映画『君は永遠にそいつらより若い』ネタバレ感想|堀貝の当事者意識が眩しくて

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こんにちは。織田です。

今回は2021年公開の映画『君は永遠にそいつらより若い』をご紹介します。

『ポトスライムの舟』で芥川賞を受賞した津村記久子さんのデビュー作が原作。
佐久間由衣さん奈緒さんが共演しています。

卒業間近の4年生が抱える大学生活のリアルに加え、“他人事”に対する感受性の強さ、当事者意識の強さをとても感じる作品でした。

特に現役の大学生には結構響くんじゃないでしょうか?

この記事では以下の2点に注目しながら感想を書いていきます。

  • 大学生活の描写
  • 他者の痛みへの当事者意識

 

ネタバレを含みますので未見の方はご注意ください。



あらすじ紹介

大学卒業を間近に控え、児童福祉職への就職も決まり、手持ちぶさたな日々を送るホリガイは、身長170cmを超える22歳、処女。
変わり者とされているが、さほど自覚はない。
バイトと学校と下宿を行き来するぐだぐだした日常をすごしている。
同じ大学に通う一つ年下のイノギと知り合うが、過去に痛ましい経験を持つイノギとは、独特な関係を紡いでいく。
そんな中、友人、ホミネの死以降、ホリガイを取り巻く日常の裏に潜む「暴力」と「哀しみ」が顔を見せる…。

出典:公式サイト

スタッフ、キャスト

監督・脚本 吉野竜平
原作 津村記久子
ホリガイ 佐久間由衣
イノギ 奈緒
ヨッシー 小日向星一
ホミネ 笠松将
ヤスダ 葵揚
オカノ 森田想

小日向星一さんは小日向文世さんの息子さんです。『サマーフィルムにのって』にも出演していましたね。

この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



わかりみ深めの大学生活

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

『君は永遠にそいつらより若い』の舞台は束谷大学という架空名の大学です。多摩地域なのかな。

主人公のホリガイ(佐久間由衣)や、友人のヨッシーこと吉崎(小日向星一)は、文学部社会学科の4年生で同じゼミ。
ヨッシーの友人・ホミネ(笠松将)は文学部文学科、ホリガイの友人のオカノ(森田想)は文学部哲学科です。

そしてホリガイと深く関わることになるイノギ(奈緒)も文学部哲学科。彼女は3年生です。

「文学部」というコミュニティの中で話が進んでいく感じですね

自分自身、大学を卒業してから随分とたつんですが、『君は永遠にそいつらより若い』のキャンパスライフの描写には、実にわかりみが深かったです。
その理由を少し書いていきます。

1限、ゼミ、卒論

就職が決まり、あとは卒論を終えて卒業を待つだけとなったホリガイ(佐久間由衣)
この映画は秋冬にかけての季節を描いたものだと思います。

ホリガイはゼミ(結構人数多いw)の飲み会に出席し、そこで就職決定を報告。
卒論は「人生の成功のビジョンは、生育環境と関係があるのではないか」(確かこんな感じだったかと)という仮説を、アンケートを集計して立証していくテーマ設定のようです。

そのアンケート回答母数のカサ増しを、交友関係少なめのホリガイは頼れる友達、ヨッシー(小日向星一)だったりオカノ(森田想)だったりに託すわけですが、オカノからはアンケート協力の見返りとして1限の西洋哲学史に出席(代返)し、ノートを取ってきてほしいという指令を受けます。
忌まわしき1限…!!

