今回は2023年公開の映画『PERFECT DAYS』についての感想です。
ヴィム・ヴェンダース監督、主演は役所広司さん。都内でトイレの清掃員として働く男性・平山の“日々”を描いた作品です。
タイトル通り、描かれるのは役所さん演じる平山の“日々”。繰り返される彼の美しい生活はPERFECT DAYSという言葉が持つ意味合いを確かに感じさせてくれます。
“美しい”には正直言って美化された部分も多いとは思いましたが、素敵な映画でした。
- 平山の整った生活
- 美化と感じた部分
- 東京と「常連」
本記事ではこの三つについて感想を書いていきます。
作品のネタバレや展開に触れていきますので、未見の方はご注意ください。
あらすじ紹介
東京・渋谷でトイレの清掃員として働く平山(役所広司)は、変化に乏しいながらも充実した日々を送っていた。同じような日々を繰り返すだけのように見えるものの、彼にとっては毎日が新鮮で小さな喜びに満ちている。古本の文庫を読むことと、フィルムカメラで木々を撮影するのが趣味の平山は、いつも小さなカメラを持ち歩いていた。
スタッフ、キャスト
監督 | ヴィム・ヴェンダース |
脚本 | ヴィム・ヴェンダース 高崎卓馬 |
平山 | 役所広司 |
タカシ | 柄本時生 |
ニコ | 中野有紗 |
アヤ | アオイヤマダ |
ママ | 石川さゆり |
友山 | 三浦友和 |
居酒屋の店主 | 甲本雅裕 |
平山の“完璧”な生活
以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
「perfect」という単語からは、どのような意味を連想するでしょうか。
「完璧な」、「理想的な」、「ふさわしい」、「最適な」──ポジティブな意味であることはもちろん、「nice」とか「beautiful」に比べるとより“100%”に近い印象を受けるのではないでしょうか。非の打ちどころがない、という言い方もできるかもしれません。
本作品における平山(役所広司)の生活は、まさに「PERFECT」な日々に映りました。
まずは「完璧」という文脈から見ていきます。
規則正しさと「完璧」
スカイツリー近辺であろう下町のアパートで暮らす平山。彼の生活リズムはとても規則正しく、整っていました。
- 近所の住民が掃き掃除をする音で起床
- 身支度を済ませると、携帯や鍵やカメラ、小銭など彼の持ち物が整然と並ぶ玄関へ
- アパート前の駐車場にある自動販売機(たぶん100円)で缶コーヒーを買い、軽自動車へ
- 音楽を流しながら車で渋谷区の公園へ出勤
- 代々木八幡宮の境内で昼食。木漏れ日を写真に記録
- 勤務後は一旦帰宅。銭湯へ
- 浅草地下街の飲み屋で一杯だけ晩酌
- 帰宅。読書。就寝
仕事が休みの日は、部屋の掃除、コインランドリーでまとまった量の衣服を洗濯し、カメラ店でフィルムの現像を頼み、古本屋でお気に入りの一冊に出会い、小料理屋(スナック?)で夕食を摂ります。
行動がパターン化されていることで余計な選択肢に気を揉むことは少ないはずですし、その行動内容は彼にとって好きだったり必要なものでしょうから、心身を“整えて”生活することができます。
また、自分の生活にかかる時間や費用といったコストも把握しやすくなります。
慎ましさではなく、豊かさ
そんな平山さん。彼の生活は必ずしも羨ましがられるものではないようで、ニコの母親でもある平山の妹(麻生祐未)は住み家を見ると眉をひそめていました。
築古の木造アパートへの印象がそうさせるんだと思うんですが、浅草近くで敷地内に駐車場付き、しかも一階と二階のあるメゾネットタイプですからあの物件は決して安くないと思うんですよね。笑
平山の生活を表すとすれば──彼の妹からすると「質素」とか「慎ましい」という印象なのかもしれませんが──「豊か」という言葉でしょうか。
ただその豊かな生活っていうのは、さまざまなものの切り捨てがあって初めてできると思うんですよね。
たとえば平山はネットをしません。二つ折りの携帯電話は業務連絡に使うのみです。(銭湯で公衆電話を使っていた理由は謎ですw)
彼の部屋にはテレビもありません。彼がテレビを見るのは銭湯の相撲中継や、居酒屋でついているジャイアンツ戦の中継くらい。布団は起床後即座に畳まれます。
