自己紹介を怖いと、思ったことがある人はいるでしょうか。
歌うことが怖いと、思ったことがある人はいるでしょうか。
こんにちは。織田です。
今回は2018年の映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』をご紹介します。
うまく言葉を発することが苦手で、周りと距離をとっていた女子高生が主人公の物語。
主演は南沙良さんが務めました。
今回はプライムビデオで鑑賞したんですけど、個人的に物凄く刺さりましたね…。泣きました。
“普通”のレベルに届かない何かのコンプレックスを持っていたり、そのコンプレックスが、どのように他者によってえぐられていくのかだったり。
みんな誰もがどこかに持っている「痛み」を丁寧に描き出し、その痛みに向き合わせてくれる映画でした。
この記事では映画の感想、また原作コミックも合わせてご紹介していきます。
あらすじ紹介
上手く言葉を話せないために周囲となじめずにいた高校1年生の大島志乃は、同級生の岡崎加代と校舎裏で出会ったことをきっかけに、彼女と一緒に過ごすように。コンプレックスから周囲と距離を置き卑屈になっていた志乃だが、加代にバンドを組もうと誘われて少しずつ変わっていく。やがて、志乃をからかった同級生の男子・菊地が強引にバンドに加入することになり……。
原作コミックは全1巻
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』の原作は押見修造さんの漫画です。
1巻で完結するので気軽に読めます。
映画はこの漫画にかなり忠実に作られていて、むしろ原作にさらに肉付けして青春映画としての完成度を高めています。
何巻にもわたるコミック作品を映画化するとどうしても「再現性」という部分うんぬんになってしまいますが、こうやって1巻完結のコミックをきっちりと忠実に再現した上で、プラスアルファのエピソードを入れて物語の幅を広げるのは凄くいいなと思います。
原作コミックを読む方は、押見先生のあとがきまでご覧いただけると『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』に対して理解が深まるかと!
スタッフ、キャスト
監督 | 湯浅弘章 |
原作 | 押見修造 |
脚本 | 足立紳 |
大島志乃 | 南沙良 |
岡崎加代 | 蒔田彩珠 |
菊地強 | 萩原利久 |
清掃のおじさん | 渡辺哲 |
小川先生 | 山田キヌヲ |
志乃の母 | 奥貫薫 |
南沙良さんと蒔田彩珠さんはともに2002年生まれ。
この映画の撮影時はまだ二人とも中学生でした。
主人公・志乃や同級生の加代は高校1年生なわけですけど、自分たちが経験したことのない「高校生」を表現する新鮮さがとても魅力的です。
菊地という同級生男子を演じた萩原利久さんも含め、物語の中心を担った3人の俳優さんが光りました。
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自分の名前が、言えない…
「はじめまして。 大島志乃です」
この映画は起床した志乃(南沙良)が、鏡に向かって自己紹介するシーンから始まります。
高校入学初日の朝です。
「はじめまして」と「大島志乃です」には間があったのは、志乃が言葉をスムーズに発するのが苦手で、特に母音(あいうえお)で始まる言葉の発音が不得意だったからです。
一般的には吃音症とかどもりとか言われる類のものですが、この作品では母親(奥貫薫)が持ってきたパンフレットを除き、「吃音」とか「どもり」という単語は出てきません。
原作コミックのあとがきで著者の押見修造さんはこう記しています。
この漫画では、本編の中では「吃音」とか「どもり」という言葉を使いませんでした。それは、ただの「吃音漫画」にしたくなかったからです。
吃音症に悩んだ押見さん自身の体験をベースに描かれた作品ではありますが、「話すのが苦手」な人だけでなく、「できない何か」に苦しんだことのある人にとっても、とても響く作品になったんじゃないでしょうか。
喋れない私、歌えない私
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』では、吃音に悩む志乃(南沙良)、音痴なことがコンプレックスな加代(蒔田彩珠)が登場しました。
「喋れない私、歌えない私」と表記しましたが、「うまく」という副詞がそれぞれにつきます。
志乃に関して言えば、本当はおしゃべりをたくさんしたいと思っている子のはずです。
駅前にできた新しいお店の話に花を咲かせる4人組を見やり、その後に校舎の裏で一人で弁当を食べながら彼女たちの会話を復唱します。
