映画『いけちゃんとぼく』〜ファンタジーと思いきやウルっときました〜

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09年の映画『いけちゃんとぼく』。西原理恵子の漫画が原作。大岡俊彦監督。


強くなれ、ヨシオ

海辺の港町。
ヨシオ(深沢嵐)はクラスメイトのたけしとヤスにいじめられる毎日を過ごしていた。

父親(萩原聖人)のポリシーを受け継ぎ、標準語を貫くヨシオ、叩かれても蹴られても踏まれても、決して泣かないヨシオ。それがまた、彼らのいじめを助長していた。

ヨシオにしか見えない「いけちゃん」なる謎の生命体に励まされ、慰められ、時に茶化され、ヨシオにとっての心の拠り所はいけちゃんだけであった。

いけちゃんに見守られ、ヨシオはやられっぱなしから抜け出すべく、男の子として強くなる夏を、迎える。

冒頭10分を見て、あぁこれは子供騙しのファンタジーかと思った。ヨシオの親役として萩原聖人とともさかりえがでていたりするが、基本的には田舎町の限られた集落の小学生の話である。

いけちゃんなる謎の守護霊らしきものが、お助けマンとなってヨシオくんを救う、そんな話かなと勝手に想像していた。

しかし、である。

町で有名ないじめっ子コンビが同じ学校にいたらどうするだろう。
腕っぷしに自信がなければ、関わらないようにするだろう。あるいは媚びるだろう。自分を防衛するために逃げるだろう。

ヨシオとイタズラをして遊ぶトモとマツは、その類の人間だった。加勢して3対2でいじめっ子コンビに挑もうとなんてしなかった。

彼らの気持ちはよくわかる。そしてそれは多分、世の中で一番自然な反応だ。
でも、それでは、いつまでたっても逃げてばかりじゃ、この先人生、何も進まない。

それをヨシオはわかっていた。

ここまで書くと喧嘩作品のように見えるかもしれないが、そうではない。
確かにたけしとヤスをぎゃふんと言わせるために空手の教えを請うたり、ごはんをいっぱい食べたりと努力するヨシオだったが、制作側の見せたい部分は他にあったのではないだろうか。

いけちゃんがいなくなっても

いけちゃんはいつもヨシオの後ろから彼を見て、成長具合を褒めたり、予言したり、ヨシオが男児から男子になる手助けをした。

それをヨシオは自分でしっかり考えて行動に移していく。

この物語はいけちゃんとヨシオの母親という二人の傍観者の目を通してヨシオの成長ぶりがセリフとして伝わるシステムをとっている。
特にいけちゃんに関してはほぼナレーションと言っても過言ではないのだが、それがヨシオと会話の体を成しているため、さほど気にならない。

いけちゃんがなぜそこにいるのか、いけちゃんは何者なのか、それはヨシオが解き明かすことができるものでもなく、いけちゃんは終盤に自ら明らかにする。

いじめっ子たちとの結末もベタではあるが非常に気持ちの良い終わり方であった。

小さい街であるがゆえに隣町との縄張り争いという話や、駆け落ちに失敗した晒され者、など田舎町の閉じた性格を映し出す描写もさすが。

ちなみに僕はずっと舞台が広島かと思っていたが、高知で全ロケと。
方言学には詳しいと思っておったが、まだまだじゃのう、ワシも。

マドンナ役の蓮佛美沙子は、僕が好きな俳優さんというのもあいまって可愛かった。

最後に大学生になったヨシオを池松壮亮が演じて終わるが、もっと大学生版も見たい!と思わせるほどヨシオの一夏の成長を伝えてくれた作品。

逆風勢力と戦い、仲間となり、10年近くが経ち、あんなことがあったなあと振り返る。人生ってそんなもん。
そんなもんを、わかりやすく描いてくれた。

結構感動します。

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