また、この記事内では憲剛さんや選手名を敬称略で表記します。
こんにちは。織田です。
皆さんは中村憲剛というサッカー選手を知っていますか?
Jリーグの川崎フロンターレで長年プレーし、2020年に引退した中村選手。
日本代表経験、ワールドカップ出場経験もあり、Jリーグを象徴する選手でした。愛称は「ケンゴ」。
このたび、川崎フロンターレに所属しております中村憲剛選手が、今季限りで現役を引退することとなりました。
誰よりもケンゴのことが大好きだった「あの方」の想いをここに…。#ケンゴありがとう #OnefourKengo #frontale pic.twitter.com/e84AK7SBDM
— 川崎フロンターレ (@frontale_staff) November 1, 2020
サッカーでは、移籍することなく一つのクラブに在籍して象徴となった選手をバンディエラだとかワンクラブマンと呼びますが、中村憲剛さんは間違いなく川崎フロンターレのバンディエラです。
そんなケンゴさんのドキュメンタリー映画『ONE FOUR KENGO THE MOVIE ~憲剛とフロンターレ 偶然を必然に変えた、18年の物語~』が2021年に完成。
同年に川崎市で公開されたのに続き、今年は全国公開となったので観てきました。
内容紹介
日本中が日韓ワールドカップに沸く2002年の夏、一人の無名の大学生が、観客も記者もほとんどないJ2のサッカークラブの練習に参加していた。そこから始まる18年間の物語。中村憲剛と川崎フロンターレは、何を信じて、何を目指して、これまで歩んで来たのか?
30名を超える関係者へのインタビュー、そして現役最後の2カ月間に密着した映像と共に紹介します。クラブ初の公式ドキュメンタリー映画です。
主な出演者
中村憲剛
【選手・監督】
小林悠
登里享平
谷口彰悟
大島僚太
脇坂泰斗
鬼木達
【ほか関係者】
伊藤宏樹
武田信平
庄子春男
天野春果
中西哲生
川崎フロンターレには錚々たる面々が在籍していますが、その中でインタビュー対象に選ばれたのは小林、登里、谷口、大島、脇坂の5選手。
5人すべてが新卒加入以来チームに在籍している生え抜きということで、“中村憲剛の次”なるバンディエラを意識したものかもしれませんね。
選手、コーチングスタッフ、元選手の他にも、フロンターレの会長を務めた武田氏や、ホームタウン・川崎市へチームを根付かせようと様々な仕掛けをしていく天野氏といったクラブ関係者もメインキャラクターとして出演しています。
主に川崎フロンターレの「理念」についての説明が多かったですね。
庄子氏は中村憲剛が大学4年時に練習参加した際、彼の素質を信じて獲得を進言した“発掘者”ともいえる存在です。
中村憲剛とフロンターレの18年
川崎フロンターレはJリーグの強豪です。
というか、ここ数年においてJリーグ最強のクラブです。
2017年のリーグ初優勝を皮切りに、ここ5年で4度の優勝。2022年の今シーズンは3連覇を目指して臨んでいます。
ただ、2017年の初優勝までは苦しく、悔しい記憶が立ちはだかってきました。
JリーグはトップコンペティションのJ1リーグを頂点に、J2、J3…とピラミッド型の構造になっています。
川崎フロンターレがJ1に初めて上がってきたのはJリーグが発足して8年目となる2000年。しかしそのシーズンは最下位に終わり、1年でJ2リーグへ降格しました。
2001年からはJ2の舞台で、J1昇格を目指して戦っていました。
中村憲剛が中央大学から加入したのは2003年シーズンのことでした。
中村憲剛は加入1年目からトップ下で試合に絡み、ルーキーイヤーながら4得点。その年のJ1昇格は惜しくも逃したものの、アルビレックス新潟からマルクスが加入した翌2004年はボランチのレギュラーをつかみ、J1昇格、J2優勝に貢献します。
