こんにちは。織田です。
今回は2020年公開の映画『Red』をご紹介します。R15+作品です。
主演は夏帆さんと妻夫木聡さん。
監督に三島有紀子さん。原作は島本理生さんの小説です。
家庭を持つ主人公・塔子(夏帆)が、かつての恋人と再会。「母親」や「妻」という枠組み、またそれ以前に一人の人間であることに逡巡しながら、物語は壮絶な展開をたどっていきました。
映画を観た後に原作を読んでみたところ、結末も含めてかなり映画と原作は異なっています。
自分は映画を先に観たこともあり、映画版の方が好みでしたが、原作を先に読んだ方からすると映画には違和感がかなりあったかもしれませんね。
この『Red』は主人公が母親という都合上、「不倫関係」が物語の軸にあります。
賛否両論というか、倫理観的に駄目だと思う人は決定的に合わないかもしれません。
- 原作小説との違い
- 三者三様の男たち
- 塔子の選択への感想
今回は上記の3点から、感想を書いていきます。
あらすじ紹介
夫の村主真(間宮祥太朗)は一流商社勤務で、かわいい娘にも恵まれ何不自由ない生活を送る塔子(夏帆)は、かつて恋人だった建築家・鞍田秋彦(妻夫木聡)と10年ぶりに再会する。鞍田は、行き場のない思いを抱えていた塔子の心を徐々に解きほぐしていく。
スタッフ、キャスト
監督 | 三島有紀子 |
原作 | 島本理生 |
脚本 | 池田千尋、三島有紀子 |
村主塔子 | 夏帆 |
村主真 (夫) |
間宮祥太朗 |
村主翠 (娘) |
小吹奈合緒 |
村主麻子 (義母) |
山本郁子 |
緒方陽子 (実母) |
余貴美子 |
鞍田秋彦 | 妻夫木聡 |
小鷹淳 | 柄本佑 |
塔子(夏帆)は夫、娘、義母と一緒に暮らしています。義父は出張続きのため、そんなに家にはいません。
東京・国立市の高級住宅街で暮らしています。
苗字の読み方は「むらぬし」。「すぐり」さんじゃないんですね。
また塔子たちが働く建築デザイン会社の描写、俳優さんの演技が実にうまいです。
ヒロウエノさんだと思いますが、英語を端々に混ぜる社員さんとか既視感しかなかったです。That’s good!
原作からの変更点
以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。映画未見の方はご注意ください。
まずは原作小説との違いから触れていきます。
塔子と鞍田のたどる結末
原作と映画では塔子(夏帆)と鞍田(妻夫木聡)のたどる結末が違います。
塔子が出張先のクライアントのところから雪の中を鞍田の車で逃避行のような形で東京まで帰ってくるわけですが、映画では新潟、原作では金沢と、また2人が働く職場もITインフラ系会社の原作に対して、映画は建築デザイン会社と異なっています。
映画
- 塔子は鞍田を選び、家には帰らなかった
- 鞍田は持病が発症し、亡くなってしまう
原作
- 塔子は鞍田の車で東京に戻り、家へ帰る
- その後、別居生活を経て、夫、娘と3人で暮らすことになった
- 鞍田は治療が成功し、死んでいない
原作では鞍田と区切りをつけて家に帰った塔子が夫・真に失望し、それでもなお、娘の翠と夫の三人で最終的にはともに暮らすようになったことが明かされています。
翠の立場を思えば、救いのある結末であり、見方によっては「母親」としての人生を選んだともいえるでしょう。
一方で映画の塔子(夏帆)は、「真の妻」、「村主家の嫁」という足枷を振りほどき、それに伴って「母親」としての自分と決別します。
なので原作を先に読んでいた人からすると、映画版は「あの大雪の日、帰らなかった塔子の人生」を描いたアナザーストーリーのように映るかもしれません。
原作からの省略、追加
続いて、原作にあって映画では省略された設定、逆に映画で追加された設定についてです。
映画の塔子は家庭、(鞍田に紹介された)職場の2つを行き交う日々が、彼女の世界として描かれています。
一方で原作小説の塔子の世界はもう少し広く、鞍田と再会するきっかけとなった新婚の「ゆきりん」、独身の「矢沢」という2人の女友達が出てきました。
隠し事せずに物事を打ち明けられる矢沢の存在は大きく、塔子が今置かれた「妻・母・女性」としての立場に矢沢が客観的な意見を述べることで、塔子が自分はこれでいいんだっけ?と問い直す契機になっていたと思います。
