GReeeeNの名曲モチーフ第2弾
こんにちは。織田です。
GReeeeNが一躍メジャーシーンで有名になった曲。
それを問えば、「キセキ」と「愛唄」と答える人が多いかもしれません。
前者は『キセキ -あの日のソビト-』というタイトルで、楽曲誕生までの道のりを描いた映画が、2017年に公開されました。
松坂桃李、菅田将暉をダブル主演に据え、メンバーの葛藤や音楽をやるまでの物語を、実話に基づいて綴った映画です。
それから2年後の2019年。
もう一つのGReeeeNにおける象徴的な名曲『愛唄』をモチーフに配した青春映画がリリースされました。
こちらもGReeeeNが脚本に参加し、実話を基にしたオリジナルエピソード。
『キセキ -あの日のソビト-』のチームが再結集し、監督には新たに川村泰祐氏を迎えました。
以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
『愛唄』のスタッフ、キャスト
監督:川村泰祐
脚本:GReeeeN、清水匡
野宮透:横浜流星
伊藤凪:清原果耶
坂本龍也:飯島寛騎
相川比呂乃:成海璃子
橋野冴子:中山美穂
副島浩一:野間口徹
野宮美智子:財前直見
主演には『キセキ』でnavi役を務めていた横浜流星。
一方で配役は、GReeeeNのメンバーとは関係ないオリジナルキャラクターのトオルという社会人の青年を演じています。
『キセキ』でレコード会社の社員を演じていた野間口徹や、ジン(松坂桃李)のバンド仲間として登場していた奥野瑛太といった役者も引き続き出演していますが、基本的に『キセキ -あの日のソビト-』と本作は別物と考えていいと思います。
あらすじ紹介
「キセキ」のチームとGReeeeNが紡ぐ今回の物語は、誰かを本気で好きになったこともなく、毎日を淡々と過ごしていた青年トオル(横浜流星)が余命わずかと告げられたところから始まる。
どん底のなか、元バンドマンの旧友・龍也(飯島寛騎)との再会や、数奇な運命を経て出会った少女・凪(清原果耶)の姿に勇気づけられたトオルは、全力で“今”を生きようと前向きな勇気を得ていくのだが……。
エモーショナルな“恋”と“命”のストーリー、映画を美しく彩る「愛唄」の不変の“チカラ”に、きっとあなたはあふれ出る涙を止められないに違いない。
『キセキ』が曲の誕生秘話だったことに対して、『愛唄』は完全なオリジナルストーリー。
横浜流星さんも野間口さんも奥野さんも、役柄としては全く違う形の登場ですし、そもそもの世界線が『キセキ』とは大きく異なっています。
この映画をおすすめしたい人
上記のあらすじからもわかるように、この作品は主人公・トオル(横浜流星)たちの闘病がキーポイントとして出てきます。
作品名こそ『愛唄 約束のナクヒト』なのですが、限られた命の時間とどう向き合うか、どう過ごすかということが映画の本筋になってきます。
トオルをはじめとした闘病するキャラクターやその家族は結構重いものを背負っているだけに、命をテーマにした作品が好きな人、感動できる人には響く類の作品だと思います。
個人的には、GReeeeNが好きだとか曲としての「愛唄」が好きだとか、そういった要素よりも、病気をテーマに扱う作品に耐性があるかの方が重要だと思います。
「生きるって
夢中になるってことだと思う」#愛唄公開中 #映画愛唄 #約束のナクヒト#清原果耶 #愛唄のコトバ pic.twitter.com/JUrqFI9b7x— 映画『愛唄 -約束のナクヒト-』公式 (@aiutamovie) February 3, 2019
一方で、病気というファクターを感動の誘導装置と捉えてしまう人や、悲劇があまり得意でない人にとっては、やや評価が分かれる作品となるかもしれません。
結論から言えば僕は後者だったため、この映画『愛唄 約束のナクヒト』がそこまで刺さる作品にはなりませんでした。
以下、ネタバレを含めながら感想を書いていきたいと思います。
未見の方はご注意ください。
映画のネタバレ感想