9時登校の難易度

大学の「1限」とは、大体9時ごろに始まる1時間目の授業。特に一人暮らしをしていた学生さんは、朝起こしてくれる家族がいないのでつらかったと思います。

高校までは普通に8:30くらいには登校してたわけで、なおかつ部活の朝練とかあれば6時台っていう人もいたと思います。
でも、なぜか大学に行くと生活時間帯が後ろ倒しになって、朝9時のチャイムに間に合うことができなくなる謎。

案の定、ホリガイが西洋哲学史の教室にたどり着いた時には既に授業が終わっていて、彼女は途方に暮れました。そしてそこらへんにいたノートをコピーさせてくれそうな学生・イノギ(奈緒)に声をかけます。

『あのこは貴族』でも高良健吾が水原希子にノートコピーさせてよと(偉そうに)言ってきたシーンがありましたが、この映画のホリガイの方が雰囲気的に共感しました。笑

ちなみにイノギの「ゼミ」のイントネーション(「進研ゼミ」と同じ)は新鮮でしたね。自分の周りは「セミ」と同じ発音だったので。

しかしまあ、ホリガイのように大人数のにぎやかな社会学ゼミは憧れの対象ですよ。ゼミ合宿とかもあるんだろうなぁ。あれだけ大規模だと。

卒論のアンケート集めのリアル

そのゼミで、ホリガイが教授に提出する卒論
彼女は周りの人にアンケート用紙を配り、友達の友達に記入してもらって有効回答の母数を増やそうとします。

今の時代も手書きのアンケートでやるんですね!?

僕が卒論を書いたのはもうだいぶ前ですけど、その時もアンケートに手書きで記入してもらって集計するやり方をとっていました。全部で100人ちょいだったのでホリガイよりさらに人脈が少なかったです。

でも、3つ下の後輩は、SNSでアンケート協力を募り、記入フォームに誘導して数を集めるのが主流になっていました。集計数の桁が違った。笑

当然そっちの方が合理的ですよね。

けれどホリガイは手書きのアンケートを配り、地道に回答を集めています。教授の方針かもしれませんが、何か自分の時を思い出して苦しくなりました。

これやったことある人はわかると思うんですけど、人にアンケート頼んで「そろそろできた?」って催促するのマジきついんですよ。精神的に。

こっちも〆切があるので、催促しなきゃいけない。けれど先方からしたらご飯おごるとか図書カードとか、あってないような小さな利益で私のために動いてくれるんです。別に提出しなくても自分は困らないわけですよ。

悪いな、うざいだろうな。そんな葛藤と戦いながら回収作業に足を運ぶ。ごめん、手間だったよね、ありがとう、の連発。

ホリガイ凄いよ!頑張れ!でも冬休み入ってもまとめ作業に入らないのはちょっと遅すぎるよ?

そんなことを考えながら、卒論に奔走する主人公を見ていました。無事提出できたようで良かったですね。

ホリガイの部屋と服装

さらにホリガイへの共感を駆り立てたのが、片付いているとは言い難い彼女の部屋です。
ブラの金具踏んづけてどうたらと言っていましたが、生活感に溢れてていいですね。実に良い。

イノギが(親戚の)立派な一軒家を安く借りて私のお城化しているのとは対象的に、ホリガイのワンルームには大学生っぽさを感じました。

映画内の女子大生って綺麗な部屋の演出で登場する場合が多いんですけど、実際は結構あんなもんだと思うんですけどね。

ちなみにバイト先の商品とはいえ「鬼ころし」パックをストローで飲んでるところは尊敬しかないです。レベル高すぎ

さらにホリガイやヨッシーは、結構な頻度で同じ服、特にアウターを着ています。ヨッシーなんていつも同じ迷彩のダウンジャケット着てましたよね?

あれも大学生あるあるだと思っていて、特に冬場のアウターなんて一張羅で着回している人は割といます。
校内でグレーのコートを見かけたら「あれ、ホリガイ?」って思うだろうし、迷彩のダウンを見かけたら「ヨッシー?」って思うくらいには、大学生のワードローブは少ないのではないでしょうか。

自分が映画を演出する側だったら、やっぱりいろいろな服を俳優に着せたいと思うはずです。でもそうせずに、ホリガイやヨッシーのアイコンとしてコートやダウンを、イノギもカーキのモッズコートを象徴的なアイテムとして落とし込んでいました。

