映画『横道世之介』〜吉高嬢の「ごきげんよう」〜

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13年の映画『横道世之介』を鑑賞しました。

本当は上映中に観たかったんだけど叶わず、CATVにて。

原作は吉田修一の小説、主演に高良健吾、沖田修一監督。

小説は未読なのだけど、吉田修一にありがちな多角的な人物の目を通しての主人公の描写が光る作品だった。
もちろん主人公は高良健吾演じる横道世之介であり、視点も彼の目から見た形。

今の言葉で言えば少し「うざい」くらいにヘラヘラと図々しく、また一方で憎めない世之介。1987年、長崎から上京し、法政大学に入学してからの1年余りを描く。
そして、彼に巻き込まれていく何人かの人間たち。彼らはその15年ほど後の現代において、世之介を追憶する。



悪役がいない潔さ

一見すると軽薄で見栄っ張りで空気の読めない世之介だが、彼に巻き込まれた、あるいは吸い寄せられた人間は皆、笑いながら彼のことを回想する。

大学入学時に知り合った倉持(池松壮亮)や阿久津唯(朝倉あき)、謎の年上女性(伊藤歩)に、講義室で半ば強制的に世之介に友達にさせられた加藤(綾野剛)、そして驚異の社長令嬢・祥子(吉高由里子)。

この作品では基本的に激昂したり相手を罵ったり、相手の邪魔をする人間がいない。
それは環境においても同様で、長い尺(2時間30分超)でありながら悲劇的な要素で物語にアクセントを付けようということがない。
まぁ厳密に言えば悲劇的な要素もあるにはあるのだけど、悲劇として描かれていない。

これはなかなか凄いことだと思う。
上京して一年を迎えた世之介は、アパートの同階の女性に「隙がなくなった」と言われ「成長したってことですね」と頭をかくが、多くの作品ではその成長曲線をドラスティックに見せるために刺激的な要素を盛り込むはずである。

だが、『横道世之介』においては緩やかに世之介の学生生活が進み、しかも冗長にはあまり感じさせない。

綾野剛がすごい!

高良健吾、池松壮亮に関してはこれといったはまり役でも目新しい役でもない代わりにしっかりした存在感は約束されていたので期待通り。

で、加藤を演じた綾野剛がすごい。スカした坊っちゃんかと思いきや意外なツンデレ。大学1年生という青さを考えれば完璧だったのでは。
彼のパートをもっと長く見たいとマジで思った。

そして吉高由里子。前述したように昭和末期と00年代初頭の二つの時間軸で描かれる本作だが、「ごきげんよう」とお車から現れる彼女はお嬢様だからこその無垢さなのか、昭和末期の装いから超越していた。

高良健吾も綾野剛もシャツインスタイルの時代を感じさせる風貌だったが、彼女はどこまでいっても吉高由里子だった。
吉高由里子はお嬢様言葉の一方でよく笑った。それがイノセントなイメージの植え付けに繋がっただろうし、そこから意外と…というギャップも。『婚前特急』『ロボジー』でも高評価していたので僕は彼女の演技が好きということでいいでしょう。

女子の呼び方に漂う大学生の青春

最後に、気に入ったところを少し。

伏線というほどまでではないかもしれないけれど、時間軸の違いによる先出し結果の理由をしっかりと回収しているのが優しい作品だと思った。唯一解消していない恋の行方は委ねるというのがまた潔い。

時間軸の違いと言えば、昭和シーンから現代シーンに移るスムーズさも好き。池松壮亮のガソリンスタンドのシーンや吉高由里子の新宿都庁前を走るシーンなんて最高でしょう。

あとは言葉遣い。法政の入学式で、倉持が「高校では女子をさん付けで呼んでいたが、大学ではあったその日から呼び捨てで呼ぶ!」と豪語。
大学デビュー。昔からこういうやついたんですな。

祥子が世之介を「いまから呼び捨てで呼ぶことにします」と言った後にもやっぱり世之介さん、祥子ちゃん呼びwこれも現実味があって面白かった。

少し世之介の描写が長い気もするものの、気持ちの良い作品でしたね。吉田修一流の長崎描写も。