こんにちは。織田です。
2011年の映画『僕たちは世界を変えることができない。 But, We wanna build a school in Cambodia.』を鑑賞しました。
監督は深作健太。
向井理、松坂桃李、柄本佑、窪田正孝が、カンボジアに学校を立てようと奮闘する大学生の4人組を演じ、手持ちカメラを駆使したドキュメンタリー風の映画になっています。
原作は2008年に自費出版で刊行された大学生・葉田甲太の体験記。
映画鑑賞後に原作本を読んでみましたが、原作と比べて映画ではよりエピソードやディテールが深掘りされた印象を受けました。
原作と比べると、映画では登場人物のキャラクター付けやエピソードの肉付けがしっかりしており、5倍くらいの濃度があります。
この作品ではカンボジアでのロケや、外国人と話すシーンが多々出てきますが、通訳を使うことでほぼ字幕なしに仕上げているのも見どころ。
オリジナルを超えたクオリティになっており、なおかつ内容の恣意的な改変も行われていない、純粋に素晴らしい映画でした。
『僕たちは世界を変えることができない。』のスタッフ、キャスト
監督:深作健太
原作:葉田甲太
脚本:山岡真介
田中甲太:向井理
本田充:松坂桃李
芝山匡史:柄本佑
矢野雅之:窪田正孝
久保かおり:村川絵梨
通訳のブッティーさん:Kor Vurthy
田中甲太は原作では葉田甲太、芝山匡史は芝田匡史、矢野雅之は佐野雅之、本田充は石松宏章となっています。
また通訳兼ツアーガイド役を演じたブッティーさんは実際にカンボジアで現地ガイドを担当しており、ご本人が出演されています。
原作者の葉田さんがカンボジアへ赴いた時もブッティーさんがガイドを務めていました。
この物語を一番ダイレクトに知っている人と言っても過言ではありません。
奇跡のキャスティングですね。
あらすじ紹介
ありきたりな毎日に物足りないものを感じていた医大生のコータは、ふとしたことから手にした海外支援案内のパンフレットに触発され、カンボジアに学校を建てることを決意。人材や資金集めに奔走する。しかし、現地視察で訪れたカンボジアでは厳しい現実を目の当たりにし、帰国後もさらなる困難が待ち受けていた……。
150万円。
扶養から外れない程度にバイトをする普通の大学生が、2年弱で稼げる額でしょうか。
150万円集めれば、カンボジアに学校を建てることが出来る。(実際には残り半分の150万円を世界銀行が負担するため、計300万円で設立)
頑張れば届きそうな額ということもあり、甲太たちは仲間を募り、サークル『GRAPHIS』を立ち上げ。チャリティーイベントに奔走します。
主にクラブでイベントを開催し、収益を寄付金に当てる形です。
ちなみにこのサークル『GRAPHIS』は2020年現在も元気に活動しています。
Twitterなども検索すれば出てくるので興味のある方はご覧ください。
チャラ男だけど
2000年代中期のお話です。
ホストばりに髪をグルングルンさせた松坂桃李だけでなく、向井理も、柄本佑も、窪田正孝もみんな髪の毛を伸ばしチャラチャラした風貌で登場します。
女性のキャラクターもパンダみたいなギャルメイクの子が多く、観る人によっては嫌悪感を抱く人も多いかもしれません。
でも、これは決して誇張でもなんでもなく、あの当時の大学生、特にイベントサークルのような組織に属する学生のリアルです。
僕は葉田さんたちよりも少し下の世代ですが、確かに2000年代中期、あのように髪を伸ばしてネックレスをつけたチャラいお兄さん、お姉さんたちはいたんです。
そのスタイルがかっこいいと信じて生きていたんです。
誰もやったことのないチャリティーに「チャンスじゃん!」と飛びつき、目を背けたくなるようなカンボジアの現実を知り、それと向き合っていく。
きっかけは「かっこいいじゃん!」だったかもしれません。
けれど「かっこいい」だけではない重苦しい現実を体験しながら目標に向けて邁進していく学生たちは、ギャルだろうとギャル男だろうと間違いなく「かっこいい」人生経験をしたと思います。
「ギャル男が」チャリティーをする、という見方ではなく、チャリティーをする学生がたまたまギャル男(ギャル)のような見た目だっただけなんです。
彼らの風貌によって支援の質が変わることもないわけです。
イケメン俳優揃いだね。チャラいね。
そんな軽い感じで鑑賞すると結構グサッとやられます。
「We wanna build a school in cambodia.」
普通の“今どき”(当時の)な医大生たちの、壮大な挑戦記がそこにはありました。
以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
映画のネタバレ感想
それでは映画内容をご紹介していきます。
設定や展開に触れますので未見の方はご注意ください。
原作との違いは?