この人たちいつも同じ服着てるなって思ったかもしれませんが、実際そういう学生は結構多いんですよね。

就活が終わり、短いモラトリアム期間に髪の毛を赤に染めたホリガイの心理もわかります。僕も就活が終わると、人生で最初で(おそらく)最後の金髪にしていました。

『君は永遠にそいつらより若い』のホリガイたちからは、キラキラしたキャンパスライフからは程遠いかもしれないけど、確かに単位と卒業を求めて大学で戦うリアルな学生感を感じました。

だいぶ昔に大学を卒業した自分が感じるくらいだったので、現役の学生さんはさらに共感できたのではないでしょうか?

中上明くん失踪事件

本作のタイトル『君は永遠にそいつらより若い』を語る上で外せないのは、ホリガイ(佐久間由衣)の就職動機に大きな影響を与えたという過去の事件でしょう。

13年前に親が目を離した10数秒(数十秒だったかな?うろ覚えです)の間に神隠しのように消えてしまった少年・中上明くん。

彼の失踪事件を扱うテレビ番組をイノギ(奈緒)の家で見たホリガイは、尋常じゃない執着を見せています。

実在の事件

中上明くん失踪事件は、ホリガイとイノギの会話部分くらいしか情報がなく、詳しいことはわかりませんが、実際に日本では幼い子が忽然と姿を消してしまう行方不明事件がいくつも起きています。

その中でも1989年に徳島県で起きた松岡伸矢くん(当時4歳)行方不明事件は、知っている人も多いのではないでしょうか。
2021年現在も未解決となっています。

伸矢くんの親が目を離した数十秒の間に姿を消し、その後は怪電話や目撃証言など情報が錯綜。
捜索、協力依頼を呼びかけるテレビ番組は何度も放送され、成人後の彼に似ているという男性が紹介されたりもしました。

映画に話を戻すと、この事件に心を揺り動かされてきたホリガイはもちろん、イノギもテレビでやっているのを見たことがある、と言うくらいには、風化せずに一般に認知されている事件といえそうです。

ホリガイは、ホミネの住んでいたアパートの階下でネグレクトを受けていたショウゴくんに対し並々ならない当事者意識を持って接しようとしました。

そこには理不尽な力によって傷を負わされた、中上明くんと似た境遇を見たことがあったからではないかと思います。

君の痛みを受け止めて

ホリガイ(佐久間由衣)もイノギ(奈緒)も、過去に理不尽で到底受け入れがたい暴力によって心に大きな傷を負っています。イノギに至っては身体的な傷が未だに耳の横に残っています。

ここではホリガイの考え方や感受性について考えていきたいと思います。

負けても悔しくない精神構造

ホリガイは「ぷよぷよ」をイノギとプレイしますが歯が立たず完敗。悔しがるそぶりも見せずに、「何に負けても悔しいと思えないんだよ」とこぼします。

彼女は小学生の時に男子児童2人から「イマ・ヤマダ事件」なる暴力を受けたんですね。
もともとタイマンで互角以上にやりあっていた中で、取り巻きのデカい男子が相手側に加勢。2対1で一気に形勢不利となりボコボコにされてしまいました。

で、その精神構造がホリガイにどう影響したのかを考えると、彼女の言葉って結構予防線を張っていると思うんですよ。
言い換えると、自虐気味に前置いた上で、話すんですよね。

「私、説明するのが苦手で、とっ散らかったことしか言えないんです。私は」

これはイノギに「君は永遠にそいつらより若いんだよ」を言ったときも前置いていました。
イノギとは普通に喋れるのに、このセリフの時ばかりは丁寧語を使っています。

これって、今までずっとこの言葉を、いろんなシチェーションで使い続けてきたんじゃないでしょうかね。口癖みたいに。全然とっ散らかってないのに。

“人への無知”への恐れ

加えてホリガイは「普通の人が言えるようなことを自分は言えないし、普通の人ができるようなことができない」と負い目を感じています。

ゼミ飲みでくそみたいな男子学生から「おまえは人に対して無知、圧倒的に無知」と心無い罵声を浴びせられていましたが、本人も「私は人の気持ちがわかるのだろうか」と、“人への無知さ”を恐れています。

