映画『いなくなれ、群青』ネタバレ感想〜飯豊まりえという才能に感謝したい〜

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こんにちは。織田(@eigakatsudou)です。

今月公開された映画『いなくなれ、群青』を観てきました。

柳明菜監督、主演・七草役に横浜流星を据え、七草の同級生役として飯豊まりえ矢作穂果松岡広大松本妃代らを配しています。

原作は河野裕の同名ミステリー小説
「階段島シリーズ」の第1作として刊行され、人気を博しています。

11月19日午前6時42分、僕は彼女に再会した。誰よりも真っ直ぐで、正しく、凜々しい少女、真辺由宇。あるはずのない出会いは、安定していた僕の高校生活を一変させる。奇妙な島。連続落書き事件。そこに秘められた謎……。僕はどうして、ここにいるのか。彼女はなぜ、ここに来たのか。やがて明かされる真相は、僕らの青春に残酷な現実を突きつける。「階段島」シリーズ、開幕。
いなくなれ、群青(新潮文庫) Kindle版Amazon商品ページから引用)



『いなくなれ、群青』のスタッフ、キャスト

監督:柳明菜
原作:河野裕
脚本:高野水登
七草:横浜流星
真辺由宇:飯豊まりえ
堀:矢作穂香
佐々岡:松岡広大
水谷:松本妃代
時任:片山萌美

あらすじ紹介

大学文芸員が選ぶ第8回大学読書人大賞や、「読書メーター」 読みたい本ランキング第1位などを獲得した河野裕の同名ミステリー小説を横浜流星、飯豊まりえ主演で映画化。

七草は人口2000人程度の階段島にやって来た。
階段島は捨てられた人たちの島で、島の人たちは誰もが自分がなぜこの島に来たかを知らない。
特に疑問を抱くことがなかった七草の島での高校生活は平穏な時間だったが、幼なじみの真辺由宇との再会により状況は一変する。
「納得できない」と憤慨し、島から出るために島にまつわる謎を解き明かそうとする真辺。七草と周囲の人々は真辺に巻き込まれていく。

七草役を横浜、真辺役を飯豊がそれぞれ演じる。監督はアメリカの高校在学中にバッカイフィルムフェスティバルのオハイオ州優秀賞を受賞した柳明菜。

映画.com作品解説より引用)

今回は原作小説や事前知識がない状態で鑑賞に臨みました。
原作ファンの方がご覧になった場合は、比較しながら別の見方ができると思いますが、映画版の純粋な感想として受け取っていただけると幸いです。

以下、作品の設定や展開について触れた箇所があります。
映画を未見の方はご注意ください。



映画のネタバレ感想

以下、作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

「階段島」、それはもう一つの世界

高校生の七草(横浜流星)がやってきた「階段島」という島。

そこでは通常世界とのノーマルな通信手段を断たれ、インターネットは閲覧のみ可能、島外に出ることは不可能と様々な制限を与えられながらも、島の人たちはその環境に次第に疑問を抱かなくなっていきます。
階段島での生活は平和でそこまで不自由があるわけではありません。映画全体を見るに、何か特別な産業が発達しているようにも思えませんが、島民はそれぞれの仕事や生活を普通に受け入れているように見えます。

上の解説で述べられているように、階段島は「捨てられた人たちの島」であり、島のみんなは自分たちが「この世界に」来て「しまった」ことはわかっているものの、なぜそうなってしまったか、島から出るにはどうすればいいか考えることを止めてしまいます。
島を出るためにかける労力と出られる可能性と、現状の生活の充足感を天秤にかけた場合に割りに合わないからでしょう。

しかし、そんな平和な日常に、一人の闖入者が波紋を投じます。
波のない静かな水面に、勢いよく飛び込んで来たのは、七草の幼馴染・真辺由宇(飯豊まりえ)という女子生徒でした。



若手俳優の存在感、キャラビジュアル

映画鑑賞後に新潮文庫NEXの作品ページにて「階段島」シリーズのイラストビジュアルを見てみました。

驚愕しました。
越島はぐさんのイラストと、映画実写版の役者が演じるキャラクターがあまりにも似ていたからです。

特にクラス委員長の水谷を演じた松本妃代の再現度は圧巻の一言です。

佐々岡役の松岡広大堀役の矢作穂果、それに横浜流星の七草と飯豊まりえの真辺も素晴らしい人選、役作りと言えるでしょう。
原作がアニメや漫画ではないため一概に他の実写化作品とは比べられませんが、ここまで原作のビジュアルを丁寧に再現した作品はちょっと記憶にありません。