加代も歌は下手だけれども音楽が大好きで、歌いたいと思っている子です。
こちらも誰もこない校舎の裏側で、ブルーハーツの「青空」を聞きながら、外れた音程で口ずさみました。
「お、おっ、織田くん」
僕たちの中学校には、喋る時どもりがちな先生がいました。
映画の志乃と同じように、最初の言葉がなかなかスムーズに出てこず、生徒たちの中には「ドモリ」(「タモリ」と同じイントネーション)と馬鹿にして呼ぶ子たちもいました。
僕自身、そこで初めて「どもり」という言葉を知りました。
生徒は陰で、時には先生の前でさえも、
「お、おっ、おっ、織田くん」
とか、
「や、や、やめなさい」
とか、先生の真似をして遊びました。自分たちとは違う話し方をする人の異端さを切り取り、笑いました。
吃音の教師が登場して生徒に笑われるものでは、阿部寛主演の『青い鳥』という映画がありましたが、現実はあの映画よりももっと無邪気で残酷でした。
これは別に思春期特有のいじりとかじゃなくて、特徴的な誰かの真似をして笑いを取るのって、大人になってもやってる人はたくさんいますよね。
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』でいうと、それは志乃にとっての菊地(萩原利久)でした。
死ねばいいのにね、あんなやつ
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— 映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」 (@shinochan_movie) August 17, 2018
菊地は入学初日の自己紹介でお調子者ぶりをアピールし、強烈な高校デビューを印象付けます。声がでかく、クラスの人気者になりたい思いが見えます。
自己紹介で失敗した志乃を嗤い、彼女の真似をして友人の笑いをとって彼女を傷つけました。
怖いんですよ。誰かに自分の不得意なことをネタにされるのって凄く怖いんです。
志乃からしたら菊地は恐怖を覚える存在で、明確な敵。
バンド「しのかよ」を立ち上げて路上演奏をやりだしてせっかく軌道に乗り始めたのに、偶然遭遇しただけで、芽生えた勇気を台無しにされてしまう、それくらいの存在です。
「死ねばいいのにね、あんなやつ」
駅前での演奏を目撃され、それをクラスのみんなに大声で言いふらした菊地を見て、加代が言った言葉ですね。
いや200%同意します。加代ちゃんよく言った。
そんな菊地は、なお空気を読まずに「しのかよ」に自分も混ぜて欲しいと懇願。それを聞いて志乃は視線を落とし、絶望します。
もうマジでどのツラ下げて言ってんだ状態ですよね。うざい。消えて。
その通り。本当にうざいんですけど、不用意な発言を繰り返す菊地に「うざい、消えて」の感情を植え付けたのは映画版ならではだと思うんです。
原作からの付け足し
菊地の抱える悩み
菊地に関して言えば、映画では原作にはないシーンがいくつかあります。
- 入学初日のうざい自己紹介
- 夏休み明け、菊地が周囲にうざがられる
- 「しのかよ」を辞めた加代への説教(罵声)
この中で特に重要なのが1つ目と2つ目。
原作を読んだ印象だと、菊地は「志乃の吃音をいじった嫌な奴で、突然しのかよに闖入してきた男子」という感じなんです。
もちろんアイスを食べながら、いかに自分が空気が読めず、居場所がないかを志乃に話すシーンで、彼は彼なりの悩みがあるんだなとわかるんです。わかるんですけど、唐突な印象が拭えませんでした。嫌悪感が「うざい」まで届きませんでした。
その点映画では、入学初日や夏休み明けのシーンを描くことで、菊地が寒いお調子者として周りから浮いている様子が、また彼の距離感がバグっていることがわかります。
人との距離感がうまく取れないというのは、志乃がみんなと同じように話せない、加代がみんなと同じように歌えないのと同じように、菊地が“普通”の枠から外れている部分です。
夏休み明け初日に、お前のそのノリいい加減うぜえよ的になった時の描写はきつかったですね。
飽きられても、うざがられてもクラスメイトと顔を合わせる明日はまたやってくるわけですから。
志乃と加代のコンプレックスが喋ったり歌ったりすることで感じる羞恥なのに対して、菊地の場合はその言動、行動によって彼自身が不利益を被り、また志乃がされたように他者を傷つけてしまう可能性があるんですよね。時に全く本意でないことが酷です。
個人的には志乃の立場に共感したので、菊地がどんなバックグラウンドを持っていたとしても、また仲良くなろうと思った末の絡みだったとしても、彼の志乃に対する嘲りは決して消えないものだと思うんですけど、菊地も菊地で「うまくできない何か」に苦しんでいるのはだんだんわかってきました。
