映画『ひらいて』ネタバレ感想|瞳で語る山田杏奈。その激情は暴走なのか

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こんにちは。織田(@eigakatsudou)です。

今回は2021年公開の映画『ひらいて』の感想をご紹介します。

首藤凜監督が脚本・編集も務め、主演は『ミスミソウ』の山田杏奈さん。「歪な三角関係」といった前情報も聞いた中で観てきました。

この『ひらいて』。原作は綿矢りささんなんですが、原作小説は読んだ方がいいです。結構強めにおすすめします。

映画鑑賞後に小説を読み、映画の完成度がいかに高いか思い知りました。

この記事では小説を読んで感じたことも交えつつ、映画『ひらいて』の感想を書いていきます。

感想部分でネタバレを含みますのでご注意ください。



あらすじ紹介

成績もよくて、明るくて目立つタイプの愛(山田杏奈)は、同じクラスの“たとえ”(作間龍斗)にずっと片思いをしている。 ひっそりとした佇まいで寡黙なタイプだけど、聡明さと、どことなく謎めいた影を持つたとえの魅力は、 愛だけが知っていた。 そう思っていたある日、彼には「秘密の恋人」がいることを知る。 それが病気がちで目立たない美雪(芋生悠)だとわかった時、いいようのない悔しさと心が張り裂けそうな想いが彼女を動かした─。 「もう、爆発しそう─」 愛は美雪に近づいていく。誰も、想像しなかったカタチで・・・。

出典:公式サイト

スタッフ、キャスト

監督・脚本 首藤凜
原作 綿矢りさ
木村愛 山田杏奈
西村たとえ 作間龍斗
新藤美雪 芋生悠
ミカ 鈴木美羽
多田 田中偉登
担任教師 山本浩司
愛の母 板谷由夏
美雪の母 田中美佐子
たとえの父 萩原聖人
この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



映画のネタバレ感想

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

 

ここからは映画の内容を含んだ感想になります。
まず始めに、主人公・木村愛(山田杏奈)について考えていきたいと思います。

クラスメイトの西村たとえ(作間龍斗)を高1の時から想い続け、決して目立つ方ではない彼の魅力や尊さを自分は理解していると自負していた愛。

しかしその西村たとえ君には秘密交際を続ける彼女がいて、それでも彼の元へたどり着くために、愛は秘密の彼女・美雪(芋生悠)に近づいていきましたというお話ですね。

付き合っているたとえと美雪。そこに介入する愛という風な三角関係にも見え、結果美雪にとっての間男のような存在になった愛でしたが
この作品で特徴的なのは、愛の介入は美雪とたとえの関係に何ら影響を及ぼしていないことです。
「及ぼしていない」ではなく、「及ぼせていない」が正しいかもしれません。

愛は何がしたかったのでしょうか。どうなりたかったのでしょうか。

その激情は暴走なのか

映画『ひらいて』の愛(山田杏奈)を鑑賞中に思ったのは、彼女は自分が「できる」と思ったことは何でも手に入れられる自信に満ちた存在だということでした。

実際欲しいものは何でも手に入れてきたのでしょう。
恋愛経験値も、大学の推薦も、学校での立ち位置も。ただその裏には文化祭の実行委員をやったり、テスト前にしっかり勉強したりと、対価を得るだけの労力と要領の良さがあったはずです。

多田くんの台詞からすると、そんな愛には敵もいたようですね

そんな愛は、たとえ(作間龍斗)を自分のものにしたいと思いますが、彼には中学の頃からこっそり付き合っている彼女がいて、なおかつ彼は自分に対して興味が無さげなわけです。

恋人のいる男の子にアタックするのは、傍から見れば破滅へといざなう使者とも見えます。邪魔者です。

でも愛にとってはたとえに彼女がいることは自分の想いをストップする要因にはならなくて、たとえを振り向かせるために走り続けます。
文化祭準備の居残り共同作業でいい感じになり、意を決して告白して振られてもなお執着は消せず、彼のことを追い続けました。

相手の事情や感情は関係ありません。自分の想いをぶつけるために突撃していきます。
たとえはそんな愛に向かって「自分しか好きじゃない、何でも自分の思い通りにしたいだけの人間の笑顔」と言い放ちます。

