映画『あしたの私のつくり方』ネタバレ感想|FOMA世代激エモ案件!携帯と紡ぐ青春傑作

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こんにちは。織田(@eigakatsudou)です。

皆さんは学生時代、クラスでどんな自分でしたか?

小学校でも中学校でも高校でもいいです。どんな自分で過ごしていたでしょうか?

思い出してみると、クラスの中にはいくつかの与えられたスペース、役割がありました。まとめ役、盛り上げ役、静かな子、よく発言する子、いじられ役の子…。その役割の中に自分の場所を見つけて生活する、そんな人も多かったのではないでしょうか。

ありのままの自分で生活していた人も、本当の自分とは少し違った自分を“演じて”いた人もいると思います。

今回ご紹介する映画は、2007年に公開された『あしたの私のつくり方』

成海璃子さんの主演したこの作品、とても良かったので感想を紹介します。よろしければお付き合いください。



あらすじ紹介

学校では仲間外れを恐れて目立たず、家では両親を気遣い良い子を演じる寿梨(成海璃子)は、周りに合わせてしまう自分に違和感を感じていた。小・中学校で同級生だった日南子(前田敦子)は、優等生からクラスで無視される存在に転落。ある出来事を思い出した寿梨は、疎遠になっていた日南子に架空の物語を携帯メールで送り始める。

出典:シネマトゥデイ

スタッフ、キャスト

監督 市川準
原作 真戸香
脚本 細谷まどか
寿梨 成海璃子
日南子 前田敦子
寿梨の母 石原真理子
寿梨の父 石原良純
寿梨の兄 柄本時生
日南子の母 奥貫薫
金井淳 桜田通
久保田真奈美 柳英里沙
田村先生 高岡蒼甫

成海璃子さんが演じる寿梨「ジュリ」前田敦子さんが演じた日南子「カナコ」と読みます。

ちなみに寿梨が通う高校は「翠陵高校」ですが、クレジットで協力とあるのは横浜翠陵高校。実名をそのままモチーフにした珍しい例ですね。

映画内では女子校ぽかったですけど、実際は共学の高校です。
この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



クラスのポジション

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

 

「あのころ私は、あしたが来るのが怖かった」
「いじめられる子がいて、選ばれた子がいて、そのどちらでもない子がいる」

映画は小学校のシーン、6年生・寿梨(成海璃子)のモノローグで始まります。

Wikipediaによると撮影は2006年8月、9月に行われたそうですが、当時成海璃子さんは14歳、前田敦子さんは15歳。
この後物語が進むにつれて高校1年生としての役も演じる中、実年齢そのままにあどけなさを残す二人の配役はあまりにも見事でした。

前田敦子さんの小学生はマジで違和感なかったですね!

ここで寿梨の言う「いじめられる子」は、久保田真奈美というメガネをかけた勉強ができる子で、「選ばれた子」というのは明るくてクラスの中心的存在である花田日南子(前田敦子)。そしてそのどちらでもない位置に、主人公の杉谷寿梨(成海璃子)がいます。

私の小学生時代、6年3組は「なかよし3組」と模造紙に銘打たれて、黒板の上に堂々と貼り出されていました。そんな仲良し学級でもクラス内の立ち位置というのは確かにあって、いじめられる子といじめられない子がいました。

明日は我が身

クラスの画像

(出典:Pixabay)

中学受験を控えていた寿梨は1週間学校を休むことに。

余談ですが寿梨の勉強机は「ケロロ軍曹」が3巻まで中途半端にあったりして非常に良かったです!