3つ目に挙げた、菊地が志乃をボロカスに言う映画オリジナルのシーンにも説得力が生まれます。
「お前だせえよ」
「空気消して。私なんてどこにもいませんってフリして。」
「俺は絶対来年歌う。お前は一生腐った魚のような目してやがれ。つーか魚ももったいねえ、雑魚だ!お前は雑魚だ!」
この後に雑魚だ、いやゾウリムシだミジンコだとエスカレートしていくわけですが、これがちゃんと正論に聞こえるんですよ。あんなにうざかったのに、だんだんと彼の成長が見えている自分がいるんです。
序盤から菊地のキャラクターをしっかり描いたことで、原作よりも彼が自然に「うまくできない」世界に溶け込んだんじゃないかなと思います。
カラオケは映画オリジナル
原作との違いでいうと、志乃が初めて加代の前で歌った「翼をください」のカラオケシーンは、映画オリジナルです。
原作では元中の女子に絡まれた加代を見つけた志乃が「加代ちゃんは私と約束がある」といって追い払い、加代に(ギターの弾き語りを笑ったことを)謝り、加代が「ねェ志乃、歌は歌えるの?」と言ってそのままバンド結成へつながって行きます。
加代が志乃の歌を初めて聴くのは菊地に目撃されて中断した路上演奏の時まで待たなければいけません。
『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』登場曲に注目するとより深く楽しめます!興味深い記事、ご一読を👀
▼翼をください▼
「悲しみのない自由な空へ」飛んでいくための「翼をください」と願うこの歌は、言うまでもなく、世界が不自由で悲しみに満ちていることを表しているhttps://t.co/1i3qh4fHx0— 映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」 (@shinochan_movie) August 25, 2018
その点、カラオケで志乃が透き通った声で「翼をください」を歌う姿に加代が感銘を受け、自分のやりたいことを「みんなと同じ(以上)に歌える」志乃と一緒に追い求めていく過程を描いた映画版は素晴らしいプラスアルファを施したと思っています。
「か、かっ、加代ちゃん、も、もう帰ろう?」
「…やるの。初めて部屋から出られたんだから」
初めて外で演奏した時に加代がなかなか上手く弾き出せなかったシーンも、それまでカラオケや加代の部屋で練習していたプロセスがあったからこそ、より響きましたね。
原作では志乃と加代が路上演奏を行う場所は「桐生駅」と出ていて群馬っぽいんですが、映画は静岡の沼津で主に撮影が行われました。
オーシャンビューが特徴的な志乃たちの高校は、『高校生男子の日常』などでもロケ地として使用されています。
ラストシーンの変更
文化祭のライブで志乃が「魔法」を歌い、志乃が鼻水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら「喋れない」自分をバカにしていたことを告白した後。
映画のラストシーンは原作と大きく異なります。
原作では大人になり娘ができた志乃が“自分の名前を言えた”ことにまつわるものになっていますが、映画では校舎裏で弁当を一人食べる菊地、屋上でギターを練習する加代、そして教室で一人お弁当を広げる志乃という昼休みの場面になっています。
そんな志乃の机に置かれる紙パック飲料。「あげる」と言って、前の席に腰掛けた女子生徒。
志乃が紡ぎ出した「ありがとう」の言葉。
これが加代じゃなくて全く別の子だったこと。そこには、志乃が彼女の新しい世界を見つけたという意味があるんじゃないかなと感じます。
入学当初にお弁当をみんなで食べる子たちを羨ましげに見つめていたことからも、志乃にとって誰かお友達と一緒にお昼を食べることは叶えたいことの一つだったはずです。
そこに加代という既存の友達ではなく、別の女子生徒を登場させたことで、志乃が新しい彼女の居場所を見つけた、そんな未来を感じさせる幸せなラストだったと思います。
「ありがとう」
今まで何度も志乃が言いよどんできた、母音で始まるこの言葉を使ったのも胸にきましたね。言えたじゃん。やったね。
みんなと同じにできない苦しさ。
みんなと同じにできない痛み。
原作を忠実に再現し、さらに上積みを施した素晴らしい映画でした。
実写化作品の成功例としてぜひぜひいろんな人に原作コミックと合わせて観ていただきたいなと思います。
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