一方で部屋の壁際には本棚からあふれんばかりの本の数々、そしてラジカセとカセットテープが鎮座しており、別室には彼が育てている植物の苗があります。繰り返しますが、好きなもの、必要なものだけが彼と同居しています。
携帯を部屋に持ち込まなければ、部屋でできることは限られます。家で食事をすることがなければ、余計なゴミが出る事もありません。
清潔感と上質さ
“必要でないものを切る”というのは、実は難しいことです。“使うかもしれない”“他の人は使っている”…私の祖母は典型的な“捨てられない”人でしたし、それを鼻で笑っていた母も仕事を辞めてからは家のものが格段に増えるようになってしまいました。
その“切り捨て”に成功している平山の暮らしはシンプル(決してミニマムではない)でありながら豊かに映りました。そこにはもう一つ、清潔感という要素があります。
部屋に物は少ないものの、読みかけの本や飲み物がの入ったコップが転がっていたらどうでしょうか。
髭を剃る洗面台の水回りが汚かったらどうでしょうか。
散らかってはいなくとも、このように“綺麗ではない”要素が介在してくると途端に、その暮らしぶりから「丁寧な」という形容詞は失われてしまいます。
清掃員として働いている彼に言うこと自体失礼なのかもしれませんが、平山の部屋の場合はここの清潔感が抜群で、彼の生活の上質さを下支えしていました。
それは美化か現実か
続いて、この映画で気になった美化されている部分についての感想を書いていきます。「美化されている」というのはもちろん私の主観です。
渋谷のおしゃれトイレ
まずは平山(役所広司)の仕事場となるトイレについてです。
「The Tokyo Toilet」と印字されたユニフォームを着た平山が向かうトイレ。それは彼の住む東東京ではなく、渋谷区にあります。下記のあらすじ冒頭でもわざわざ「渋谷」と明示しています。
東京・渋谷でトイレの清掃員として働く平山(役所広司)は、変化に乏しいながらも充実した日々を送っていた。
この渋谷のトイレというのが揃いも揃ってあまりにもおしゃれな、独創的なデザインのトイレなんですよね。そしてこのトイレたちは実際に渋谷区内に存在します。
「THE TOKYO TOILET」は作内限定のものではなく、実在のプロジェクトです。名だたるクリエイターたちが参画し、渋谷区内に17のデザイン性あふれる公共トイレを完成させたとのこと。映画のエンドロールには「THE TOKYO TOILET」と渋谷区がクレジットされていました。
なんか凄いトイレばっかり出てくるけど東京のトイレってみんなああなの?となりますが、違います。あれは特殊です。
しかし作品内では一貫しておしゃれトイレだけが出てきて、渋谷区にあることも明示されます。平山は東部エリアから首都高速道路を使って通勤しており、渋谷区とスカイツリー近辺の下町というロケーションは絶対に譲らんぞという気概を感じます。(首都高の通行料は交通費として会社負担なのでしょうか…?)
“普通のトイレ”が存在しないかのようなこの露出のさせ方には正直引いてしまいました。あとは設置されて間もないからかもしれませんけど、トイレの構内も屋外としては想像しにくいレベルで汚れが見えません。
綺麗なものだけ掬い取ったようにも邪推してしまいます。
レトロ志向との合致
もう一つ作為的な美化に見えたのが、作品内に出てくるものの選び方。平山が選び抜いた彼の“好き”が、レトロを再評価する時流にはまり“過ぎて”いるようにも感じました。
下北沢で高価買取をオファーされたカセットテープはもちろん、銭湯、コインランドリー、フィルムカメラ──。町中華や純喫茶こそ出てきませんが、彼の生活を支える要素はここ10年ほどのレトロ志向に合致するものばかりです。
デジカメは2000年代初頭から一般化していましたし、音楽メディアとしてはCDやMDもありました。
平山はそれらを通ってきた上でフィルムカメラとカセットテープを“あえて”所有することにしたのか、それともデジタルを通らずにここまで来たのか。
Spotifyを知らなかった様子を見るに後者と信じたいですが、彼の生き方や好きなものがここまでどんぴしゃにハマってくるとどうしても感じてしまうのがアナログ志向を追い風にした作為性。
渋谷区の美しいトイレ、味わい深い下町風情、昭和レトロ…確かに美しいのですが、洗練され過ぎているように映りました。
東京生活と「常連」
とはいえ、です。