志望校に落ちてしまった寿梨がクラスに戻ると、カースト上位だった日南子はいじめられる対象に転落してハブられており、いじめられっ子だった久保田真奈美は寿梨が落ちた私立中学に受かっていました。
(流れる蛍の光に時代を感じさせる中w)卒業式で久保田は人気者のポジションを勝ち取っていました。

卒業式後の図書室で寿梨と顔を合わせた日南子は「一人だと無視しないんだ?」と言いながら、こう明かします。

「久保田さんが受験でいなくなったから、誰かが(ハブられる)役回りをしなきゃいけなかったんだ」

なぜ日南子がその「役回り」になったかというと、たぶん彼女が目立っていたからでしょう。

活発、リーダーシップといったキャラクターは生意気と捉えられ、仲間外れの理由として結論づけられます。要は、出る杭は打たれる理論です。
嫌ですねこういうの。でも確かに存在しているんですよね。

もしも日南子が寿梨のようなそこまで目立たないポジションにいたならば、彼女はいじめる対象を探す子たちの餌食にならなかったかもしれません。

クラスでの立ち位置が一日で変わってしまう。そんな経験が私にもあります…。

一方で寿梨が受験の間も学校に通っていたら、優等生ポジションであることを理由にターゲットにされていたかもしれません。明日は我が身。だから寿梨は「あしたが来るのが怖かった」と明かしたわけです。

日南子は太宰治の『葉』から「お前は嘘が上手いから、行いだけでも良くなさい」の一節を引用しました。

「本当の私」「嘘の私」はこの後も物語の中核に位置付けられていきます。

なりたい私のつくり方

寿梨(成海璃子)は「本当の私」をうまく隠しながら生きてきました。

結果的に失敗してしまったものの、中学受験では親の期待に応えようと良い子を“演じ”、学校では出る杭にならないように周りに気を遣っています。

中2の夏に親が離婚して母親(石原真理子)と二人暮らしをするようになった後も荒れたりすることなく、また父親(石原良純)と兄(柄本時生)と会う時も努めて明るく振る舞いました。なお親の離婚に伴って苗字が杉谷から大島に変わっています。

一方で日南子(前田敦子)の立ち位置は中学になっても変わりませんでした。

時は流れて高校1年。
翠陵高校の文芸部に所属する寿梨は、ひょんなことから日南子が山梨に引っ越したという噂を聞きます。

いじめられっ子との接点を怪しまれない程度に口実をつくりながら「花田さんのメアド教えて」と頼んだ寿梨。

“役回り”が沈んだ日南子に対して、見て見ぬふりで何もできなかった贖罪の意識があったんでしょう。

身分を隠してコトリと名乗り、自分の友達「ヒナ」が、いかにして学校の人気者になって楽しい高校生活を送ったかを、体験談のようにメールで日南子に送っていきます。
すなわち「あしたの私のつくり方」です。

この物語の中の“演じる”内容がまた切ないんですよ…

コトリの指南

コトリ(寿梨)は日南子に、転校生のヒナがどんなところに気を配って楽しいJK生活を手に入れたかを語ります。

転校初日の自己紹介では「コケちゃいました(てへ)」で心をつかんだとか、どんな子と仲良くなるかだとか、学内でのポジショニングとか。

しかし、コトリの語る物語は次第に「ヒナはこういうことをした」から「あなた(日南子)はこうするべき」という指南へと変わっていきます。
要は人気者になりたいならこういうキャラを演じなさいということです。

「恋の問答想定集」みたいなものまで作り出したコトリ(寿梨)。アナログデジタル問わず恋愛マニュアル資料を漁り、ハウツーを授けていきました。
『まともじゃないのは君も一緒』の秋本さん(清原果耶)もびっくりするのではというレベルです。

コトリを騙って寿梨がメールで送った内容をいくつか抜粋してみます。

  • 奇数人のグループを見つけて友達をつくる
  • カラオケでは替え歌で盛り上げる
  • (気になる男子に)メールの返信はすぐにはしない
  • クラスで人気がある子と同じクラブに入る
  • ピンクのネイルで恋のおまじないの流行をつくる
  • 担任の先生に愉快なあだ名をつける
  • 得意なことは自分からは主張しない
  • テストは平均の3点上を目指す

「担任の先生に愉快なあだ名をつける」はともかくとして、全てが打算的ですよね。人気とクラス内での立ち位置を獲得するためのものです。

ただしそれはど真ん中ではダメで、「得意なことは自分からは主張しない」「テストは平均の3点上を目指す」からは、先ほど紹介した“出る杭にならない”ための強い意図が見えます。

