映画『かがみの孤城』ネタバレ感想|いじめの願望的「解決」案を切り捨てて

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こんにちは。織田です。

今回は2022年公開の映画『かがみの孤城』の感想をご紹介します。
原作は辻村深月さんの小説。監督は原恵一さんです。

学校に居場所のない中学生たちが鏡の中の世界で出会う物語。とても良かったです。

本記事は、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。



あらすじ紹介

中学生のこころは学校に居場所がなく、部屋に閉じこもる日々を送っていた。ある日突然、部屋の鏡が光を放ち、吸い込まれるように中へ入ると城のような建物があり、そこには見知らぬ6人の中学生がいた。さらに「オオカミさま」と呼ばれるオオカミの仮面をかぶった少女が現れ、城のどこかに隠された鍵を見つけたらどんな願いでもかなえると告げる。7人は戸惑いながらも協力して鍵を探すうちに、互いの抱える事情が明らかになり、徐々に心を通わせていく。

出典:シネマトゥデイ

スタッフ、キャスト

監督 原恵一
原作 辻村深月
脚本 丸尾みほ
こころ 當間あみ
こころの母 麻生久美子
リオン 北村匠海
アキ 吉柳咲良
スバル 板垣李光人
フウカ 横溝菜帆
マサムネ 高山みなみ
ウレシノ 梶裕貴
喜多嶋先生 宮﨑あおい
オオカミさま 芦田愛菜
この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



伏線回収と充足感

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

 

『かがみの孤城』。
公開からだいぶ時間が経ってからの鑑賞になったんですが、予備知識は予告編を観ただけでした。
予告の印象ではお城に行った中学生たちが「鍵探し」をキーワードに協力して進んでいく冒険譚を勝手に想像していました。

しかし、ご覧のとおり『かがみの孤城』の主題は鍵探しではありません。
主人公の中学生・安西こころは不登校で、鏡の向こうのお城に集められた他の6人もまた、それぞれの事情を抱えていました。

この映画がまず素晴らしいのは、描写と回収の丁寧さです。真摯さと言ってもいいです。

救いを描く一方で

なぜこころが鏡のお城に導かれたのか。なぜアキが、フウカが、スバルが、マサムネが、ウレシノが、リオンがいたのか。そもそもみんなは何者なのか。

みんなはどんな背景を持っているのか。時代設定はいつなのか。どこに共通点があるのか。

こころの一人称視点で物語が進んでいく中、アキやマサムネたちの境遇も気になって仕方がありません。
私たちはさまざまな疑問詞を小脇に携えながら観ていきます。

その疑問は、後半部分で丁寧に種明かしされていきました。予想がつくものもあれば、予想外のものもありました。
過去も現在も未来も、鏡を行き来するこころたちと、オオカミさまの8人がそこに存在することを、この映画は示してくれました。

終盤に怒涛のごとく訪れる伏線回収ターンに加え、エンドロール後も「お城の外」での一幕が映されます。そしてそれは恐らく、観ている私たちが満たされる光景です。

想像の余白をたっぷりと残す作品も多いなかで、『かがみの孤城』は登場人物たちの歩んできた、歩む、歩んでいく道を見せることで充足感をもたらしてくれる映画だったと思います。

ただ、そんな丁寧な回収は、特に最終盤の描写はこころたちが置かれた状況への“救い”でもあったと思うんですよね。そこには「こうあってほしい」という鑑賞者側の望みもある程度含まれ、実現していたはずです。だから満たされたはずです。

逆に言うと“救い”が提示される必要があるほどに、こころたちは厳しい状況にあったとも考えられます。
言葉を変えれば、こころたちの置かれた状況が綺麗事で改善されたわけではないということです。

ここからは『かがみの孤城』で特に印象的だった加害者側(いじめる側)へのアプローチについて感想を書いていきます。



“解決”の安易な提示

こころをはじめとして、お城に集められた7人はいずれも中学生でした。
そして全員が何らかの事情で学校に行けなくなっている状況でした。

これは——問題という単語を使うのが適切かはわかりませんが——問題提起です。少なくとも主人公たちは追いつめられていて、好ましい状況ではありません。

この映画で一番印象に残ったのは、そういう苦況を、こころで言えばいじめに遭っている状況に対して、「解決」するという手段を取らなかったことです。

改心や和解は、ない

中学1年生の安西こころは、級友・真田によるいじめに遭っていました。

この真田が周囲扇動型のいじめっ子で、かなり堂々とこころのことを虐げていました。好きな男子とこころの(小学生時代の?)関係が真田の横暴ぶりに燃料を与えていくわけですが、叩く理由になるなら何でも使うし、いくらでも嘘をつきます。

こころのことが憎くて憎くてたまらないわけですね

で、こころがお母さんにようやく自分が戦っていることを話せて、担任との三者面談になりました。

ここで担任の伊田先生は、こころに和解を勧めていきます。真田も反省している、と伝聞の前置きをつけて。

とても一方的で浅はかな対応です。真田が改心して、こころに以前のようないじめをしないという無責任な想像に基づいた提案です。

先生の立場からしたら、それが一番理想的なんだと思います。
真田が反省して、改心して、こころも安心して学校に通えるようになる。自分の教え子である真田だって、本当に悪い人間ではきっとないはずだ。