恥ずかしながら、横浜流星以外の高校生役の役者さんは初めて拝見する方たちばかりでした。

その一方で、「初めまして」の若手俳優たちは、真っ直ぐで堂々とした演技力を披露し、僕に「この役はあなたじゃないとダメなんだ」と刷り込ませることに成功しました。

既に見たことのある役者さんをスクリーンで見るとき、僕はその役者さんの声や笑い方や、場合によっては怒鳴り方とか走り方とかも知っている状態で鑑賞します。
それがあるから映画のストーリーにすっと入り込めることもあれば、過去に観たキャラクターとの大きな差異の部分に「こんな演技もできるんだ」と驚かされることもありました。

みんながみんなハマり役

逆に初見の役者さんに対しては、ストーリーやキャラクターを追う作業と平行して、役者さんの顔や声を覚える作業が発生します。
これは「誰が誰を演じている」という条件を比較的頭の隅に置いておきたい僕の個人的な嗜好が関係しているのですが、『いなくなれ、群青』の高校生を演じた俳優たちは、僕のその作業をすっ飛ばしました。

全ての登場人物が「役名(俳優名)」とか「俳優名(役名)」とかではなくて、一人のキャラクターとして階段島の世界に生きていました。

水谷は松本妃代じゃなければ、佐々岡は松岡広大じゃなければ、堀は矢作穂果じゃなければ、もちろん七草も横浜流星じゃなければ成り立たない。なぜなら彼らがありのままの姿で、そこに生きているから。

話すあっちゃんも、怒るタマ子も、自転車にまたがるタマ子も、ロールキャベツを貪るタマ子も、ぐうたらするあっちゃんも、タオルケットにくるまるあっちゃんも全てが愛おしく、前田敦子=坂井タマ子としてそこにいる。

以前『もらとりあむタマ子』という映画で、主演の前田敦子をこのように評したことがありましたが、『いなくなれ、群青』で熱演した役者の皆さんに対しても同じ思いです。
他の誰でもなく、ただ、君なんだ。

原作を含めた映画への予備知識がなかった僕がこの映画を楽しめた理由は、彼らの演技に依るところが大きかったと思います。

その中でも特に存在感を放っていたのが、真辺を演じた飯豊まりえでした。

これが飯豊まりえか

飯豊まりえという女優さんについては、名前も顔も認識していました。数年前からメジャーストリームに出てきた彼女の評価も、いろんなメディアや人々の口を通して聞いていました。

とは言え、出演作品を見るのは初めてでした。
今回真辺というキャラクターを演じた彼女との“初顔合わせ”にて、僕は大きな大きな衝撃を受けることになります。

『いなくなれ、群青』を鑑賞した最大の収穫は、飯豊まりえという才能を知れたことと言っても過言ではないかもしれません。
真辺由宇というキャラクター、そして飯豊まりえという女優に、僕はあっという間に心を奪われました。



危ういほどの真っ直ぐさは悪なのか?

階段島に閉じ込められた境遇や、この島の秘密に対して疑問を持った真辺は、自らの正義を信じて問題の解明へと突き進みます。

真辺を突き動かすその正義感を七草は「理想主義」と呼び、自分やこの島の価値観とは違うものとして避けようとします。
それでも彼女は自分を信じて、たとえ一人になろうとも、アンタッチャブルにも見える秘密を探ろうと、足を前に動かし続けます。

民主主義においては多数決が絶対です。
正論や理想論であろうと、それが周りの賛同を得られなければその主張は却下されます。
真辺が声高に叫ぶ「なぜ」は、七草たちの賛同を得ることができませんでした。

学校でも部活でも職場でも、頑固に自らの信念を曲げずに正論を振りかざして進み続け、最終的に孤立してしまう人はいます。
周りの人もその主張が正論だとは多分分かっています。ただ、それを主張する場所なのか、主張する必要があるのか。場を読む能力というものが集団では求められます。

