交換日記を始める。そんな二人の様子に、長らく彼に片思いしている幼なじみの北代(西野七瀬)は心中穏やかでいられない。一方、他人の恋人を欲しがる宿木(馬場ふみか)が、西条を北代の恋人と勘違いして猛アタックを開始。やがて宿木と北代も交換日記に加わり、4人で恋の定義を考え始める。

出典:シネマトゥデイ

スタッフ、キャスト

監督・脚本 小林啓一
西条 神尾楓珠
北代 西野七瀬
東雲 平祐奈
宿木南 馬場ふみか
大洲央 伊東蒼
春日 森日菜美
末広 山田愛奈
花園 花岡咲
小笠原先輩 宮下咲

メインキャラクターの4人には、(平祐奈)、西(神尾楓珠)、宿木(馬場ふみか)、(西野七瀬)と東西南北が名前に入っています。

さらに登場人物の名前は愛媛県の地名の側面もあって、

西条:西条市
北代:松山市道後北代
東雲:松山市東雲町
大洲:大洲市
末広:松山市末広町
春日:松山市春日町
花園:松山市花園町

このように愛媛県内の地名が名前に使われていました。

愛媛県の地図

大洲は愛媛県西部、西条は愛媛県東部の市です

末広や春日、花園は結構どこにでもある地名ですが、「西条」と「大洲」が象徴的でしたね。
この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



映画のネタバレ感想

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

 

恋とは、誰しもが語れるが、誰しもが正しく語れないものである——by シーロウ・キーター

映画『恋は光』は、どこぞやの歴史上の偉人が言った一節を引用した、格調高いフレーズから始まりました。

主人公は明治の文豪みたいな言葉の使い方をする男子大学生の・西条(神尾楓珠)。一人称「吾輩」とか言いそう。「俺」でしたけど。
そんな彼を幼馴染みの北代(西野七瀬)「先生」と呼んでいます。

『殺さない彼と死なない彼女』もそうでしたが、浮世離れしたキャラクターを違和感なくリアルの青春に落とし込むのは小林啓一監督ならではといったところですね

北代が使う「先生」という呼称は、西条が教師になる夢を追っているからというわけではなく、二人が通っていた地元の小学校で西条についたあだ名だそうです。

「先生」はティーチャーの他にも「作家」とか「政治家」のような意味で使われることもありますけど、「作家」の文脈は近からず遠からずという感じでしたね。

そんな「先生」こと西条は、恋する女性が光って見える特殊能力の持ち主。
否が応でも視界に飛び込んでくる「恋の光」は鬱陶しくて目障りだけども、意識せざるを得ないものでした。

西条はキャンパスで落とし物の手帳を拾ったことを契機に、文学少女・東雲さん(平祐奈)と出会い一目惚れ。

「恋の定義をしてみませんか?」と交換日記を通じ、恋とは何かを二人で探求します。「恋」を分析、時には分解しながら仮説を交えて検証していきました。

「好き」とは何か?の一歩前

「好き」という感情を表現・考察することについては、日本映画において今泉力哉監督が傑出していると思っています。

恋というのは、
好意が芽生えて → 育って大きくなる好意を表現して → 思い悩んで → 想いを伝えて → 相手と恋愛関係になる / ならない、
っていう段階があります。

『恋は光』の中でも“友達にちょっと気になっている子の話をして、話をしているうちにどんどん好きになって、話終わるとめっちゃ好きになっている”的な「好意が育つ」部分の説明がありましたね。

今泉監督の『mellow』(2020)や『街の上で』(2021)は、「想いを伝える」ところにフォーカスしていましたし、『サッドティー』(2014)や『愛がなんだ』(2019)などは様々な人物の類型から「好き」の形を抽出するものだったと思います。

言い換えれば「“好き”ってどういうこと?」だったり、「“好き”と伝えることの意味」だったりが描かれています。

一方で、『恋は光』で描かれているのは、「好き」とはどういうことなのか、何をもって好きなのか、ではなくてその一歩手前の段階だと思うんですよね。

「恋とはなんぞや?」という西条(神尾楓珠)の問題提起ひとつとっても、「何が恋」なのか?ではなくて、そもそも好きっていう感情はどうやって(How)、どうして(Why)生まれるのか、を探究していくわけです。

10年間で3815冊(!)の小説を読んできたという東雲(平祐奈)は、その9割に介在する恋愛という要素は人間にとって切っても切れないものだと持論を展開。
「恋は本能」という仮説を導き出した一方で、恋は本能と定義づけてしまうとロマンに乏しいとも口にしました。

それに対して西条は本能(人間に備わり、人間が進化させてきたもの)の歴史的な価値にはロマンがあると評価していましたね。

なので『恋は光』は確かに「好き」を解釈したり考察する映画だとは思うんですが、その矢印はもはや哲学的ですらありました。

「モテキ」を想起したけれど

『恋は光』では、恋する女性の光が見えるという主人公・西条(神尾楓珠)の特性上、登場人物は西条自身と彼から見た女性たちに限定されます。「恋する乙女たち」の文脈がとても強いように感じました。

