映画『少女は卒業しない』ネタバレ感想|原作からの再構成が凄い

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こんにちは。織田(@eigakatsudou)です。

今回は2023年公開の映画『少女は卒業しない』を紹介します。

原作小説は『桐島、部活やめるってよ』の朝井リョウさん中川駿さんが監督・脚本を務め、主演には河合優実さんを起用しています。実質、河合さんをはじめとした4人の「少女」が主人公といった形ですね。

原作既読の立場でとても楽しみにしていた作品だったんですが、映画版の“再構成”に驚きました。中川監督凄すぎます!

本記事では原作小説を踏まえながら、映画『少女は卒業しない』で施されたアレンジの部分について感想を書いていきます。
映画、原作小説両方のネタバレが含まれますのでご注意ください。

朝井リョウさんの原作小説も素晴らしく、色々な驚きがあると思います。映画ご覧になった方はぜひ読んでいただきたいです!



あらすじ紹介

廃校が決定したある地方都市の高校では、最後の卒業式があと2日後に迫っていた。卒業生代表で答辞を読むことになった、料理部部長の山城まなみ(河合優実)は、ある思いをどうしても彼氏に伝えられずにいた。一方、バスケ部の部長である後藤由貴(小野莉奈)は、進路の違いから彼氏と離れることを選択する。

出典:シネマトゥデイ

スタッフ、キャスト

監督・脚本 中川駿
原作 朝井リョウ
山城まなみ 河合優実
佐藤駿 窪塚愛流
後藤由貴 小野莉奈
寺田 宇佐卓真
倉橋 坂口千晴
神田杏子 小宮山莉渚
森崎 佐藤緋美
神田の後輩 田畑志真
作田詩織 中井友望
坂口先生 藤原季節
この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



映画のネタバレ感想

以下、感想部分で映画、原作小説のネタバレや展開に触れていきます。未見、未読の方はご注意ください。


『少女は卒業しない』は、4人の「少女」が軸になっています。

元・料理部部長のまなみ(河合優実)、元・バスケ部部長の後藤(小野莉奈)、元・軽音部部長の神田(小宮山莉渚)、図書室が居場所となっている作田(中井友望)ですね。

4人にはそれぞれ密接に関わり合う人たちがいて、まなみには駿(窪塚愛流)が、後藤には寺田(宇佐卓真)倉橋(坂口千晴)が、神田には森崎(佐藤緋美)後輩(田畑志真)が、作田には坂口先生(藤原季節)が関わるシーンが多く、4人の「少女」の交友半径をうかがい知ることができました。

ただ、この4つのグループにスポットライトを当てた映画は、朝井リョウさんの原作小説といささか趣が異なります。

章立てからの再構成

原作小説では、卒業式前夜から卒業式当日の深夜まで、時系列順に章立てられて物語が進みます。

ストーリーの先陣を切る作田のエピソードは、前夜から卒業式当日の朝まで。
後藤のエピソードは卒業式直後。
神田たち軽音部の章は、その後の卒業ライブ。
そして卒業式が終わった夜に、まなみが登場します。

この4つの他にも、卒業式が始まるまでの時間を過ごす生徒たちや、式で在校生代表として送辞を読む生徒、卒業ライブの体育館とは別の場所で過ごす生徒たちの姿が描かれ、トータル7つの章で構成されていました。

しかし映画では個々のエピソードを別々に描くのではなくて、卒業1日前〜当日の同じ時間の中で「少女」たちの物語を交互に映していきました。

原作におけるまなみの設定は少し無理があると感じたので映画の方が自然でした。

原作では、「この時間帯は作田の話」「この時間帯は後藤の話」と区分されている特性上、一部の例外(後述)を除き、当該章以外の卒業式前日・当日を「少女」たちがどう過ごしているのかは描かれません。
原作小説で描かれた以外の部分を少女たちがどのように過ごしているのか、それを推しはかることができるのが、連続性を持った映画版の魅力であると思います。

廃校への向き合い方

一方で、『少女は卒業しない』の舞台となった高校で特徴的なのは、合併が決まって校舎が取り壊されること、まなみたちの代の卒業生がこの校舎での最後の卒業生になることですよね。