この年のフロンターレは44試合で104得点。獲得勝ち点は105。圧倒的な攻撃力で昇格を果たし、以後はJ1から降格することなく戦っています。
2003年に加入し、2020年までフロンターレ一筋でプレーしたケンゴの年度別成績と、同期間のフロンターレの成績を見てみましょう。
惜敗の歴史、ケンゴの歴史
年 | 中村憲剛の成績 | 川崎Fの成績 |
03 | J2 34試合4得点 天皇杯 3試合2得点 |
J2リーグ 3位 天皇杯 4回戦 |
04 | J2 41試合5得点 天皇杯 3試合0得点 |
J2リーグ 優勝 天皇杯 5回戦 |
05 | J1 29試合2得点 カップ 6試合2得点 天皇杯 3試合1得点 |
J1リーグ 8位 カップ GL敗退 天皇杯 ベスト8 |
06 | J1 34試合10得点 カップ 10試合3得点 天皇杯 2試合1得点 |
J1リーグ 2位 カップ ベスト4 天皇杯 5回戦 |
07 | J1 30試合4得点 カップ 3試合0得点 天皇杯 4試合0得点 ACL 7試合3得点 |
J1リーグ 5位 カップ 準優勝 天皇杯 ベスト4 ACL ベスト8 |
08 | J1 34試合4得点 カップ 1試合0得点 天皇杯 1試合0得点 |
J1リーグ 2位 カップ GL敗退 天皇杯 5回戦 |
09 | J1 32試合4得点 カップ 3試合0得点 天皇杯 1試合0得点 ACL 9試合3得点 |
J1リーグ 2位 カップ 準優勝 天皇杯 ベスト8 ACL ベスト8 |
10 | J1 27試合4得点 カップ 3試合1得点 天皇杯 1試合0得点 ACL 3試合0得点 |
J1リーグ 5位 カップ ベスト4 天皇杯 4回戦 ACL GL敗退 |
11 | J1 30試合4得点 カップ 2試合0得点 天皇杯 1試合0得点 |
J1リーグ 11位 カップ 2回戦 天皇杯 4回戦 |
12 | J1 34試合5得点 カップ 2試合0得点 天皇杯 1試合0得点 |
J1リーグ 8位 カップ GL敗退 天皇杯 4回戦 |
13 | J1 29試合7得点 カップ 5試合2得点 天皇杯 2試合0得点 |
J1リーグ 3位 カップ ベスト4 天皇杯 ベスト8 |
14 | J1 30試合3得点 カップ 2試合0得点 天皇杯 0試合0得点 ACL 8試合2得点 |
J1リーグ 6位 カップ ベスト4 天皇杯 3回戦 ACL ベスト16 |
15 | J1 33試合2得点 カップ 6試合0得点 天皇杯 3試合0得点 |
J1リーグ 6位 カップ GL敗退 天皇杯 4回戦 |
16 | J1 31試合9得点 カップ 2試合0得点 天皇杯 4試合0得点 |
J1リーグ 3位※ カップ GL敗退 天皇杯 準優勝 |
17 | J1 32試合6得点 カップ 4試合0得点 天皇杯 2試合0得点 ACL 9試合1得点 |
J1リーグ 優勝 カップ 準優勝 天皇杯 ベスト8 ACL ベスト8 |
18 | J1 33試合6得点 カップ 2試合0得点 天皇杯 2試合0得点 ACL 2試合0得点 |
J1リーグ 優勝 カップ ベスト8 天皇杯 ベスト8 ACL GL敗退 |
19 | J1 20試合2得点 カップ 2試合0得点 天皇杯 2試合0得点 ACL 3試合0得点 |
J1リーグ 4位 カップ 優勝 天皇杯 4回戦 ACL GL敗退 |
20 | J1 13試合2得点 カップ 0試合0得点 天皇杯 1試合0得点 |
J1リーグ 優勝 カップ ベスト4 天皇杯 優勝 |
※「カップ」はヤマザキナビスコカップ / YBCルヴァンカップ
※2016年は年間勝ち点では2位。プレーオフ形式の「チャンピオンシップ」の結果により3位という表現になります。