映画版では友達が出てこないため、職場と家庭の限定的な環境に塔子は立っています。
ただ、「大雪の日」に鞍田と訪れた食事処を営む家族(酒向芳 / 片岡礼子)は映画オリジナルのキャラクターで、特にふみよ(片岡礼子)は塔子に「女って大変だよね」と言うなど、塔子の立場に共感できる貴重な存在として描かれていました。
塔子の抑圧と不満
『Red』は、主人公の塔子が家庭で受ける静かな抑圧に不満をくすぶらせ、鞍田という元愛人との再会によって自らを解き放っていく物語です。
ただ、矢沢の存在を省いたことや、原作小説にあった塔子の内面描写が映画ではセリフとしては出てこないため、映画版では塔子の「不満」よりも外的な「抑圧」の方が強く印象付けられました。
どちらがいいか悪いかではなく、塔子の感情面が真っ先に出てくる原作小説と、抑圧を受ける彼女を「映す」ことで少し客観性を持たせる映画との違いになると思います。
原作小説の塔子は心情描写があることで、自意識がもう少し強く描かれています。
出産を経て体型が少し変わったことや、実母から「女の子っぽくない」という評価を受けていたことを気にしたり、さらに真や鞍田の周囲にいる同僚女性に対しても敏感に反応しています。
仕事に対しても、出産を機に辞めた前職、社会人キャリアへのプライドや未練が垣間見えました。
映画版では周辺人物が省略されていることもあり、そういった彼女のトゲの部分はあまり感じられません。
再三挿入される「大雪の夜」
映画版で印象的なのが、繰り返し挿入される「大雪の日の夜」です。
塔子(夏帆)と鞍田(妻夫木聡)にとっては「10年前」という文脈もあるので、映画初見時にはこの「大雪の夜」の時系列を把握するのに自分は若干手間取りました。
「大雪の夜」で塔子が指輪をしていなかったのも、「10年前」のこと?と個人的にはミスリードする一因になりました。
映画『Red』では「大雪の夜」と、それまでの夏から冬にかけての塔子の日々が交互に近い形で進んでいきます。
流れを簡単にまとめるとこのような形です。
- 大雪の夜。塔子が公衆電話から電話をかける
- 娘の迎え、キッチンのシーンなど村主家での塔子
- 大雪の夜。ガソリンスタンドやトンネルのシーン
- 夫の顧客との懇親会。塔子が鞍田と10年ぶりに再会
- 塔子、鞍田の紹介で仕事をもらう。夫に相談し了承をもらう
- 大雪の夜。車のドリンクホルダーにはコーラ
- 初出勤。小鷹登場。飲み会終わりに小鷹と抜ける
- 鞍田のプロジェクトに塔子が参加。鞍田の部屋へ
- 大雪の夜。食事処で蕎麦を食べる
- 翠が幼稚園で怪我。塔子の責任を問いただす真
- 大雪の夜。鞍田が吐血。お食事処で介抱する塔子
- クリスマス。塔子に仕事辞めたら?と言う真
- その後、塔子は家を抜け出して鞍田と密会
- 塔子の実母も交え、家族での新年会
- 鞍田が病欠の中、塔子は小鷹と新潟出張へ
- 大雪で交通機関が麻痺。帰れなくなる塔子たち
- 鞍田登場。彼の車で塔子は大雪の夜を帰る
- 大雪の夜。塔子が公衆電話から電話をかける
- 鞍田の葬儀。翠に帰らないと告げる塔子
- 雪道を抜け、鞍田の車を運転する塔子
黄色い下線を付けたものが「大雪の夜」の出来事ですが、鞍田の車に乗ったあの夜は無作為に挿入されているわけではありません。
例えば⑤と⑥のシーンは、⑤真との食事後に塔子がコーラを飲み、鞍田からの着信を受けるところから、⑥鞍田の車のホルダーにあるコーラへと移行しています。
(余談ですが、原作でコーラを飲んでいるのは塔子ではなく真です)
⑧から⑨も、鞍田の部屋で事後に塔子は(多分鞍田の)黒いタートルネックを着ますが、その後の大雪の夜・お食事処でも塔子は黒いタートルネックを着ています。(それまでは屋外だったのでグレーのコートを上に着ていました)
翠の怪我のことで塔子が真に詰められる → お食事処のふみよ(片岡礼子)に「女って大変だよね」と諭される⑩から⑪もそうですね。家庭で孤立する塔子に、別の文脈ではあるけども「大変だよね」と慮ってくれる存在が現れたわけです。
時系列的には隣接していない「これまでの日々」と「大雪の日の夜」をスムーズに繋げていく様子はとても素敵でした。
三者三様の男たち
塔子(夏帆)に関わる3人の男性、鞍田(妻夫木聡)、小鷹(柄本佑)、真(間宮祥太朗)はどう映ったでしょうか?
