02年公開の映画『害虫』を鑑賞。
塩田明彦監督、主演に宮崎あおい。
02年の時代背景
宮崎あおいが主演ということだけCATVのカタログで確認した上で、予備知識なしで観た。
02年当時、僕は中学生。
宮崎あおい演じる北サチ子、蒼井優演じる山岡夏子らは中学1年生として描かれている。
恐らく、特に二人の周りの生徒たちは、今の子たちからは幼く、ダサく見えると思う。この時代にはまだ携帯電話を持つことが当たり前ではなかった時代である。
厳密に言うとドコモのiモードが爆発的に普及した01年くらいからは特に女の子の所持率は高かったので、いささかアナログな印象もある。しかし、家の電話や公衆電話が作品にスパイスを振りかけていることは確かだと思う。
ストーリーを追おうとすると疲れる
他のレビューでも言われているが、導入部分から一貫して視聴者には不親切な類の映画である。
相当集中して観ないと北サチ子とは誰で、蒼井優は何者かがわからない。
サチ子が学校をサボっていると明示されるのは始まってから結構経ってからだし、夏子がサチ子家の外階段から降りて登校するシーンなどは、いよいよ夏子がその家に住んでいるのかというミスリードを僕は犯した。(実際には学校に登校せずにサボっているサチ子を訪ねたものである)
セリフが少ない上に、もちろんナレーションで補強という手法もとっていない。
ストーリーを追おうとすると疲労感に襲われる作品だと思う。
鬱屈か、反骨か、諦観か
この作品はある種『リリイ・シュシュのすべて』や同じく宮崎あおい主演の『初恋』に通じる部分がある。
それがどこなのかは僕は上手く説明できないのだけど、撮り方を含めて特に『リリイ・シュシュ』には似ている。
タイトルになっている害虫とは、第一義的にはあおいちゃんのことなんだろう。
けれど、彼女の周りに現れる危険な男たちも害虫であろうし、サチ子自身からすれば「周りはゴミばっかり」と活字で評したように彼女の母親(りょう)だったり、重たい干渉をしてくる夏子だったりするはずである。
サチ子が様々な家庭的問題を内包してドロップアウトしていく様は『初恋』に近いものがあるものの、そこに明確な理由がなく彷徨うところは『リリイ・シュシュ』の鬱屈に近いところがあると思う。
サチ子が男性と手紙をやりとりし、その文面が象徴的にスクリーンに映し出されるのも、『リリイ・シュシュ』のチャット画面を想起させる。
そこに踊る抽象的な語句も。
ちなみにサチ子の母役のりょうは、金髪もあいまって宝塚の男役さんのような美しい美人だった。これにはびっくり。
それにしても深い映画だった。
終わり方や前述の導入など、視聴者が置いてけぼりを食らった感は否めない。
だから嫌いという人もいるだろう。
自分たちでストーリーを紡いだ上で、さらに細かいシーンの意味について考える。
非常に脳を鍛えさせてもらえる作品だ。
映画を観てから色々なブログを巡り、自分で消化できなかった伏線をいくつか回収することができた。
それでもまだわからない部分はたくさんあるし、回収できた部分でも人によって受け取り方が全く違うので多義的な捉え方ができる作品だと思う。
他の方々の感想を読むと理論や想像の幅の広さ、目の付け所に感服するばかりだ。
蒼井優の笑顔の下には
最後にキャストについて。
宮崎あおいは絶対的な存在感。笑わないことで笑顔を貴重なものにできる。
蒼井優も適性だった。彼女の場合どうしても作り物っぽさが拭えない話し方になるのだが、学校生活で面倒見の良い優等生の薄い仮面を被ってるであろう夏子にはうってつけだった。
優等生が仮面なのか事実なのかはわからないが、宮崎あおいが「あらゆる悪徳こそが人間存在の本質」と語るように、サチ子にとっては彼女の善意は「この世で最も真実らしくないもの」なのだろう。
色々と自分で読んでいても難解な書き連ね記事になってしまった。
もう一度観て少しでも納得できる場所を増やしたい。