映画『シン・ゴジラ』〜スクリーンに敷き詰められる台詞の応酬〜

16年の映画『シン・ゴジラ』を鑑賞。

総監督・脚本は庵野秀明、監督・特技監督は樋口真嗣。長谷川博己、石原さとみ、竹野内豊ら。

昨年の大ヒットが記憶に新しいが、特撮が苦手な僕は勝手に敬遠していた。

量で圧倒

この作品の特異性として、登場人物が超早口で話すことが挙げられる。

政府の中のシーンが主なので専門用語や高尚な内容についていけず、要点をかいつまんで聞こうとする。

そして量に圧倒され、視聴している感覚もどんどんペースアップしていく。

正直、会話の内容とかはほとんど覚えてないんだけれど、政府がどのような対応を取りどのような結果になっていったかは不思議と頭に入っていった。

圧倒的な情報量を降らされているように見えて実はその量の半分くらいは大して必要のない情報なのかもしれないし、
でも、もしかしたら、伏線を回収する重要なキーワードが散りばめられていたのかもしれない。

▲矢継ぎ早に喋る長谷川博己。倍速再生かな? (C)2016 TOHO CO.,LTD.

日本語には行間を読むという言葉がある。

邦画でも会話の間とか、表情のズームとか、日常会話に即した繋ぎの言葉とかで視聴者に想像の幅を広げさせることが多々あるが(それは演技や演出の一つの醍醐味だと思う)、シン・ゴジラにおいてそういう面は一切ない。

強いて言えば國村隼が長谷川博己に「礼はいりません。仕事ですから」と言った部分くらい。

せわしなく矢継ぎ早にセリフが発されていき、その流れに身を委ねて前へ前へ進んでいくのは意外と心地よかった。

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型破りでもいいじゃないか

登場人物の肩書きを語る字幕がしつこいという感想を見た。
どうだろう。

僕のような一見かつ頭のよくない人間にとって、あの字幕は結構重要だった。
それよりも石原さとみとの英語の会話で白い背景に白地で字幕を流す方がありえなかった。

多分その人がシン・ゴジラの字幕を嫌がったのは、映画の既定路線と外れたことをするからだろう。

でも王道から外れたがゆえにシン・ゴジラはあの世界観を完遂できたのだと思う。
この作品では人が死ぬシーンがほとんど出てこない。にもかかわらず、犠牲者数は相当な数として挙げられている。

最後の作戦でも第一陣はあっけなく力尽きる。それでも落胆することなく、あくまでも駒のように第二陣を繰り出す長谷川博己たち。
凄い。戦闘に特化した描き方。潔い。

(C)2016 TOHO CO.,LTD.

異物が来襲し、混乱する日本を守る中で善悪の二元論にならなかったのも良かった。
意見の相違や立場を巡る建前と本音こそあれど、基本的にはみんな東京を、日本をどうやって守るかという一択。
変に人間ドラマや対立構造で時間を食わないぞという製作側の意図がよくわかった。

まあ震災後の日本と日本人に向けて描いたものというテーマはわかったが、僕は個人的にあまり震災ものを東京をテーマにして描くのは好きじゃない。
東京は被災地ではないから。ただ物資不足と放射線量に怯えて騒いでただけだから。

もし仮に、GODZILLAが東京を破壊し、首都が放射線にまみれたら、みんなはどのような顔をして避難するのだろうか。
非常に日本人向けの作品だとは思う。ただ、怖がりで騒ぎたがりの僕たちに、もう少し突き刺さるような風刺が欲しかったとも思う。

多くの人が没個性的な中で、柄本明と市川実日子が上手かった!
★★★★☆。

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