原作小説では卒業式の次の日に取り壊しが始まること、またその日に合わせた(少しでも長くこの学舎で過ごそうということでしょう)ことで、卒業式の日取りが他校より遅くなったことが描かれています。

取り壊される校舎も東西南北の棟が印象的に描かれ、生徒たちの行動・言葉によってそれぞれの棟が意味付けされています。

けれど映画において、取り壊される学校に対する惜別の感情とか、物語に結びつきを与えていた棟の存在はありません。

まなみが読む答辞の草案について先生が“校舎がなくなってしまう部分をもう少し欲しい”みたいなことを言ってましたが、あれはこの映画に流れる温度感にもある意味で向けられたものではないかなと思います。笑

登場人物の再構成

7つの章で構成された原作小説から映画版が抽出したのは、作田(中井友望)後藤(小野莉奈)神田(小宮山莉渚)まなみ(河合優実)の4人でした。

なので、小説では映画で描かれなかった3人の「少女」を中心とした小さな物語が3章ぶん入っています。

7つが4つになるのは少し予想していたんですが、驚いたのは原作でほぼ全ての章に関与していたキーマンの存在を映画ではバッサリと省いたことです。

田所くんという生徒会長の男子生徒です。卒業生代表の答辞も小説版では彼が担当します。

さらに、7つの章のうちの1つを担い、後藤や倉橋のバスケ部での後輩という立ち位置から田所くん同様作品全体に絡んでくる岡田亜弓という2年生も、映画ではほぼ触れられません。
いることはいるんですが、存在感があるとは言い難い状態です。

田所と亜弓は7つの個別エピソードに区分された原作において、章をまたいで登場してくる“例外”になります。ちなみに森崎もそうです。

田所や亜弓を省き、森崎も軽音部周辺の描写に限定させたことにより、まなみ、後藤、神田、作田それぞれの界隈をつなぐリンクマンがいなくなります。

映画はまなみたち4人の周囲を同時かつ交互に移していく一方で、4人の少女たちが作品内で交差することはほとんどありません。
リハーサルで卒業生代表の挨拶を読むことになったまなみを見て、作田が思うところがあるっていうくらいでしょうか。

二人は同じクラスなのかもしれませんが、それぞれの視界に作田やまなみは登場してないですし、お互いのエピソードにもほぼ関与しません。これは章立ての形で物語を区別した小説とある種似ている雰囲気です。

主語「少女は」の必然性

田所と亜弓が映画の本線にいなかったことは驚きました。
その一方で、「少女は卒業しない」というタイトルを考えると、まなみ、後藤(と倉橋)、神田、作田の4人に物語を収斂させたのも納得します。

主語「少女」を明確にしているんですよね

小説の場合、セリフ以外にも地の文で登場人物の心情や状況を示すことができます。
朝井リョウさんの『少女は卒業しない』では各章の視点が全てその章の少女たちなので尚更です。

映画も同じようにまなみや作田たちの、主人公としての「少女」の視点を徹底します。しかも心内描写の独白とかは全く使わずに。

ここで大事なのが「少女」たちが主語となれるのは、「少女」たちが特別な感情を抱く相手がいるからです。駿、先生、寺田、森崎がいるからです。

倉橋が大きな割合を占めていた後藤のケースを除いて、まなみと駿、作田と先生、神田と森崎はほぼ1対1の形で対応し、まなみたち「少女」側の目線を貫いていました。

田所や亜弓の関連性を省いたのも、まなみたちが原作の枠を超えて関わることがなかったのも、視点を「少女」たち以外にぶれさせないためかなと思いました。

ちなみに、彼女たちの設定も原作と映画では結構雰囲気が異なります。神田の立ち位置にはびっくりしましたし、寺田くんも小説で抱いていたイメージと全然違いました!笑

空気感の再構成

最後に、映画『少女は卒業しない』から感じた雰囲気についての感想です。

ぼやっとした言い方になりますが、原作小説の読後感と映画を観た後の余韻が全然違ったんですよね

原作小説は2012年刊行。携帯の赤外線通信が出てきたりと、1989年生まれの朝井リョウさんが見てきたであろう高校時代が描かれていました。
87年生まれの自分にとっても、小説版で描かれた高校生活の雰囲気は既視感のあるもので、もしかしたら中川駿監督にとっても同じような感じだったかもしれません。