フロンターレは再びJ1に上がった05年以降、残留争いに巻き込まれたことはありません。
定着する一方で上位にも進出しましたが、2017年のリーグ優勝まで実に7回の2位(もしくは準優勝)を経験しています。実質年間2位だった2016年を含めると8回と言ってもいいかもしれません。
「躍進」の印象が強かった2006年、07年を経て、川崎フロンターレはJ1のタイトル争いに絡む「強い」チームへと位置付けを変えていきました。けれど、あと少しでタイトルが取れない。特に一時は首位に立ちながらリーグ戦で2位に終わり、その1ヶ月前にナビスコカップ(当時)でも準優勝に終わった2009年はかなりダメージの大きなシーズンとなりました。
この頃には川崎フロンターレを「シルバーコレクター」と表現する言葉はかなり一般的になり、「無冠ターレ」とか「タイトル童貞」などと揶揄されることもありました。
2009年には某議員が事業仕分けで「2位じゃダメなんでしょうか?」と発言したことが話題になりましたが、2位じゃダメなんですよ。某氏への反論はフロンターレに関わる人が声を大にして言いたかったんじゃないでしょうか。
準優勝だね、快挙だねと言われるフェーズはもうとっくに過ぎ去っていました。
タイトルにあと一歩手が届かない悔しさを、ケンゴはクラブとともにずっと体験してきました。中心選手であり続けたがゆえに、惜敗の瞬間をいつも目にしてきました。
極論すると、川崎フロンターレの歴史は惜敗続きの歴史で、それはすなわち中村憲剛の歴史でもあるわけです。
だから2017年、フロンターレが最終節で逆転優勝を成し遂げ、ケンゴがピッチでうずくまって泣いていたのを見た時は、素直におめでとうの言葉しか出てこなかったんですね。他サポながらもらい泣きしてしまいました。
無冠を卒業したフロンターレは堰を切ったように以後、毎年タイトルを獲得していきます。過去3度2位に終わったルヴァンカップも取りました。ケンゴが引退発表した後に迎えた天皇杯も取りました。
優勝から見放され続けていた中村憲剛とフロンターレは、2020シーズン終了時点で国内タイトル全てを獲得したことになります。
今の川崎を無冠ターレなんて言う人がいたら、貴方はいつの時代の方ですか?っていう話ですよね。それくらいに川崎フロンターレは強く、優勝を目指す他のチームにとっての目標・追いかける対象となっています。
中村憲剛の凄さ
上で紹介した年度別成績の通り、中村憲剛は常にフロンターレの中心選手として活躍してきました。
MFの彼がラストパスを送るフィニッシャーはジュニーニョや鄭大世、我那覇和樹、大久保嘉人、小林悠、レアンドロ・ダミアンと時代によって変化し、中盤を組む相棒も谷口博之や大島僚太、家長昭博をはじめ変化しました。
登里享平やエウシーニョ、アウグスト、長橋康弘、森勇介、村上和弘といったサイドの選手もそうですし、GKは相澤貴志、川島永嗣、杉山力裕、チョン・ソンリョンとさまざまな選手が守護神の座を射止めていきました。
ケンゴが慕い、映画内でも大きな役割を担った伊藤宏樹が長く君臨したセンターバックも、伊藤、箕輪、寺田で構成された川崎山脈時代から変化を辿りました。井川祐輔、ジェシ、實藤友紀といった時代を経て、今では谷口彰悟を中心に堅い牙城を築いています。
そんな風にスカッドが変わっていく中でも、中村憲剛は常に中心としてあり続けました。
川崎フロンターレは中村憲剛のワンマンチームでは決してないですし、中村憲剛に依存した弱小チームでもありません。むしろケンゴは歯車といってもいいかもしれません。にもかかわらず、ずっと第一線で背番号14は輝きを放ってきました。
これは本当に凄いことです。
「川崎フロンターレ」イコール「中村憲剛」です。