好きじゃない人から執拗に言い寄られ、どうしたら解放してくれるの?というたとえの気持ちもわかります。

これを愛の暴走と言ってしまえばそれまでなんですが、個人的には「暴走」だけで片付けたくはありませんでした。

あなたに影響を及ぼしたい

たとえに対して愛が抱いていた感情、それは映画序盤と後半で変わってくるのではないかと思います。

前半ではたとえのことを手に入れたい、という恋愛感情でしたが、文化祭準備の夜に告白して振られて以降は、たとえに対して自分が影響を与えられるか否か、という勝負になっていきます。

これだけ私はたとえ君のことが好きなのに、彼にとって私は眼中の外の存在で、どれだけ気を引いてみても、刺激を与えてみても、彼は拒絶を続ける。私の行動に憤ることすらせずに。

愛の想いと行動は、何一つたとえ君に影響を及ぼせていないんですね。いないも同然なわけです。

夜の教室に呼び出して二人きりになったシーンは、もう屈辱でしかないですよね。

告白への無反応

個人的にはたとえ君の“振り方”にも問題があったと思うんですよね。

もし文化祭準備のあの夜、たとえが愛の告白を真面目に受け止めた上で、断っていたら。
「ごめん」につながる「ありがとう」を言えていたら。

愛はもっと爽やかにたとえくんのことを諦めて、前向きにあの場を去っていたのかもしれないんですよ。

原作小説ではこの部分の愛の心情が描写されていて、告白をした後もたとえが無反応を貫いたことへの悔しさが描かれています。

 ここまで言い切って帰れば本当にけなげなしおらしい女子を演じきれるのだろうが、さっきからほとんど無反応で私の話を聞いているたとえを前にしたら、そうか、さよなら、とあっさり帰されて、告白したことなど無かったかのようにかき消えてしまいそうで、恐しくて言えない。私はまだ一度も彼を揺さぶっていない。敗北のくやしさに心に血がにじむ。

出典:綿矢りさ「ひらいて」(新潮文庫)

例えば『思い、思われ、ふり、ふられ』(2020)では告白をする側、される側が描かれていますが、あの映画の登場人物は告白をした人が振られた後も前に進めるような振り方をしているんですよね。

告白した側の振り絞った勇気をしっかりと受け止めて、その上で付き合えるか否かの判断を下しています。

けれど、たとえ君の反応は、想いを受け止める以前にバリアーを敷いて、無かった事のようにかき消そうとするみたいに映るわけです。「嘘っぽい」の一言で、本気を本気でないものとして片付けられてしまいます。

「一度も彼を揺さぶっていない」に込められた愛の絶望はあまりにも深い。深すぎます。

一方で告白に対する受け止め方で言えば、多田くん(田中偉登)から告白された時の愛の反応も、たとえが愛に見せたのと同じような感じでした。

もちろん親友のミカが多田くんのことを好きだと知っていたという文脈もありますが、それを差し引いても、愛は多田くんの勇気を冗談交じりに振り払います。
別に多田くんのことが好みかどうかなんて関係ないんですよ。勇気にちゃんと応えてあげる必要ってやっぱりあると思うんですよね。

その後の多田くんの行動を見ていると、彼の失恋の消化の仕方は凄いと思いましたね。



小説と映画の視点の違い

映画を観た後に綿矢りささんの原作小説を買って読んでみたのですが、読了後に映画版の凄さ、特に山田杏奈さんの凄みが爆上がりしました。

同じく映画化された綿矢さんの『勝手にふるえてろ』『私を食いとめて』を思い出してみると、想像力の強い主人公を、自分語りだとか妄想シーンで描写していたのが特徴です。

『私をくいとめて』では脳内相談役というキャラクターが主人公の頭の中にいて、もう一人の自分的な存在と会話をしながら自らの心情だったりキャラクターをこちらに明示していました。

けれど、この映画『ひらいて』の特徴として、愛の描写は常に客観で描かれていることがあります。

綿矢りささんの小説では愛の一人称で物語が進むのに対して、映画の山田杏奈さんはモノローグや脳内イメージなどを一切使わずに進んでいきます。

それでありながらも、山田杏奈の愛は確かに木村愛だったんですよね。

雄弁な瞳

『ひらいて』の愛で最も印象的だったのは彼女の瞳ではなかったでしょうか。もっと言えば、瞳に宿る光です。

基本的に愛の瞳が輝くことはほぼなくて、彼女はいつも不機嫌そうに、物足りなさそうにしています。
笑顔を作ってみても美雪の無邪気なものとは対照的に、愛は目が笑っていないんですよね。