以下、作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
決して崩れない薄命の前提
がんを宣告され、余命3ヶ月と告げられて自殺すら考えたトオル(横浜流星)。
比呂乃(成海璃子)という女性が落とした文庫本の詩集を読み、涙を流した彼は、通院先の病院で伊藤凪(清原果耶)という高校生の少女に出会います。
この伊藤凪という少女は、トオルが読んで涙を流し、生きる意味を見出した詩集の作者でした。
幼い頃から血液の問題で入院していた凪は、すでにタイムリミットが近づいていましたが、彼女は楽しそうに笑って毎日を過ごします。
トオルが理由を聞くと「だって、(生きている)今は楽しいから」との答え。
トオルは、彼女がまだしたことのないことを一緒にしていこうと提案。
二人は制服を着て高校に潜入したり、凪に初めて料理をさせてみたり、朝日を見に海辺まで出かけたりと行動を起こします。
病床の誰かを外に連れ出してあげる、よくある「やり残したことをやり切ろう」のパターンですね。
とは言え、衰弱している病人が外に出るのは、当然のことながら大きな負担がかかります。楽しさや発見や思い出と引き換えに、自身を思う周りの人に大きな心配を抱かせます。
もちろんそのリスクをわかっていたとは言え、トオルが凪を連れ出したことは彼女の体と彼女の両親の精神面に大きな代償を負わせました。加えて言えば、トオル自身の体もそうだと思います。
トオルが起こした行動を、「凪が望んでいるから」「闘病しているトオルだからこそ分かるものがある」と捉えるか、「残された家族の心配はどうなるの?」と考えるかで見方は分かれると思います。
ちなみに制服を(苦労して)手に入れて、凪と一緒にトオルが高校へ潜入するシーンがありましたが、社会人の男性が制服コスプレで校内に侵入しているというのは、冷静に考えてみればとても恐ろしいものがあります。
演じているのが横浜流星ということでサラッと見てしまいましたが。
少し穿った見方をすれば、薄命の境遇にあるから何をやっても仕方ない、という前提がこの映画にはあったのではないかと思いました。
夫(トオルの父)を亡くし、一人で飲食店を切り盛りするトオルの母(財前直見)は、凪の事情を知っていたら、トオルの行動に対してどう思ったのでしょうか。
「愛唄」を使う意味とは
楽曲の成り立ちを実話に基づいて描いた「キセキ」とは異なり、この作品のテーマとなっている「愛唄」は、映画の内容とどうもミスマッチの印象が拭えません。
もちろん病気と闘う誰かが、曲を作る上でのトリガーになったのかもしれませんが、トオルや凪が一生懸命に過ごす毎日や「生きる」ということへのアンサーソングとして適当かと言われれば首をかしげざるを得ません。
詩人として人には生み出せない心のこもったリリックを紡ぎ出す凪が、誰のために「愛唄」を作ったのか。
君の選んだみちはここで
良かったのか?なんて
分からないけど
(愛唄/GReeeeN 歌詞から引用)
この歌はあくまでも、まだ未完成な若い男女が、照れを隠しながらもストレートな言葉で愛とか感謝を伝えていく詩だと僕は思います。
別に病気の境遇が悪いとかではなく、生命というキーワードが果たして「愛唄」というラブソングを表現するのに適当なモチーフだったかということが疑問に残りました。
ただ泣いて笑って過ごす日々を、平凡な代わり映えのしない幸せとして捉えるのであれば、それもいいのかもしれません。
「僕が生きる意味になって」と、生きていく意味を与えてくれた誰かに対する感謝の言葉であれば、それもまた一つの答えなのかもしれません。
でも、「愛唄」という曲を青春時代にリアルタイムで聴いて、あの歌に勇気をもらって恋愛をしていた世代からしてみると、やはり設定には違和感が拭えませんでした。
少なくともタイトルからは外すべきだったと思います。
すごく勝手な意見を述べさせてもらえば、「愛唄」は凪によるものではなく、トオルにお節介を焼き続け、トオルの背中を押し続けた龍也(飯島寛騎)のものといったほうが説得力があったのでは?と感じました。