浦和サポの私でも断言できます。
クラブ一筋で引退したバンディエラと呼ばれる選手は中村憲剛の他にも多くいますが、クラブ=その選手となるまでに存在感を放ち続けた選手となると数えるほどしかいません。
レッズで言えば福田正博、エスパルスにおける澤登正朗、セレッソの森島寛晃、現役で言うとサンフレッチェの青山敏弘やアビスパの城後寿などでしょうか。
ガンバにとっての宇佐美貴史、マリノスの井原正巳、ジュビロの中山雅史、アントラーズの小笠原満男、ベガルタの梁勇基といった選手もクラブの象徴ではありますが、彼らは移籍を経験しています。
チームにスイッチを入れる
どうして中村憲剛は川崎フロンターレの軸として出場し続けたのか。
他サポ目線で恐縮ですが、ケンゴのプレーからはチームを動かす意思・意図がはっきりとわかります。
ホットラインを築いたジュニーニョが「前を向けるボランチやトップ下が僕には必要なんだ」(中村憲剛のこと)と言っていたように、ゼロから1にチャンスを創出するラストパスはもちろん、そのラストパスへつながる攻撃のスイッチを入れる“ゼロの前”にあたる起点のパスも中村憲剛は常に狙っているように見えました。彼にボールが渡ると守備者はまず“スイッチ”が入ることを警戒しました。
逆にここは急ぐ必要がないと思えばスピードダウンもさせますし、ケンゴのパスには必ず意味とメッセージがこもっていました。不利な状況にある味方へ無理して出したりすることは稀です。あくまで印象ですが。
これはパスだけじゃなくてプレスに行く際も同様で、ケンゴの追い方にはその後どういうプレーを誘発するのか、どのように味方が動くべきなのかという先々への意図が感じられます。
その意図を味方が感じられなければ何でと怒っていたこともありました。
ケンゴの入れていたスイッチは、今ではフロンターレのいろんな選手が入れることができます。どこからでもゼロ→イチを創出してきます。行くべきところと行く必要のないところが共有されています。だから強いんだと思いますし、中村憲剛が長年腐心してきた考え方が根付いているんだなと思わされます。
率先して営業活動
ワンクラブマン、バンディエラとして君臨し続けた中村憲剛ですが、彼の凄さはピッチ内にとどまりません。
映画では川崎に根付くために行なったフロンターレの様々な施策に、率先してケンゴが取り組む姿が描かれています。
「他のチームじゃこんなことしないと思う」と話すケンゴ。確かにフロンターレだけだと思います。
フロンターレが積極的に地域と関わっていくのは、前提としてヴェルディやプロ野球のロッテなどが川崎を離れ、“スポーツ不毛の地”になっていた歴史があるわけですが、地域への営業活動、スポンサーへの企画など「ここまでやる必要ある?」っていうくらいに、あれやこれやと手を尽くします。
そしてその活動の数々に、中心選手の中村憲剛が積極的に関わっていきます。
語弊があるかもしれませんが、フロンターレの地域浸透にマスコットとして関わっていきます。着ぐるみも被り物もやります。
話には聞いていた中で、ここまでやらされるのか、ここまでやるのか、というのはとても感じました。
映画内で、こういう地域貢献活動は人気選手がやらないと意味がないっていう表現があったと思います。
フロンターレやJリーグを見ている人からすれば、中村憲剛は随分前からフロンターレの象徴であるわけですが、サッカーを知らない人からすれば一人のサッカー選手に過ぎません。
個人的な解釈になりますが、川崎のスター選手であるケンゴが直接地域へ出向くということでこんな効果も得られているのではないかなと思いました。
↓
興味を持って試合を見にいく
↓
試合で中村憲剛が活躍する
↓
あの人、凄い選手なんだ!と自分の関わったことが嬉しくなる