あくまでも中心の周縁部分に立ち位置をとります。隙を見せておく必要があります。時に自分を滅してまで“演じる”んです。

滑稽かもしれないけど

テストの平均点狙いの話なんて特に滑稽に映るかもしれません。

けれど、中2の時にテストで満点を取ったことが原因でハブられた経験のある私にとっては、他人事には思えませんでした。きついんですよ。周りの友達に「違う」と思われるのってマジできついんです。

実際高校生になっても得意教科で目立ちすぎないように計算をする癖がついていました。

作品内の彼女たちは4つ歳下だと思うんですけど、寿梨の指南する内容が、また“演じる”目的が痛いほどわかりました。替え歌でみんなの笑いを取ることも、得意なことを主張しないことも、高校デビューを試みた私も同様にやったことです。

ケツメイシや湘南乃風の替え歌を歌えば周りが面白がってくれるから、テストで高得点を取らなければ、授業で発言をしなければ目につくこともありません。当然ながら指定校推薦の枠からは大きく遠ざかります。

大人になってから思い直すと愚かだと思いますし、目立てば離れてしまうと(私が勝手に)考えていた周りの人たちに対して失礼なことをしたとも思います。

でも確かに寿梨の指南するヒナ像は、あの頃の私たちの処世術でもあったんですよね。

そして「ヒナ」とは日南子を導くための道標であり、なおかつ寿梨が「本当になりたい私」を具現化したものでもあります。
「あしたの私のつくり方」は、日南子にとっての「あしたの私」のハウツーであると同時に、寿梨の「なりたい私」のつくり方でもあります。

それを指南し、日南子に成功体験をもたらすことで、寿梨自身が「ヒナ」になっているような感覚になれるわけです。それが寿梨にとってはとても気持ち良いものだったんですよね。文芸部の田村先生(高岡蒼甫)が言っていた「コトリが何のためにこれをしているのか興味がある」部分の答えになります。

嘘と本当

寿梨はヒナとコトリの物語を通し、自分自身を“演じる”ことで「本当の私」が何なのかよくわからなくなってしまいます。これはコトリの指南に従って行動した日南子も同様ですね。

田村先生が「小説なんて所詮ぜんぶ嘘」と言っていたように、小説は虚構で、現実と対になるものです。
けれど小説の中の、寿梨の理想のヒナを作り上げ、また演じることで、どちらが虚構で現実なのかわからなくなってしまうんですよね。

これは『あしたの私のつくり方』からもう少し経った、昨今のSNS時代にも当てはめることができると思うんです。

TwitterなりInstagramなりで発信する「私」に多少の打算が含まれていたり、なりたい(見せたい)自分像が投影されていることは往々にしてあります。そして現実生活との乖離を感じることもあります。

どっちが本当の私なのか。そのジレンマに悩んだことのある人はいるはずです。

この映画では日南子が「逃げたい私も、臆病な私も、演じている私も、嘘をついている私も、全部私」という結論に至りました。
見せたいのが演じている嘘の私で、隠したいのが本当の私、とかいう対立構造ではなくて、「嘘の私」もひっくるめて全部自分だよねということです。

もちろんSNS上だけではなくて現実世界においても、人は“演じている”部分があるはずです。意識的か無自覚かはともかく、あるはずです。

「本当の私」とのギャップを感じて悩んでしまう恐れのあるそんな時に、『あしたの私のつくり方』は“嘘”の部分も“本当の”自分の一面だよと受け入れる勇気を与えてくれる素晴らしい映画だと思うんですよね。

迫り来る困難も“敵”じゃない

余談ですが本作品では、誰かを敵役、批判するべき存在として描くことがありません。

寿梨の離婚した両親は、彼女に「親の言うことはちゃんと聞かなきゃね」という聞き分けの良い役回りを結果的に強要したわけですが、だからと言って両親が露悪的に映るかと言われたらそうではないですし、お母さん(石原真理子)が再婚相手として考えているおじさんもそうです。日南子をいじめのターゲットにしていた生徒たちもそうです。