クラスメイトの堀(矢作穂果)は明らかに真辺を異質なものとして捉え、嫌悪します。忌避と言った方が近いかもしれません。
七草も上述のように真辺に対して「君は極端なんだ」と諌めます。
それでも、真辺由宇は問題を問題として捉えて歩む足を止めませんでした。たった一人になったとしても。

詩的なセリフと語尾の「よ」

原作が小説ということもあってか、『いなくなれ、群青』は日常会話とはやや異なるトーンの会話の応酬で物語が進んでいきます。
名前を呼ばずに「キミ」という二人称を多用することもそうですし、詩的な言い回しもそうです。
同級生、後輩の豊川(中村里帆)にさえも丁寧語で喋る水谷の口調もそうです。
「この物語はどうしようもなく、彼女に出会った時から始まる」という七草のモノローグもそうです。

この作品で発される言葉たちは、高校生の等身大のものというよりは、あくまでも「セリフ」と言った方が適切かと思います。

下の名前を呼ばずに「真辺さん」「堀さん」と苗字だけを呼び合うよそよそしさも、なかなか普通の女子高生ではあり得ないことかと思いますが、彼らの通う階段島の高校は普通ではないので演出的には正解でしょう。

そんな中で印象的だったのが、真辺のセリフで何度か出てくる「〜だよ」「〜よ」という文末表現です。

「違うよ」
「一緒にいちゃいけない人間なんているはずないよ」
「私たちは必ず、また出会うんだよ」

真辺が持論を主張する言葉の節々に出てくる「〜だよ」「〜よ」は、顔色を変えず淡々と正論を紡ぐ彼女の頑固さ、強情さが、純粋なものに起因するものだと僕に教えてくれました。
相手を説き伏せたいならば、自分の正しさを証明したいだけならば「〜だよ」「〜よ」を付けずに言い切ってしまった方が断定的になるし、効果的です。

けれどそうしなかったのは真辺が他者を踏みつけて自分の正しさを証明するとか、そういう思想の持ち主ではないということを描いているのではないでしょうか。

彼女は自分の歩いている道が正しいと証明しているのではなく、自分がこの道を歩く理由を説明しているだけなんです。

彼女は人に何かを言われようと、反対されようと、自分の思った道を進む人間です。
でもそれはイコール他者の主張を踏みにじったり、封殺するものではないということなんです。
論破ではなく、説明。彼女の語尾からはそのような印象を受けました。

飯豊まりえの真辺に恋をした

僕自身、味方が誰もいなくても社会的に正しいと思うことは主張してしまうタイプの人間です。
それで実際に失敗したことや何かを失ったこともあります。
だから本作の真辺を、敬意と既視感と不安(心配)を持って鑑賞していました。

危ういほどに真っ直ぐ尖った彼女の考え方や信念は、映画の中でだんだんと変化していきました。
周りの真辺に対する態度もそうですし、真辺自身の周囲への接し方もその一因でしょう。

この映画は真辺というキャラクターを通して「正しいことが必ずしも正しいわけではない」というテーマに挑戦しているように感じました。
そして、その理想主義者の高潔さと純粋さと危うさを見せてくれた飯豊まりえには本気で感動しました。

これほどまでに、誰か一人に移入して映画を観ることは最近なかったと思います。
これはもはやキャラクターに対しての恋心とか同一視とかなのかもしれません。

むき出しの感情を「元の世界」に置き忘れてきたかのように、言葉とは裏腹にあまり表情を変えることが多くなかった飯豊まりえが、笑顔で花火に興じるエンディングは最高でした。
もちろんあのシーンの他の面々の笑顔も最高でした。

この映画を観て、飯豊まりえ=真辺由宇の理想主義云々だけを取り上げるのはあまりにも断片的であることは承知しています。ミステリーの部分も楽しかったですし、堀と七草の関係の展開も個人的には驚きました。

僕は飯豊まりえという才能と出会えたことが最大の収穫でしたが、他の役者さんに対して、僕が真辺に感じたような新たな発見をできる可能性も十分にあると思っています。
高校生たちの、空よりも青い「真っ直ぐ」を観て、何かを感じていただけたら幸いです。

好きな、良い映画でした。

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