一人ずつ見ていきましょう。
鞍田:君だけに見せる僕の顔
鞍田(妻夫木聡)で印象的だったのは、衆人環視と2人きりの状況で見せる顔が違うところでした。
塔子に仕事を紹介した鞍田でしたが、オフィスで塔子が彼の方を見つめているにも関わらず、目を合わせることがありません。鞍田も鞍田で塔子に目をやっているんですが、合わないんですよね。
見ているこちらとしてはそっけない印象すら受けます。
クールな鞍田は、塔子の新潟酒造プロジェクト参加が決まるやいなや、車の中で彼女の唇を奪い、豹変します。
思い返せば、彼が積極的になるのは車の中だったり、彼の部屋だったり、ホテルの部屋だったりと密室空間においてでした。
鞍田は基本的に塔子のことを「君」と呼びます。
3分間にもわたるキスをした後、塔子と一緒になるベッドシーン(1回目)でも、「聞かせてよ、君の声」と口にします。
鞍田が塔子の名前を呼ぶのは、「大雪の夜」のホテルシーンまでありませんでした。
“2人きり”で見せるギャップは確かに魅力的でしたが、意地悪な見方をすれば家庭持ちの塔子を陰でこそこそと誘惑する危険な男にも見えます。
小鷹:「塔子ちゃん」と「お前」
柄本佑さんが演じた小鷹はどうだったでしょうか。
自他ともに認めるチャラ男でありながら、小鷹にはモテ男であるだけの理由が匂います。男としての余裕、色気、塔子への鋭い観察眼、気遣いが見えました。
距離の縮め方も絶妙です。
小鷹は会って2回目で早速「塔子ちゃん」と呼んできました。塔子を連れて飲み会を抜け出すと、今度はバッティングセンターで「おまえ」と呼びます。「君」呼びを貫く鞍田とは対照的です。
呼び方が、塔子ちゃん、から、おまえ、に変わったのと触られたのを拒否できなかったことで、関係性の優位に立たれたと気付いた。
原作では小鷹の呼び方に対して塔子が言及していましたが、映画の塔子もやり手の彼に負けじと、がっつり応戦していましたよね。
大雪で帰れなくなった場面にも小鷹の器の大きさが見えます。
休憩室に入り、お茶を淹れようとする塔子を「いい、いい」と制し、自分で準備する小鷹。
夫・真との精神的な乖離にパニクり、「男の人は1000年経っても男でしょ」と吐き捨てた塔子に対しては、「いやお前さ、なんで結婚したの?」と痛烈に返します。きつい言葉ですけど正論ですよね。
けれどその後すぐに、「わかった、悪かった」を言えるんです。彼は。
そんな小鷹に「何だよそれ、100年前じゃないんだから」と呆れられるほどの夫婦観念を持っていたのが、塔子の夫・真でした。
真:これはモラハラなのか
塔子の夫であり、間宮祥太朗さんが演じたこの「真くん」に対し、皆さんはどんな感情を抱いたでしょうか?