そんな彼女の“無知”への恐れを掻き立てるのが、自分が処女であることでした。

処女というのは恥ずかしくも寂しくもないが絶望的に苦しい。欠陥品って言われているみたいで。そんなんで人の気持ちがわかるのかよと言われているようで。と、ホリガイは独白しました。

そこにあるのはきっと、未か済か、という単なる通過経験の問題ではなくて、「知らない」自分が人を理解できるのかという恐怖だと思うんですよね。

だからホリガイはイノギのことを知りたかった。傷にも気づいてあげたかった。
イノギの言うとおり、本人としては気づかれたくないから隠してるわけですけど、それでもホリガイは気づいてあげたかった。

ホミネが死んだ時も、彼とはヨッシー繋がりの友人の友人でしかないにも関わらず、ホリガイはその関係以上の悲しみに暮れます。
前述した、虐待を受けるショウゴくんにもそうです。

バイト先の後輩・ヤスダ(葵揚)の悩みの真意を受け止めてあげられなかったことにも、ホリガイはひどく胸を痛めました。

ホリガイが「無知」を恐れる理由、それは彼女が圧倒的な当事者意識を持ち、対象の痛みに寄り添おうと試みているからだと思います。

試みているからこそ、本当に自分は寄り添えているのか、そもそも寄り添う権利があるのか、といったことに煩悶してしまうのではないでしょうか。

当事者意識と痛みの共有

ホリガイは痛みへの感受性が凄く強い人だと思います。また本人も、痛みへの感受性が強い人でありたいという思いを持っているはずです。

彼女は、自らの痛み(男子児童に数的不利でボコられた話)を打ち明けたイノギに、「その場にいれなかったことが悔しいわ」と言われて救われました。
同時に、自分もそうやって人の痛みに自分ごととして寄り添うことができるのかと惑いました。

他者の痛みに対するホリガイの当事者意識が高いアプローチは、「共感」を超えて「共有」だと思います。その先にはもちろん「救う」ことがあります。

当事者意識、と書いている以上、ホリガイは「当事者」ではなくて他者です。
例えば暴行されたイノギを助けてくれた「学校行って先生呼んできて。私ここいるから」の女の子はホリガイではありません。

イノギの痛みを知った時、それが本当に「他人事」になるのか「自分ごと」になるのか、そんな狭間で苦しみながらホリガイはもがいているんだと思います。

「悔しい」ともう一度思いたい

映画の外の世界に置き換えてみると、ホリガイのような当事者意識を持つことって凄く難しいはずです。

ニュースで事件に触れた時、「自分のことのように痛ましい」と感じるのは、被害状況や境遇が自分と共通している部分が大きいのではないでしょうか?

その「自分ごと」の範囲をホリガイのように広げていくのは、当然ながら痛みが伴うことです。
所詮外野の自分には何もできないという無力感ものしかかってくるはずです。

実際僕自身は世の中の大部分を「他人事」、むしろ「知らない」ものとしてここ数年間生きてきました。

20代中盤くらいまではホリガイのように、他人事であるはずの事象に心を痛め、自分なりに何ができるのか悩んでいた時期がありました。
ただ、その無力感のストレスに耐えきれずに世の中の情報をある程度取捨選択して遮断する方へと逃げました。

この「逃げ」によって自分の生き方が楽になったので、正直良かったとは思っています。
けれど、自分でも異常だと認識していたほどに、あらゆる痛みを受け止めようとしていたあの当時の自分に、この映画『君は永遠にそいつらより若い』を観せてあげられていたら、少し考え方も変わったのかなと感じました。

「そこにいてあげられなかったことが悔しい」

このセリフをもう一度、自分の言葉として心で唱えられるように、痛みと向き合うことができる自分になれたらいいなと思いました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。