自分の目に好意的に映っているかどうかは別として、彼ら、彼女たちが存在すること自体を寿梨は否定していませんし、憂いてもいません。

また先ほど書いたように、“演じている私”も全部自分だと認められるのが素敵ですよね。



iモード時代のケータイ描写

P902iSの画像

寿梨が使っていたP902iS

出典:NTT docomo P902iS サポート情報

P702iDの画像

日南子が使っていたP702iD

出典:NTT docomo P702iD サポート情報

『あしたの私のつくり方』では、2006年当時に主流だった携帯電話(ガラケー)を物語の軸に据えています。

「携帯」ではなくて「ケータイ」と表記することも多かった時代です。

主人公の寿梨(成海璃子)NTTドコモP902iSという機種を、日南子(前田敦子)P702iDという機種を使用。

「P」というのはPanasonic製の機種を指しています。本体のサイドにボタンがあり、ワンプッシュでパチンと二つ折りケータイが開く仕様でした。
このワンプッシュオープンが快適でして、愛用する人たちが「P」シリーズを使用する理由にもなっていたと思います。

記事タイトルにも出した「FOMA」というのは、2000年代に主流だったドコモの携帯電話サービス。
ローンチされたのが2001年、2004年リリースの「900i」シリーズから爆発的に普及しました。

それまでは「N503iS」(NEC製)に代表されるように「mova」というドコモのサービスが主流だったんですが、「FOMA」で可能になったことは段違いに増加しました。

今ではスマートフォンの普及でそれよりも遥かにたくさんのことがモバイル端末でできるようになりましたが、当時「ドコモ」、「FOMA」のブランド力は凄まじいものがありました。
なので当時を知っていると、「FOMA」、「902i / 702i」という名称に強烈なノスタルジーを覚える人も多いかと思います。私もそうです。笑

なぜドコモなのか

独断と私見に基づいているのでご容赦ください。

スマートフォンが当たり前となった現代において、携帯のキャリア大手3社(NTTドコモauソフトバンク)にさほど違いは見られませんが、映画『あしたの私のつくり方』が製作された2006年当時は、3社に色の違いがありました。

au(旧ツーカー含む)とソフトバンク(旧・J-PHONE、ボーダフォン)に比べると、ドコモはそのブランド性で優位に立っていました。のちに「写メ」という言葉が浸透するきっかけとなった「写メール」(カメラ付き携帯で写真を撮ってメールで送ること)はJ-PHONE(当時)のシャープ製携帯が最初に搭載しましたし、着信音をメロディーではなく歌の乗った楽曲そのものを流せる「着うた」はauが初めて搭載しました。

さらに料金面は(プランにもよりますが)ドコモは他の2社よりも高かったです。

それでもドコモを持つことで得られるステータスは確かにありました。

特にドコモのサービスである「iモード」は強かったです。
スマホ全盛の現代と違い、ケータイからはパソコンと同じようなアクセスができなかった時代です。壁紙(待受ともいう)や着メロを月額300円とかひとつ10円とかでサイトから購入していた時代です。(無料のもありましたが)

で、そういう携帯サイトに行くと、全てのキャリア会社に対応しているものもある一方で、ドコモのiモードにしか対応していないサイトも多々あったんですよね。ちなみにiモードに相当するのは、auが「EZウェブ」、ボーダフォン(当時)が「Vodafone Live!」でした。

そしてドコモしか勝たんというステータスを何よりも植え付けたのは、ドコモのメールで使える絵文字の存在でした。

ドコモの絵文字

2019年、LINEで“ドコモ絵文字”が発売されました。
ガラケー時代にドコモのケータイを使っていた人にとってはエモすぎる絵文字の数々です。

当時ドコモユーザーだった友人は「この絵文字を使えることが(多少高くても)ドコモを利用する理由」と話していましたが、わかる気がします。私も初めてドコモのケータイにした時は「ドコモにしたから絵文字使えるよ!」と、ドコモユーザーの友人に嬉々としてアドレス変えました(アド変)報告をしていた記憶があります。

「絵文字使えるよ!」がどういうことかというと、当時、というか結構最近まで(笑)、異なるキャリア間で絵文字を使ったメールを送ると、受信側では「」という記号に文字化けしたり、送信側の意図した絵文字とは違うものに変換されたりしていたんですね。