そんな西条を観ていて思い浮かんだのは、『モテキ』(2011)の藤本幸世くん(森山未來)です。

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映画『モテキ』を10年後に再鑑賞する面白さとは(ネタバレあり感想)

2021年12月21日

斜に構えた非モテ男に、突如やってきた多方面からの恋の矢。作品の中で、魅力的な複数の女性たちを男性主人公がほぼ独り占めする構図です。選ぶ立場を与えられます。

『モテキ』(映画版)では、長澤まさみに麻生久美子、仲里依紗に真木よう子の4人が演じた女性が、『恋は光』では、西野七瀬平祐奈馬場ふみかの演じる三者が、主人公の男性に関わっていきました。

豊富な知識に裏打ちされた引用を用いて、知的な(頭でっかちとも言う)キャラクターも割と通じるものがあったのではないでしょうか。

ただ、複数方面から寄せられる好意の受け取り方はだいぶ違いました。

『モテキ』の幸世くんが「モテキ来たァァァァァ!!」と有頂天になる一方で、『恋は光』の西条はその状況をモテキと捉える段階に辿り着いていません。恋を知らない人です。
もっと言えば、「恋」だとか「好き」だとかそういう言葉を自分は使えるのか、恋していると言うに値しているのかをひたすら煩悶している人です。

『モテキ』における幸世くんの行動原理は、「好きだ」以外にも「付き合いたい」だとか「やりたい」といった、自分の欲求を満たす目的がありました。下心と言い換えてもいいかもしれません。
意識的か無意識かはさておき、幸世くんだけじゃなくて多くの人が持っている欲求です。

それに対して、『恋は光』の西条の場合、彼の欲求はそういったレベルに行き着いていなくて、「好きだ」と言う部分に関しても東雲(平祐奈)への自分の感情が「恋」なのかすらわかっていないようです。

恋か否かをジャッジする

なぜ西条(神尾楓珠)が「恋とは何か」を判断できていないかと言うと、彼が「恋をしている女性が光って見える」という特異体質を持っているからです。

その特異体質は言い換えると、西条はその人の中身を知ることなく外見だけで、当人が恋をしているかしていないかの有無を知る立場にあると言えます。その確度は100%です。

なので東雲(平祐奈)北代(西野七瀬)のように西条とマンツーマンで向き合う相手が光っていたら、その子は自分に恋をしていると彼は知りますし、光っていなければそうではないという判断に至ります。

一方で西条の特異体質は女性限定。自身を含めた男性が光っているか=恋をしているかはわかりません。自分を鏡で見てもわかりません。

自分の感情がなんなのか、その答えの判断基準を持たない西条は、東雲に対しての憧れ、強い興味を認識しながらもそれが恋だとわかっていないから、東雲に愛情表現としてアウトプットする術を持ちえません。

何なら俺は恋をする権利があるのだろうかと煩悶している節すらあります。

東雲からしてみると、特に彼への恋が芽生え始めてからは、西条さんにとって私はどんな位置付けなのだろうという葛藤があるはずです。

私の想いは恋なのか

北代に関してはさらに気の毒で、彼女はすでに西条から「恋の光が見えない」と判断されています。

先ほども書いた通り、西条(=先生)に見える恋の光の正確性は100%。
つまり北代が抱える西条への想いは、恋ではないですよと判定されてしまっているわけですよね。

私の恋は恋じゃなかったんだね。

松岡茉優さん主演の映画『勝手にふるえてろ』では「この恋、絶滅すべきでしょうか?」なるフレーズが出てきましたが、北代の恋も認定してもらえず絶滅寸前です。切ない…

自分が恋してるというに値するのか、気持ちを伝えるその立場に自分がふさわしいのかすら揺らいでしまう北代。西条から自分がそういう対象で見られていないという前提があるから、恋だの好きだの口にする土俵にすら行きついていないんです。

これは西条にとっても同様で、彼の立場から見れば、北代が自分に恋愛感情がない(=光らない)とわかっているがゆえに、自分も北代のことを恋愛対象としてみるのを却下した経緯があるはずです。

恋愛においては「脈がある」、「脈がない」みたいな言い方をすることが往々にしてあるわけですけど、西条はその「脈」を正確に判定することができる人です。

だからこそ、「北代よ」と呼びかけ、居心地が良く、近い距離感で、気軽に飲みに行けるような間柄であっても、そこに恋愛感情は介在していないと切り捨ててしまったんですよね。便利屋というか恋の橋渡し的な使い方をしたのはデリカシーに欠けていると思いましたが…。