↓
フロンターレへのロイヤリティ、親しみが生まれる
実際に試合を見に来た人への仕掛けも川崎は積極的にやっており、選手がドールのバナナを頭に被ったり、ブーイングをしないサポーティングも、川崎フロンターレはこういうクラブなんですよって表現する一環だと思います。
スタジアムの中は戦う場だと考えている私個人のアプローチとは正直違うものの、手法として正解だと思います。
そして恐らくフロンターレのやり方は、地域密着を掲げるJリーグやWEリーグのクラブにとっての成功例なんじゃないでしょうか。
ジュニーニョ、鄭大世、黒津勝、谷口博之といった面々が活躍していた頃(00年代後半でしょうか)、縁あってよく等々力で試合を観ていましたが、当時はまだ空席が結構ありました。攻撃に特化した魅力的なサッカーをしていましたし、等々力劇場なんて言葉もこの頃から言われていたにも関わらず、フロンターレは「人気クラブ」ではありませんでした。
けれどフロンターレはJリーグで一番チケットを取るのが難しい人気クラブへと成長しました。
ケンゴが率先して地域との触れ合いを行うことで、それを見た後輩たちも自分が何をすべきかということが明確になります。
このへんは谷口彰悟や小林悠のインタビューからもうかがえました。
彼らもまた、ホームタウンで認知度と愛着を日々獲得しているはずです。
川崎フロンターレの凄さ
最後にフロンターレの凄さという部分への感想です。
この映画が描いていた通り、中村憲剛はフロンターレの象徴であり、唯一無二の存在でした。
クラブを背負い続けてきました。
映画内で天野氏が話していたように、ピッチ外でもマスコット・広報部長のような役割を演じながら、それでいてピッチ内ではそれ以上に結果を出し続けてきました。
その彼が引退して不在となってもなお、川崎フロンターレは勝ち続けています。
三笘薫や旗手怜央、田中碧などはその名声をさらに高め、海外へ戦いの場を移しています。
川崎フロンターレが凄いのはケンゴがいなくなってもなお強く、「ケンゴがいれば…」と決してならないところです。
彼自身、また周囲が語るように、中村憲剛は強いチームのスタメンを十分争えるレベルで引退を決意しました。
2019年に大怪我を負ってしまったとはいえ、「まだやれる」なんて言葉では片付けられないほど、彼は主力のレベルでした。
そんなレジェンドが引退して抜けたチームは、往々にして「彼がまだいれば…」と残像を追うことがあります。特に壁にぶち当たった時は。
けれどフロンターレはその穴を感じさせることがないほどに強いですし、ケンゴだけじゃなくて守田や田中や三笘や旗手が抜けてもなお、彼らの流出を嘆いたりしません。当事者は移籍したダメージを感じる場面もあるんだとは思いますが、他サポの私から見ると無いように感じます。エウシーニョが移籍した時くらいでしたかね。穴を感じたのは。(その後に山根が来て補って余りある存在になりましたが。笑)
付け加えになりますが、コロナ禍で声が出せない昨今です。
クラブの歴史となったほどの選手に対し、「オーナカムラー、ケンゴーナーカムラー」のチャント(応援歌)を歌うことも、ありがとうと叫ぶことも許されない時代であることをとても悔しく、歯痒く思います。
これは憲剛さんだけでなく、昨年引退した浦和の阿部勇樹選手やセレッソの大久保嘉人選手など、現役を退いた他の選手も同様です。
憲剛さんの映画『ONE FOUR KENGO』は他サポの私が観てもとても勉強になる映画でした。ソフト化したらぜひ観てほしい作品ですね。
当ブログでは他にもサッカーを題材にした映画を紹介しています。興味がありましたらご覧ください。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。