これはauとボーダフォン(J-PHONE、ソフトバンク)間でも同様でした。

なのでメールを送る相手がドコモなのかauなのかボーダフォンなのかは把握しておく必要がありました。今では信じられないと思いますが、電話帳に登録されている誰がどのキャリアを使っているのかを覚えていました。

例えば学校行事などでドコモユーザーの幹事がクラス全員に絵文字つきのメールを送りたい時に、ドコモ使用者たちに絵文字つきのメールを一斉送信し、他社の人たちには絵文字抜きで一斉送信する、みたいな送り分けもやっていました。絵文字を使えない相手には顔文字を使うことで感情や柔らかさを表現していました。(・∀・)( ´ ▽ ` )とかよく使ってましたね…。

映画に感じる圧倒的ノスタルジー

話を映画に戻しましょう。

『あしたの私のつくり方』で主人公たちが使っている携帯電話はドコモのものです。
なので先ほど引用した“ドコモ絵文字”を寿梨(成海璃子)たちは使用しています。

線で作られたシンプルな絵文字。

映画内で寿梨が友人とメールをやりとりするシーンがありました。電車に乗り遅れたから待っててくれると嬉しいという内容で、ドコモの絵文字を多用したメールなのですが、iPhoneに搭載された絵文字を使って再現してみましょう。

メールの画像

寿梨に届いたメールをiPhoneで打つとこんな感じ

………。
……これはですね、おじさん構文おばさん構文といわれるやつですね。
「乗り遅れ」の後の絵文字2連発とかきついっすね。ちなみにメール内の「ウレシイ」は実際は半角です。

正直ここまで絵文字を頻繁に挟み込む人は私の周りにほとんどいなかったんですけど、当時のケータイの使用説明書に載っているメール例文がこんな感じだったんですよね。笑

でもってポイントは、絵文字が乱立しているこのメールもドコモのシンプルな絵文字になったとたんに、ゴテゴテ感が解消されることです。(私見です。笑)
片目ウインクして舌を出している絵文字なんてもう煽り要素しか感じられないんですけど、線で表現されたドコモの絵文字になると「顔」ではなくて「表情」の表現になって、どぎつさが薄れます。

だから私たちはドコモの絵文字が大好きでした。あの絵文字が使いたくて、私は寿梨と同じP902iSにボーダフォンから乗り換えました。

『あしたの私のつくり方』で描かれるケータイ描写は、ガラケー世代にとってノスタルジーの嵐です。液晶画面もiモーションも揺れるストラップも、全部懐かしくて愛しい歴史でした。

昨今のオンライン会議を思わせるテレビ通話の効果も抜群でしたね。通話料高いからほとんど私は使ったことなかったですが…!

作中で山梨に引っ越した日南子(前田敦子)は「もうメアド変わってると思うけど」とアドレスが変わっている前提で表現されていましたが、意味もなく誕生日とか新年度とかの節目でメアドを変えていたあの頃!

特に「センター問い合わせ」の9文字に懐かしさを覚える人は多いんじゃないですかね。メールを待つ焦ったさが凝縮されたようなケータイ世代の最重要単語。

要は向こうが送ったメールがこちらに届く途中でサーバーに引っかかっていて、それを受信するために更新をかける、的な行動ですが、あれはボーダフォンでは当時機能がなかったんですよね(auは使ったことないので不明)。センター問い合わせの代わりに、自分宛に空のメールを送ったりしていました。だからドコモを初めて使ったとき、絵文字が使える喜びとともに、センター問い合わせができる喜びを味わったんですよね。ああ懐かしい。

 

“役割”がある実践的な学校生活の描写、それを“演じる”ことで直面するジレンマ。またiモード時代のケータイ文化。
いま30〜40代くらいの方には特に突き刺さる作品だと思います。

映画内でケータイの操作音をオンにした撮り方がツッコミどころとしてありましたが、正直そんなの気にならないほどにノスタルジックでした。

ガラケー世代の方、ぜひ観てください!!

『あしたの私のつくり方』のあらすじや評判、口コミはMIHOシネマさんの記事でも読むことができます。(ネタバレあり)
ぜひご覧ください!

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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