文句をたらたら連ねましたが、やはり『PERFECT DAYS』は素晴らしい映画だと思います。
一つ目の理由として挙げたいのが、この作品が大事にしている“今この瞬間は二度とない”という部分。
平山(役所広司)の生活は規則的で変わり映えしないように見えながらも、実は全部違って、今はこの一瞬しかありません。(タカシがばっくれた時のように)その規則性すら崩されることもあるし、崩れたからこそ見えてくる新しい世界もあるわけです。
平山が写真に収め続ける「木漏れ日」を用いて、最後に“変わらないものなんてない”ということを提示したのも素敵。
彼の規則的な行動パターンを映し続けた意味がここにあったと思えるような、気持ちの良いラストです。あの終わり方で満足度が10点中9点くらいに上がりました。
そしてこの映画を好きなもう一つの理由が、平山が通う飲み屋の描写です。
行きつけの居酒屋で晩酌をする平山の姿には、東京ならではの良い距離感が落とし込まれていました。
お疲れ様とおやすみ
毎晩ジャイアンツの野球中継を流している浅草地下街の居酒屋。
平山の一日にはそこでの晩酌が習慣として組み込まれており、彼は仕事後の一杯をやりに自転車を走らせます。テーブルにお代を置いていく場面があり、1000円ちょいと言った感じでしょうか。
で、店がそんな混んでいなかろうが、混んでいようが、店主(甲本雅裕)は常連の平山が来店すると「お疲れ様!」と言っていつもの酒を出し、帰る時には「おやすみ!」を言うんですね。必ずです。
平山は無口なので恥ずかしそうに微笑むくらいのレスポンスにとどまるんですが、挨拶をする場面がそう多くない彼の生活において、店主とのコミュニケーションは貴重なもの。また、自分が大切な常連として扱われていることも明らかです。
平山の“完璧な日々”にとってこの店主は間違いなく大事な登場人物になっていますし、きっとその逆も然りでしょう。
ちなみに代々木八幡宮の境内で平山が横の女性に会釈をするシーンは、このおじさん不審者扱いされやしないかと心配しました。が、彼女が毎日のように顔をあわせる「常連」なのであれば、ああいうコミュニケーションもあるのでしょう。
この映画の平山が汚らわしいおっさんと見なされることはほとんどありません(序盤の子連れのお母さんのシーンを除く)。
都会の距離感
さて、先述の居酒屋における平山の「常連」としての立ち位置。
これは人の行き交う都心ならではのもので、東京の良いところだと思うんですよね。
客側からすると自分は「常連」であり、店側からもそう認識されているものの、「常連」の近すぎる距離感を強要されません。
これがたとえば駅からもっと離れた飲み屋だったら、客層が限定されることで「常連」はもっと干渉されるはずです。(もちろん距離感の接近に伴うメリットもあります)
その干渉度を薄めているのは、やはり店の前を通り過ぎる無数の人たちでしょう。喧騒とまではいかないまでも、都会の雑踏は適度に自分を“その他大勢”へと飲み込み、突き放していきます。
さらに、平山が通う写真店の店主との対話も印象的でした。おそらく「常連」であるはずですが、二人は雑談などをすることもなく、フィルムと現像した写真の受け渡しをするのみ。
これもまた「近すぎない」距離感の一例でした。
東京という街は、今でも個人商店が残っているのもその特徴のひとつです。古書店やコインランドリー、カメラ店、銭湯、休日に訪れる小料理屋(スナック)…。平山が通い、彼にとって大切な“場所”となっているお店の数々は、東京ならではの風景だと思います。
「こんなふうに 生きていけたなら」とは、『PERFECT DAYS』のポスターに添えられたキャッチフレーズ。
前述の通り「こんなふう」は決して慎ましい生活ではなくて水準の高いものだと思いますし、美しすぎる彼の日々には作為を感じてしまいます。また、強がりみたいになりますが、私自身はこのような生活ができたらいいなとは思いません。笑
それでも、たとえ東京の綺麗なところだけ抽出したように見えたとしても、「こんなふう」に生きることができない自分からしてみると、平山さんの暮らしは素敵でした。幸せそうな表情が眩しく映りました。そして、彼の幸福を一緒につくっていく「東京」の懐の広さを感じました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。