互いが恋愛対象に置くことを諦めた関係。すれ違っていることにすら気づけなかった二人ですが、終盤で北代が放った言葉の威力には鳥肌が立ちました。

「俺が東京にいる間、恋をしていたと言っていたな」
「それ、先生のことだよ?」

私はずっと先生に恋しているんだよ。気づいてよ。

これは恋の光が見えない私たちにとっても実践的なことだと思います。

例えば自分が気になっている相手に対して「いま好きな人はいますか?」と探りを入れることがありますよね。

そこで「いる」と返ってきたら、ああ自分の入る余地はないなと一歩引くと思う人も多いと思うんです。電車の中で北代から「先生が東京に行ってる間、めっちゃ恋してた」と聞いた時の西条は、「恋の光」の能力を抜きにすれば多分そっち側です。

逆に「えっ、好きな人って自分のことかな?」と背中を押される人もいますよね

『恋は光』の西条と北代の間には「恋」の解釈に起因する友達以上恋人未満的な関係があったわけですが、最後にそれがすれ違いだったということを気づかせてくれる優しい描写だったと思います。



宿木嬢の「選び方」

最後に、『恋は光』の中で異端的に映る宿木南(馬場ふみか)という女子についての感想です。

公式のこちらのツイートにある通り、宿木の「恋」に対する考え方は非常にシンプルであり、王道です。

東雲や西条が「恋とはなんぞや」「恋という感情はどのようにして芽生えるのだろうか」と哲学的にごちゃごちゃ考えているのとは対照的に、自分の感情と素直に向き合い、私が好きだと思えばそれが恋なのである!そこに他者が認める定義なんて必要ないよね、っていう考え方ですね。

一方で宿木の興味が「恋」へ発展するプロセスは少し特殊。
西条が東雲にした「一目惚れ」とも、東雲が交換日記を重ねて西条のことを知っていった「学習」とも、北代が西条に抱き続けてきた「母性」(大洲談)とも異なります。

人の彼氏を奪いたくなってしまう宿木嬢。そこには略奪する快感もあるのかもしれませんが、奥底にあるのは「優れた相手を自分のものにしたい(=恋人にしたい)」っていう自分の幸せの追求だと思うんですよ。強い相手を求めるとか美しい相手を求めるとか、優れた他者に魅力を感じる動物的な本能に近いものだと。

その「優れた部分」のジャッジが宿木の場合は若干特殊で、彼女がかっこいいと思ったとか優しいと思ったとかっていう自分の判断ではなくて、「他者から」評価が高い男子に魅力を感じるというところです。
人気のある(=他者と付き合っている)異性の存在がなければ始まらない、他者主導の恋です。

西条に対していまいち踏み込めない東雲や北代を尻目に、宿木はぐいぐい来ているように映りますが、彼女を動かす根底としては、西条が北代の彼氏であると(早合点ですがw)認識したことですよね。だから宿木の恋が主体的かと言われればまた違うと思います。

ヤドリギというのは、木に寄生する植物ですが、彼女にも「主」ではなくて「従」型のイメージがつくように感じました。

西条が評した、口コミの高評価を見て購入する商品を選ぶという例えは言い得て妙で、見ているこちらにとって宿木の考え方を知るひとつの指針になりますよね。

人が持っているものを欲しくなることってあると思うんですよ。もちろん恋人の価値をそういうふうに「もの」と同じレベルで判断するのって残酷だとも思いますが、宿木嬢みたいな考え方で恋人選びをする人も確かにいます。

ちなみに大学生が行くには客単価が高そうなバーで宿木と西条が飲んでいたシーン。
時折宿木は恋の光を放っていましたが、あれって北代が関与している話の時でしたよね?

つまり宿木にとっての恋の光は、北代という存在の意識なしでは発光しないのではないかと。

大事なのは西条ではなくて、北代の彼氏くん(誤解)なんじゃないかなと思います。

そのバーの夜の後に、宿木が教室で北代(と東雲)に西条さんとキスしたとマウントを取る場面もありました。実は一番あそこが、宿木が充実した恋を感じられるところなのではないでしょうか。

東雲はそれを聞いていたく傷つき、これが嫉妬というものなのですねと静かに怒りの炎を燃やし、北代も北代でショックを受けていました。あの時の宿木の勝ち誇った表情よ。もはや恍惚ですね。幸せそうで何より。笑

 

しかしまぁ四角関係を考えると東雲は何とも気の毒でした…。グイグイと場を荒らす宿木はもちろん、北代が抱える西条への思いにも気づいてしまい、なおかつ北代から聞く西条さんの話は東雲が知らないことばかり。静かなるマウンティングですよ。

幼馴染みの関係は恋愛対象にならないのかもしれないけれど、西条と北代の二人が刻んできた時間の重みは「ぽっと出のヒロイン」(宿木談)に届かないものがあるわけで。なんていうか、元カノの話聞かされてるようでつらいですよね…。

恋への向き合い方を再考する宿木嬢同様、恋を知り、失恋を知った東雲ちゃんにも素敵な恋がまた訪れることを願っております。
また人文科学、社会学、心理学的な観点から、これだけ「恋」についての考察を丹念にしていたら素敵な恋の論文が書けそうな感じですよね。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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