結果的に彼は凪の紡いだ歌詞に曲を乗せて愛唄という曲を世に送り出した人間にはなりますが、ラストシーンで我々視聴者に示された彼のタイムリミットを鑑みれば、龍也が「愛する誰かのために」作った曲というほうがしっくり来ます。
ヘタクソな唄を君に贈ろう
「めちゃくちゃ好きだ!」と神に誓おう
(愛唄/GReeeeN 歌詞から引用)
こちらの歌詞も、主語を考えれば凪よりも龍也でしょう。
カメラを通して描かれる凪からは、少なくとも「誰かのために」何かをしている様子はあまり感じられません。
一方で龍也は、トオルの残り3ヶ月間を悔いのないものにするために、トオルのために生きていく様子が描かれています。
「好きだって一言言ってみ
お前の可能性も拡がるぞ」#愛唄公開中 #映画愛唄 #約束のナクヒト#横浜流星 #飯島寛騎 #愛唄のコトバ pic.twitter.com/lrpE03kqai— 映画『愛唄 -約束のナクヒト-』公式 (@aiutamovie) January 31, 2019
もちろん凪がずっと病気と闘い続けて来たことも、誰かを想って言葉を絞り出していることも事実です。
でもそれが描かれていない以上、凪が「愛唄」に込めた想いは僕には伝わってこなかったし、「遺作」として位置付けたようにしか見えませんでした。
繰り返しになりますが、「愛唄」の歌詞のイメージと本作品に流れる「生きる」テーマは、乖離しているように見受けられました。あくまで個人の感想です。
成海璃子の使い方
最後に、物語前半部分に登場し、トオルと伊藤凪の詩集を出会わせることになった比呂乃(成海璃子)についてです。
生きる意味を見出せなかったトオルに笑顔を取り戻させて、奥野瑛太が店長を務めるバーでタコスを美味しそうに頬張り、ウブなトオルとのデートの約束の取り付けをこちらが赤面してしまうほどの青臭いやり取りで行う比呂乃。
良い雰囲気が続いていたし、比呂乃と会うトオルに龍也が偉そうにお節介の講釈を垂れるところなどは本当によかったので楽しかったのです。
楽しかったのですが、凪の登場と入れ替わるように、比呂乃は映画のメインストリームからフェードアウトしていきます。あっさりと。
女優の楽しさ、生きがいを忘れられなかった彼女を、トオルが解放したと言えば聞こえはいいものの、「価値観が合う」と言っていた比呂乃の思いはどうだったのか。
トオルの優しさや思いやりは、比呂乃の想いやトオルへの信頼を全く無視したものになってしまったのではないか。
闘病しているという境遇が一緒じゃないとトオルはダメだったのか。
比呂乃と会わなくなったトオルに対しては疑念が残るばかりだし、女優業に未練を持っている彼女に迷惑がかかると考えていたのならば、すごく小さな男だと思います。
自分のことを信じてくれた人を見限ることってそんなに簡単にできるんでしょうか。
結局、自分の辛さを緩和したいエゴなのではないでしょうか。
比呂乃のフェードアウトは、正直なところ映画の前半部分を全く意味のないものにしてしまいました。
比呂乃と出会ったことで何かトオルが変わったとも思えませんでした。
彼女との出会いで得たものは伊藤凪という存在を知り得たことだけ、なのではないでしょうか。
作品全体を見ても比呂乃の描き方は大きな損失だと思います。
結果的に、トオルの病気を知らない人からの視点がなくなってしまったことが、とっても残念でした。
病気とか余命をファクターとした作品に対しての、自分のハードルが高いことはわかっています。
ただ、この作品がGReeeeNの愛唄をモチーフとしている以上、そこと乖離した薄命境遇を押し出し過ぎていることはやはり残念でしたし、主人公の行動がやっぱりどうしても理解できませんでした。
『キセキ -あの日のソビト-』とは別物の作品だと思った上で鑑賞するのが良いと思います。
もう少しうまく出来たんじゃないかな、というのが本音ですね。
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