例えば『アイの歌声を聴かせて』(2021)では、主人公・サトミを嫌って虐げていたアヤという生徒が次第にサトミと打ち解けていく様が描かれていますが、伊田先生が期待していたのはそういう相互の歩み寄りによる状況の好転です。もっと言えば性善説に基づいた他人事目線の願望です。

雨降って地固まると言うように、マイナスからプラスに転じるこういった友情は第三者にとって確かに美しく映るかもしれません。実際に改善した例もあるでしょう。

けれど、伊田先生の提示した願望的解決案を、この映画はばっさりと切り捨てました。

ダメなものはダメであり、それと手を取り合う必要はないと突き放します。

消えてほしい

「鍵を見つけたら願いが叶う」というオオカミさまのお告げに対して、7人の中学生たちはそれぞれ思うところがあったはずです。
安西こころの場合は、真田美織がいなくなってほしいというものでした。

こころにとっては、真田が改心して仲良くなるなんていう選択肢は持ち得ないんです。目の前からいなくなってほしい。

解決策というか、自分がこの状況から脱出するためには、真田がいなくなることしかないんだと思います。


私にも、中学1年の時に心から消えてほしいと思う対象がいました。サッカー部の1年先輩です。

3年生が引退した夏以降、一部の2年生部員は横暴になりました。それを諌めようとした2年生の先輩は徹底的な排除に遭って9月に退部し、人数の少なかった1年生部員がターゲットになりました。

部活の練習中はどんなプレーをしても罵られ、蹴られ、息を吐くように死ねと言われました。
部活以外の時間でも、校内の周りに人がいる環境での迷惑行為(壁の落書きとか大声を上げるとか)を強要されました。
部活を休めば次に校内で会った時にもっと酷いことをされます。時には自宅までやって来てピンポンを連打したり、駐車場に長々と溜まられたりすることもありました。

部活から帰ると真っ先に向かう浴室。そこで毎日鏡にその人たちの名前を書いて、死んで欲しいだの消えろだのと祈っていました。

実際は翌年に新入生が入部してからだいぶましになったんですが、当時はいじめられなくなるなんて未来は見えませんでした。
あの人たちがどうしたらいなくなるのか、自分がどうすればいなくなれるのか、どうしたらこの毎日が終わるのかそればかり考えていました。


だから、こころが真田との関係性に抱いていたものは腑に落ちましたし、伊田先生が提唱する案には、そんな単純な構造じゃないよねと思ってしまいます。

加害者を断絶した『かがみの孤城』には信頼を覚えました。また一方でその断絶に諦念みたいなものも覚えました。

いじめの普遍性

『かがみの孤城』から感じたのはいじめにおける普遍性です。いじめに普遍性なんてものがあることが悲しいですが。

終盤で明らかになったように、この映画では様々な時代の中学生が描かれていました。スバルと嬉野には40年以上の隔たりがあります。

微妙に噛み合わない会話や、誰もいなかった登校日などの謎を映画に落とし込む役割としても機能していました。
一方で「学校に行けない」という苦しみは時代を問わずに存在していることを指し示す側面もあります。

いまの時代には現代なりの抑圧やいじめがあるし、7年前も20年前も7年後も20年後も、虐げる側の人間は確実に存在します。

私は2000年前後に放送されていたドラマ「キッズ・ウォー」フリースクールの存在を知ったし、いじめの種類がこんなにもあるのかと驚いたんですが、どれだけ年月が移り変わろうとも、クソみたいな加害者はいつの時代にもいるんですね。

なので『かがみの孤城』は、現在進行形で学校に行きづらい状況と戦っている子たちだけじゃなくて、もっと上の世代が観ても納得はできると思うんですよ。刺さるかどうかは別としても、そういう人たちは時と場所問わず一定数いるよねっていう部分は納得できると思います。

順番の話

こころの友人として登場した東城萌の話は特に普遍性の高いエピソードだったと思います。

萌ちゃんはこころに、今は自分が真田たちの標的になっていること、真田のような加害者側はいつも排斥する対象を探していて、ターゲットにされるのは一時的な順番によるものだということを話しました。

これは本当にそうで、前述した自分の中学時代も退部した先輩から私たちに標的が移動してきました。クラスの単位でも同様で、そこまで悪質ではないにせよ「仲間はずれにしていい」となった対象を執拗に無視したりする期間がありました。そしてその対象はどうでもいいきっかけで不意に回ってきます。

裏を返せば真田みたいないじめる側にいた人間が、いじめられる側になる「順番」もあるということです。たぶん真田は真田なりに自分がいじめの対象にならないように世渡りをしていたはずです。

さらに言えば真田の取り巻き予備軍みたいなのはたくさんいて、自分が標的になりたくないために真田に抵抗や反対をしなかったり、軽い同調をしたりして加害者側に立ってしまっていることもあるはずです。意識的か無意識的かは別として。

けれどそこはほとんど映画では描かれずに、安西こころの視点で、彼女が苦しみ戦っている今にフォーカスしているわけです。そして彼女が見つけるのは解決ではなくて、手を差し伸べてくれる仲間であり、孤立からの脱出です。

その仲間を仲間と認識するに足りる人物の描き込みがあり、こころたちが“登校”できる安心な場としてお城がある。
素晴らしい作品でした。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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