お金持ちの親を持ち、親の持ち家で両親、妻、娘と暮らす真。有能な商社マンで、浮気もしない。傍目には家族思いで優しい夫に見えます。
娘の翠とも仲が良く、クリスマスには「ジングルベル」を英語で一緒に歌います。教育にも抜かりなしです。
妻・塔子に対しても心から愛しています。その想いに偽りはありません。
ただし、真の施す「塔子への愛情」というのは、あくまで彼本位のものでした。
テンプレ的な毒夫ではないんですが、塔子を、家族を愛している自分が可愛くて、そんな自分を正当化したいんです。
肯定、共感の欠如
塔子と真のやり取りをいくつか見ていきましょう。
ここで注目したいのが、真は塔子の提案や発言に、ことごとく否定から入る点です。
塔子のセリフ、真のセリフを色分けして引用します。
「真くん、ごはんは?ハンバーグだよ」
「お腹いっぱいかな」
「真、煮付けあるわよ」(姑)
「ちょっと食べようかな」「真くん、翠も来年小学校だし、また働こうかなって」
「え、何で」「ってか、働く必要ないよね?」「とにかく塔子は早く帰ってきてよ。母親でしょ」
「母親って。あなただって父親でしょ」
「俺ちゃんと仕事してるよね?何か不自由させてる?」
「…わかった。誰かシッターさんに頼む。それでいい?」
「ダメだよ。塔子の一番大切な仕事って母親だろ?」
翠が怪我をした時も、決して塔子の味方に立とうとはしませんでした。
『Red』の塔子は見方によって、どうして我慢できずに「母親」を捨てたのかとも捉えられるかもしれませんが、これだけ否定から入られるとそりゃ不満も溜まりますよね。
新潟の出張に向かう塔子に「電話して。心配だから」と彼は言いました。その心配を愛情と受け取れず束縛(抑圧)に捉えてしまうほどには、塔子の心は離れてしまっていたのではないでしょうか。
無自覚な抑圧、自分本位の鈍感
「塔子の一番大切な仕事って母親だろ?」のセリフに代表されるように、真の中で塔子とは愛する妻であり、愛する娘の母親であり、母親とは、娘の育児をして家を守るべきだ、というような家庭観が確立されています。
美味しいパスタを作ってくれた「家庭的な女」というフレーズが湘南乃風の曲でありましたが、真の中でも「家庭的な愛妻」という概念があり、塔子を「家庭的」に導こうとします。家族がうまくいくように。
そこには彼女のことが気に入らないから、といった意地悪とか嫌みはありません。それが塔子の、家族のためだと純度100パーで信じ、塔子を「家庭的な母・妻」の枠にはめ込んでいきます。
無自覚に抑圧していきます。
取引先との懇親会に同伴させる妻の服装を「これがいい」と決め、仕事を頑張る妻を「塔子らしくない」と言い、2人目の子どもが欲しいと匂わせる真。
どれもこれも、疑いなしに正しいと思ってやっていることです。多分彼からしたら、塔子のためを思ってやっていることです。
けれどそこに塔子の意向は反映されません。
「心配してるんだよ。そんな大雪の中、どうしてんだろうって。あったかいところに居られてるのかって」
「俺、塔子がもう帰ってこなかったらどうしようって、そればっかり考えちゃってるんだよ」「塔子、何かあるなら言ってほしかったよ」
大雪の夜、公衆電話からかけてきた塔子への、彼のセリフです。
塔子のことを思いやっているようで、実は全部主語は「俺」です。心配している自分が夫として正しいと、安心したいんですよね。
家族が上手くいくことを考えたら何も言えないよ、と返した塔子に対して、真は「…俺のせい?」と問いました。
この後塔子は「ごめん。違う。全部自分だ…。私が我慢すれば全部うまくいくと思って…」と返すわけですけど、真の“うまくいくための”言葉は別の意味で「全部自分」ですよね。
他の男との対比
三者三様と書いたように、『Red』に出てくる男性たちはそれぞれが異なるキャラクターを持っています。
女性の塔子へ施す性愛の面でも、真と鞍田と小鷹では濃度や考え方が違います。
映画で特徴的だったのが、真と鞍田、また真と他の父親を対比させた2つのシーンでした。
食事シーンにおける真と鞍田
結婚記念日に塔子を連れ、すき焼きを食べる真。ここで彼は、豆腐と春菊を食べて、と塔子に言いました。
自分の好きじゃないものを相手に食べてもらっています。
一方、新潟のお食事処で「のっぺそば」を食べた鞍田は、自分の丼から里芋を塔子の方へ移します。
彼の場合は、里芋は好物なんですよね。
でも塔子も里芋が好きだと知っているから、自分の好きなものをあえて相手に与えています。10年前も今も。
この場面ひとつとっても、「塔子に与える」ことが自分本位か相手本位かで対照的ですよね。
幼稚園の「たかしくんパパ」
もう一つが、映画序盤で塔子が翠を幼稚園へ迎えに行くシーンです。
翠を連れて帰る塔子と入れ代わりに、「たかしくん」の父親(バーガー長谷川)が息子を迎えにやってきました。