けれども小説におけるその空気感というのは少し軽いものだったのは確かです。
話し言葉もそうですし、後藤や寺田たちバスケ部をフィーチャーした章では、後藤の外見部分にフォーカスしたセリフも散見されます。

ああいう弄りの形を含んだコミュニケーションは、信頼関係に基づいた部活というコミュニティの中では往々にあることだと思います。でも、それを見て全員が面白いと思うかと言われればまた別の話な気がします。

一方、映画ではそうしたやり取りは削ぎ落とされていました。女子と男子、という交際関係への生徒の意識も、だいぶ原作よりも薄まっているようでした。

人を弄るような登場人物は出てこなくて、みんなとても良い子たちです。地に足をつけた高校生たちは小説版よりも大人びて見えます。

これが時代の違いによるものなのかはわかりませんが、今の子たちはこういう空気感なんですかね?

ただ、映画に漂う雰囲気は重苦しさとかとはまた違って、高校生世代らしい軽やかさ、賑やかさが作品で失われているわけではありません。
『カランコエの花』でも感じたんですが、中川監督は生徒たちが集う教室や廊下の空気感、行動音とか、対面で会話する時の切り出し方とかをとてもリアルに再現します。

この映画でいえば、作田のクラスメイトたちが教室後方で喋っているところや、映画序盤に登場人物たちを昇降口から連続で映していくシーンが特に印象的でした。

ちなみに坂口先生(藤原季節)の「地獄のアディショナルタイム」には、いちばん時代の違いを感じましたね…笑
アディショナルタイムという呼称が一般化し始めたのは2010年代からですから、その時代に彼が高校生だったと考えると、やはり自分は歳をとったなと思います。

卒業し(たく)ない

今日、私はさよならする。
世界のすべてだった
この“学校”と、“恋”と。

引用元:『少女は卒業しない』オフィシャルサイト

これはオフィシャルサイトのストーリー紹介導入部分に記されている一節です。

自分の高校は校則が緩かったこともあって「学校」というか「高校生活」そのものから離れたくないと言っている人が多く、高校に上がる前から、あるいは卒業した後も、高校時代が“人生で一番楽しい時期”になる(になった)と話す人もたくさんいました。文字通り、学校が世界のすべてでした。

「高校生」であることの尊さだったり、「高校生」である権利の価値がとても大きい時代だったのは確かで、いわゆる青春作品の多くが高校を舞台にしていることもひとつの証だと思います。

原作小説を読んだ時も自分が過ごした高校時代と近い空気を感じました

それに比べると、映画から「学校が世界のすべてだった」というキーワードを表面的に感じる部分は多くありませんでした。この映画における青春の世界は、高校生活という“場”というよりも恋する相手生徒との狭い半径に限定されている感じがします。

ですが、タイトルの『少女は卒業しない』に込められた「卒業したくない」というニュアンスを考えると、「学校が世界のすべてだった」は見事に帰結しています。

「卒業したくない」の理由たりうる男子生徒や先生との関係=“恋”は「学校」でしかあり得ず、彼女たちを「少女」に位置付ける環境もまた「学校」でしかありえません。

そして彼女たちの“恋”に対する描写は、作田と坂口先生、まなみと駿、後藤と寺田、神田と森崎の4組を濃密に映すことで「世界のすべて」と表現するに十分なことを印象付けています。

 

この映画のポスターには「あの頃、ここが世界のすべてだった」と過去形で記されています。「あの頃」の人たちにも通じる普遍的な青春が、誇張されることなく描かれています。

「だった」の記憶を、柔らかく手繰り寄せてくれる映画でした。

原作の読後感はまた違うと思いますので、興味のある方はぜひ読んでみてください。

小説と映画を二度楽しめる、そんな映画化作品だったと思います。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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