原作は葉田甲太さんの自費出版書籍。僕は電子書籍で読みました。
自伝に近い体験記なので仕方ないですが、原作本では主語が「僕が」になっており、視点もあくまで甲太から見たものになっています。
良くも悪くも主観的な部分が多く、主人公の女好きな部分や少々乱暴な表現も散見されました。
原作本と映画での大きな違いを簡単にまとめてみます。
- 本田(松坂桃李)は原作ではそこまで前面に出てこない
- 原作は甲太の視点だが、映画では客観的にドキュメンタリー風に映している
- 映画ではブルーハーツが象徴的に使われていたが、原作では出てこない
- 「カンボジアに行ったことないの?」と甲太に聞いた人間が異なる
- 原作における女好きの部分、一部イベントを映画ではカット
- カンボジア開校式前に訪れた香港、カンボジアの歓楽街の描写を映画ではカット
映画鑑賞後に原作を読んで思いましたが、この映画はかなり原作(葉田さんたちの体験記)に忠実に作られています。
その中で、いくつか原作からアレンジを施しており、その大半は成功だったと読み比べてみて感じました。
松坂桃李の「本田くん」の温度差
原作本を読んで一番「あれっ?」と思ったところがこちらです。
映画版では松坂桃李演じる「本田くん」は、甲太(向井理)たちと大学こそ違いますが、主要メンバーの一人として、何ならナンバー2のポジションで描かれています。
芝山(柄本佑)と矢野っち(窪田正孝)が「キラキラ感が違うな」「ミラーボールみたい」(悪口)とこぼすのも無理ないなと思えるくらいにパリピな雰囲気で、「本田くん」は登場してきました。
映画全体を見てもかおり(村川絵梨)との恋愛エピソードもあって、確実に主要キャラクターと言えます。
甲太が本田「くん」と呼んでいたのもインカレサークルの適度な距離感ぽくて良いですよね。
ちなみにこの作品で松坂桃李はキネマ旬報ベスト・テンの新人男優賞を受賞しています
ところが原作本を読むとどうも様子が違います。
表記は「石松」となっており、こちらが実名なわけですが、甲太や芝山、矢野と比べると名前が大きく改変されています。
原作で石松くんはほとんど作中に出てきません。
一緒に行動していることは行動しているのですが、甲太の物語に名前が全然出てきません。
かおりちゃんとの恋愛エピソードも、彼が音頭を取って資金集めのノルマを設定するシーンもありません。
カンボジアでお腹を下して早期帰国したエピソードも出てきません。というかカンボジア視察の場面で石松くんは全く触れられていません。
「医大生にもギャル男はいるのか」と葉田さんが原作で綴っているように、実際の石松さんもチャラ男な見た目であったことは確かですが、本を読む限りではどうも陰が薄いんですよね。
原作本は言うまでもなく葉田さんたちの実体験から描かれたものです。
この実体験が「実際」を全て記録しているのかは分かりませんが、映画版では原作よりも「本田くん」の役割を大きくし、彼を目立たせる脚色を施していました。大成功でしょう。
ここからは映画が終わった後の話ですが、「本田くん」のモデルとなった石松さんは、カンボジアに学校を設立したのちに、今度は病院を建てるためにさらなるチャレンジをしていきます。
こちらについては石松さんの自著『マジでガチなボランティア』に詳しく書いてあります。
ドキュメンタリーの形で2011年に映画も公開されました。
ドキュメンタリー視点への変更
この映画が秀逸だったのは「僕が、僕が」からの引き算です。
原作本では、物語が「僕が」という視点に終始していました。主人公が独白調だったのも関係していますね。
対して映画では基本的に4人を中心とした「僕たち」を客観的に見つめた映画になっています。
その中で甲太(向井理)のモノローグが入り、彼が活動をしていく過程でどんな思いを抱いたのかをこちらに教えてくれました。
「引き算」という部分については向井理がcinemacafe.netさんの記事で語っていますね。
アドリブと向井理
ガイド役のブッティーさんは実際に葉田さんたちを案内したご本人が出演されていることはキャストのところで述べました。