「分かった、秘密にする。で、誰なの?」
「知っているかな、西村たとえ君っていうんだけど」
 分かっていたのに、目の前が薄暗くなり、笑顔を保ったまま瞳だけが死ぬ。目の前のこの女を、一生許せそうにない。

出典:綿矢りさ「ひらいて」(新潮文庫)

瞳が暗いままだから。
瞳がぼんやりすすけて、薄暗い。

そんな表現も出てきました。愛の大きな黒目は暗いままで、笑顔が笑顔として機能していません。それを美雪やたとえは「貧しい笑顔」とか「嘘」と形容しました。

人は楽しいことだとか嬉しいことがあれば笑います。目尻に皺を作り、瞳を輝かせて笑います。
けれど愛は、山田杏奈は、美雪と話していても、たとえと話していても、ミカや多田くんやお母さんと話していても、その瞳は暗いままだし、目を細めることもありません。刺すような目。

山田さんは映画『ミスミソウ』の時も暗い瞳でしたが、あの映画とはまた違う種類の暗闇です。

その瞳に宿るのは打算なのか敵意なのか不満なのか屈辱なのか失望なのか。いずれにしても、愛の笑顔はいつだって表層的で心の底が微笑んでいませんでした。黒目の動かし方も、ぎょろって感じで重くて冷たい。

さらに言えば口も真一文字に結んでいることが多く、口角を上げても目が笑っていないので、無邪気な笑顔とは程遠いものでした。

「張り付いたような笑顔」と言う表現がありますけど、『ひらいて』の愛はその域にすらたどり着いていないのではないかと感じます。

モノローグを使わなかったこの映画において、木村愛を表現し通した山田杏奈さんの「瞳」はあまりにも雄弁でした。
このあたりは原作小説を読んで文字化された愛のキャラクターを読むと、また凄みが増すはずです。ぜひ読んでみてください。

雄弁な手

もう一つ、『ひらいて』で印象的だったのが「手」でした。

愛の磨かれたは映画前半部分における、彼女の確固たる立ち位置や自信を表現しているように見えましたし、爪の形が母親譲り(で綺麗)とか、そういう描写も愛たちにとって「爪」がいかに大事な部分かということを示していたと思います。

一方で終盤には、荒んでいった愛を鏡写しにするように、ぼろぼろになった爪を映していました。

 

これは経験則に基づく圧倒的主観なんですけど、女性にとって「手」って凄く重要だというのをよく聞くんですよ。

ネイルの考え方に対しても女と男で重要度の置き方は違うと思いますし、女の人に相手のどこを見る?って聞いたときに「手」とか「指」って言う人が今まで多かったんですね。
「手が綺麗」とか「指が綺麗」とか「爪の形が綺麗」は紛れもない褒め言葉です。

その観点からすると、『ひらいて』は「手」をとても大事に扱っているという印象を受けました。

先述の愛の爪もそうですし、教室で愛が見つめる先にある、たとえ君の手もそうです。
愛が折っている折り鶴もそうです。

この折り鶴は原作小説でも象徴的に出てくるんですが、文化祭アートの材料として自然に落とし込んだ映画版のアレンジが素敵すぎました。

『ひらいて』はPG12作品でベッドシーンもありましたが、僕が一番官能的というか色気を感じたのは「手」だったんですよね。

夜の教室でたとえに(無理やり)抱きしめてもらう時の二人の手も、愛が美雪を探る手も、探った後の指も。

愛の瞳は表層的な嘘っぽさを含んでいたけれど、きっとこの映画に出てくる「手」だけはみんな嘘をついていなかったんじゃないかなって思いました。

 

劇中歌の「夕立ダダダダダッ」、大森靖子の主題歌はもちろん、あいみょん(ふたりの世界)とジュディマリ(散歩道)のカラオケ選曲も完璧だったと思います。
自己中心的に進む恋愛とこの先の不安。手をつなごう誇らしく前を見て。

良い映画でした。
最後までお読みいただきありがとうございました。

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