この時カメラは幼稚園の門へ向かう塔子と翠の背中を映していますが、「たかしくんパパ」は幼稚園の先生と言葉を交わしています。
「すみません。嫁が残業続きで」(パパ)
「ママ頑張ってるもん」(たかしくん)
「おぉ」(パパ)
幼稚園への迎えをして、なおかつ頑張って働く妻を応援する。
たかしくんパパは、真ができなかったことを笑顔でこなしていました。
父親の意味とは。
さりげない数秒間の場面でしたが、とても意味があったと思います。
塔子の選択への感想
最後に主人公の塔子(夏帆)についての感想です。
3人の男性に見せる顔
映画版では原作と違い一人称のモノローグがありません。
そのため映画の塔子が感じる抑圧や不満のトゲは、夏帆さんの表情によって表現されていました。
自らに関わる真、鞍田、小鷹という3人に対し、塔子は異なる温度感で接していました。
個人的な印象で言えば、真には諦めと絶望を、鞍田には緊張と悦びを、小鷹には(警戒の後に)解放感と安心を表現していたように見えます。
鞍田と小鷹の違いでいうと、鞍田と一緒にいるときの塔子は幸せそうだし、小鷹といるときは楽しそうなんですよね。
飲み会の後に小鷹とはしゃぎながら街を駆け回ったときの塔子の表情は忘れられません。劇伴音楽も弾むようなポップなものでした。
一方で鞍田に対しては、緊張感を持って接しています。これは鞍田が「一人で生きている感じ」がして、自分を置く場所がないように塔子が感じているからではないかなと思いました。
真に対しての塔子は終始顔が引きつっていましたよね。心の底から楽しそうな表情は一つもありません。
そこにあるのは絶望だけです。
あの表情を見せられると、結婚相手に対してこんなにも感情は冷え切ってしまうのかと怖くなりますね…。
肯定も否定もできない
原作、映画ともに、結婚という契約を真と結んでいる以上、塔子の行なっている行為は不倫行為です。
加えて映画版では、娘と夫のもとを去り、母親を捨てるという選択が盛り込まれました。
確かにハッピーエンドではないです。帰ってこない塔子に、「マーマ!マーマ!」と泣く翠(小吹奈合緒)の姿を見ていると、かわいそうと思ってしまいます。
けれど塔子の選択を咎められるかと言われれば、違う気がするんですよ。
結婚して他人同士が“家族”になり、“家族”という枠組みが上手くいくように生きていく。それは素晴らしいことだと思います。
上手く回していくためには、幾らかの妥協だったり我慢だったりも求められます。
『Red』の塔子は溜め込んでいた我慢、不満がキャパを超えてしまったわけですけど、ある人の立場からしてみればそれくらいは我慢しようよと思うかもしれません。これは妻側に限らず、夫だったり義親にしても同様です。
ただ、それがみんなにできることかと言われれば違うし、当たり前ではないと思うんですよ。
結婚制度に向いている人
原作で塔子は真のことを「結婚という制度にとても向いている人」と評します。
真は娘にたっぷりの愛情を注いでいるし、家族が困らずに食べていけるよう、この家で暮らしていけるように“父親”として振る舞っています。(それが自分本位なのか他人本位なのかは別として)
彼の行動理念には家族を裏切るという選択肢がありません。浮気行為はもちろん、風俗に行く選択肢も頭には全くありません。
一方、原作に登場する塔子の友人・ゆきりんは、このように口にします。
「でしょー。それ考えると変じゃない?世間では未だに不倫なんてするのは少数で、表面的には結婚したら一生一人と添い遂げるって大前提になってるの」
もう一人の友人・矢沢とともに、不倫している人は周りにわりといるよ、っていう文脈の会話だったんですが、ここで言う“世間”の結婚観に向いているか、そうじゃないかっていうことに尽きると思うんですよね。
夫から「妻は、母は、こうあるべき」という(あるいは妻側から逆の形で)「らしさ」を求められても押し付けに感じず、それに応えて家庭がうまくいくことが最上の幸せだと思う人もいます。
翻って、一人の独立した社会人として生きていくと決めた塔子のような選択は、それはそれでその人の選んだ人生だと思うんです。
一人の人間として、規範の囲いの外へ出ていく覚悟。そこに性別や世代は関係ありません。
結婚・家族という制度への向き合い方、一人の独立した人間としての「自分」を取り戻すこと。
背徳的なテーマ以上に、とても考えさせられる映画でした。そして返す返すも、登場人物の人間味を表現した出演者の皆さんの演技力が素晴らしかったと思います。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
原作小説はこちら▼
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