映画『悼む人』〜原作の良さが薄まった〜

2015年公開の映画『悼む人』を先日鑑賞。原作は天童荒太。

2012年に大森寿見男脚本、堤幸彦監督で舞台化。

映画化にあたっても同じタッグで製作された。

主人公の悼む人・静人を演じたのは高良健吾。

小説を読んだのは四年前ということで色々と忘れていて、蒔野(椎名桔平)、倖世(石田ゆり子)、母(大竹しのぶ)の3人の目を通して静人の人となりを、そして死生観を描いたのだなと鑑賞しながら思い出していった。

随伴者の説得力が足りない

原作は蒔野、倖世、母親と三つに分けて個々にフォーカス。

背景をじっくり描くことでなぜ彼らが静人に関わったのかがよくわかり、作品の持つ人間の在り方や生命の在り方というテーマにも繋がっていった。

ただし映画では3人を時間軸において混在させて登場させ、それは映画という性質上しょうがないとしても、彼らの背景描写が回りくどかった。

唯一母親の巡子はきちんと感情移入ができたが、これは大竹しのぶの演技に依るところが大きい。

変人扱いされる静人について一生懸命語る大竹しのぶ。
それは庇うとか護るとかじゃなくて、母親の愛以外何物でもないと思う。

静人の父=夫(平田満)への愛情もとても心地よかった。

一方で蒔野は女関係の描写が多すぎて、キャラクター像がつかめず。

父親との話も出すのが遅い。

倖世の描き方には疑問が残る(C)2015「悼む人」製作委員会/天童荒太

倖世はもっと悲惨。

石田ゆり子自体はキャラクターに合ったビジュアルかなとは思ったが、随伴する意味が全くわからない。

へばりつく死んだ夫(井浦新)の気持ち悪さも加担して、倖世が自分語りのターンに入ってもなかなか頭に入ってこなかった。

原作では随伴者の部分が一番好きだったので本当に残念。

もちろん物語の核だから映画も色々と工夫したんだろうけれど。

映画に向いてないだけ

この映画は決して駄作ではない。
原作同様に琴線に触れる良いシーンもあった。

静人が、いじめられて殺された少年を悼み、被害者の両親と会ったシーン。

母親(麻生祐未)が涙ぐみながら発した事実と静人への懇願、そして静人の対応。
それに対する麻生祐未のセリフ。

ここは泣かせる。というか考えさせられる。

静人が情報源とするのは週刊誌などだが、その週刊誌のルポは真実が捻じ曲げられており、また蒔野のようなゴキブリ記者がそういう記事をセンセーショナルと勘違いして書いている。

いいところがあったのも事実。特に静人の親は出色だった(C)2015「悼む人」製作委員会/天童荒太

もう一つのシーンは平田満演じる静人の父が、娘の元婚約者に対して搾り出した一言。

「妻も、娘も、十分に傷つきました。」

このお父さんは事情があって、本当にこのセリフは搾り出したという他ない。

原作でもかなり涙腺を刺激したのを覚えているが、このシーンへのお父さん、そして坂築家の繋げ方は上手かった。

高良健吾に関して言えば静人は語られる側であって主人公ではないので、あんなものでいいのではないかな。

悼みを捧げる行為自体が宗教じみていて嫌だという声はよく見るが、そこを否定するくらいなら観ない方がいい。

ちなみに僕が考えるこの作品の主人公は大竹しのぶのお母さん。

全体的には倖世が残念すぎたので評価は★★☆☆☆。

堤監督が極めて淡々と紡いだ印象があり、そのアプローチは良かったと思うけど、映像化するのに向いていない種類の作品かなと。

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