ブッティーさんに限らずカンボジアでのロケは、役者ではなく一般人の方を使ってアドリブに近い形で撮影していると思われます。
綺麗事だけではない、生々しい現状と歴史がリアルに突き刺さってきます。
ブッティーさんがポル・ポト政権時代の実情を話したシーンを例に挙げましょう。
お父さんとお母さんのエピソードを涙ながらに話すブッティーさん。
演技でも何でもなく、実際にブッティーさんが経験し、葉田さんたちにも話したことです。
ブッティーは涙をためて昔のことを話してくれた。
横を見ると、柴田と佐野っちも涙を浮かべていた。
僕もブッティーの話を聞いて涙が出てきた。
彼は何歳も年下の異国に住む僕たちに、家族を亡くした辛い過去を話してくれた。僕らはいったい、何回このようなことを繰り返すのだろうか。
葉田甲太『僕たちは世界を変えることができない』から引用
向井理(甲太)はブッティーさんの肩に手を回し、目を腫らしながら彼を抱きしめました。
これはもはや迫真の演技とかではなく、人間としての純粋な反応です。
自然な反応とかじゃなく、向井理が恐らく感情のままにとった行動です。
映画の中で感情を表すシーンってたくさんあると思うんですが、その多くは観ている人間に感動を与えたり、共有したりするためのものです。
でも、向井理のブッティーさんに向けたあの表情、仕草は、カメラが回っているとかそんなことは関係ない彼個人の人間としての反応でした。
観ている僕たちはどんなに共感して心を揺さぶられたとしても、ブッティーさんと対面する向井理の境地には絶対にたどり着けないんですよね。
ブルーハーツと窪田正孝
感情をダイレクトに表現したという点では、カンボジアの病院でHIV患者の女性と会い、「カンボジアのアイドル歌手に似ている」と褒められていた窪田正孝(矢野っち)のシーンも見逃せません。
他の3人から「ブルーハーツ歌えよ」と茶化されたものの、気恥ずかしさもあったのでしょう。彼は歌うことができませんでした。
※原作では葉田さんたちがSMAPの曲を歌ったそうです。
その後に女性を囲んで写真を撮った時も矢野っちの表情は硬いままでした。
恥ずかしさと、期待に応えられなかった後悔と。
「また来ます」と約束して女性と別れた4人でしたが、彼らが「また来た」時にはその女性は既に亡くなっていました。
窪田正孝はその後、映画のクライマックスでブルーハーツの「青空」を子供たちに歌います。
悔しさと謝罪が入り混じったような涙の熱唱。
それまではドライな雰囲気を貫いていた窪田正孝が心を震わせて歌う姿には、胸がグッと詰まりましたね…!
原作ではブルーハーツを歌ったくだりは出ていなく、「僕たちが」好きな歌もミスチルと表記されています。
泥臭いブルーハーツのチョイスもお見事と言うほかありません。
主題歌『歩み』のミュージックビデオを載せておきます。
役者の皆さんのガチさに、今見ても目頭が熱くなりますね。
その他の変更点
映画ではかおり(村川絵梨)に「カンボジアに学校建てるのに行ったことないの?」と言われて甲太たちはカンボジアへ行くことになるわけですが、原作ではこのセリフを言ったのが行きつけのバーのマスター(映画版ではリリー・フランキー)になっています。
映画オリジナルとも言える、かおり、甲太、本田の三角関係に持っていくための伏線とも捉えられますが、少し原作とは異なった形になっていますね。
また、原作本では風俗店や女性とのエピソードが頻繁に出て来て、イベントサークルの大学生らしい側面が良くも悪くも出ていますが、映画版ではほぼカットされています。
何を伝えたくて何が必要でないのか。
必要なエピソードを掘り下げて“原作以上”の説得力を持たせる一方で、本筋と離れた武勇伝を潔く省いた製作側の引き算が光りました。
誰かのために何かをする喜び。
その大切さと幸福さを実感できる、“本物”の映画でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
映画のあらすじについてはMIHOシネマさんの記事で詳しく触れられています。
内容を確認したい方はぜひご覧ください。