こんにちは。織田です。
住野よるの小説を原作とした『君の膵臓をたべたい』を観てきました。
脚本・吉田智子、監督・月川翔。
主演は浜辺美波とDISH//の北村匠海。
プロモーションの仕事で少しご縁があり、浜辺さん、北村くん、月川監督は実際に拝見しました。浜辺さん顔ちっさ!!
『キミスイ』のスタッフ、キャスト
監督:月川翔
原作:住野よる
脚本:吉田智子
山内桜良:浜辺美波
「僕」(高校時代):北村匠海
恭子(高校時代):大友花恋
ガム君:矢本悠馬
委員長:桜田通
栗山:森下大地
恭子(現在):北川景子
「僕」(現在):小栗旬
高校生時代の「僕」を北村匠海が、教師になった現在の「僕」を小栗旬が演じ、高校時代の桜良を浜辺美波が演じている。
ちなみに北村匠海は小栗旬監督の『シュアリー・サムデイ』で主演・小出恵介の子供時代を演じているなど縁がある。
あらすじ紹介
高校の同級生・山内桜良(浜辺美波)がひそかにつづる闘病日記「共病文庫」を偶然見つけた僕(北村匠海)は、彼女が膵臓(すいぞう)の病気で余命わずかなことを知り、一緒に過ごすようになる。彼女の言葉をきっかけに母校の教師となった僕(小栗旬)は、桜良が亡くなってから12年後、教え子と会話をしていた際に、桜良と過ごした数か月を思い出す。
鑑賞当時に比べ、その後にジワジワと良さが染み入ってきた映画でした。
人生ベスト10に個人的には入ります。それほど「好き」な映画です。
以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
映画のネタバレ感想
以下、作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。
どストレートな感動作
「キミはさ、本当に死ぬの?」
「死ぬよ。」
予告編では北村と浜辺のこんな会話が交わされる。
刺激的なタイトルの一方で、映画を観る人の一定層はこれが病気をテーマにした「残りの寿命の過ごし方」の作品であるということを知っていると思う。
クラスで1番の人気者・桜良とクラスで一番影が薄い「僕」。そんな2人がとある出来事から関わりを持ち、仲良しになっていく。
恋人でも友達でもなく、仲良しに。
彼女の秘密=膵臓の病気を知りながらも「僕」は桜良に淡々と接する。それはすなわち桜良に「日常」を与えることであり、彼女の病気を知る人間では他に誰もできないことだった。
また膵臓の病気は普段の生活において桜良を蝕む類のものではなかった。だから「僕」以外は学校の誰も彼女の病に気づくことがなかった。
桜良はあくまで「健康優良児」であり、クラスの中心に位置する女子生徒だった。
桜良は「僕」に興味を持ち、「僕」に関わっていく。
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思春期ならではの気恥ずかしさと建前と。
無邪気な言動の裏に隠された恐怖と混乱と。
残された12年後の「僕」の告白と。
男女の「気になる」や「仲良くなりたい」は単純にイコール恋心ではない。仲良くなりたいから絡むんだ。
二つの時間軸を図書室という空間を使い、安易に恋心に飛びつくことなく日常感を描き切った直球の感動作だと思う。
ど直球過ぎて驚きや劇的な展開には欠けるけれど。
僕とキミ。私とキミ。
役者では北村匠海が抜群に良かった。
彼は目を見て人と話さない。自分が内側に向いているから。
彼は人を「キミ」と呼ぶ。
誰かを特別な存在にしたくないから。特別な存在にして傷つくことが怖いから。
そんな「僕」の内面を淡々とした物言い、時に見せる感情的な表情に込めた北村の演技は素晴らしかった。
時間を追うごとに少しずつ相手の目を見て話せるようになっていくところも見逃せない。
また、ヒルトンホテルで彼の口走る「潔白」というワードはこの作品で数少ない笑えるポイントだと思う。
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北村の「僕」に対して、観ている僕はとても感情移入ができた。
多分彼は本当に桜良に対して下心とかがなかったんだと思う。
最初は静かな日常への闖入者として彼女を捉え、ペースに合わせて仲良くなるにつれてその闖入者は理解者となり、大切な存在へとなっていった。
素直に自分の思いを口にしたり行動に移せるようになっていった。
だから、「僕」が言った「楽しかった」はとても心に響いたし、もちろん桜良も嬉しかったはずだ。
桜良も真似をして「僕」のことを「キミ」と呼ぶ。
「キミ」という呼称は文法的、詩的である一方で、余計な感情の排除を意味する便利な言葉。
映画の中では当人の名前を隠すという作用も働く。「僕」の名字は「シガ」であるが、校内でそう呼んだのはガムを持ち歩いている「ガム君」(矢本悠馬)が初めてだった。
(彼がしきりに勧めるガムを初めて「僕」が食べたのもこの映画の見逃せない感動シーン!)
キミと僕。キミと私。
シンプルな会話の距離感が2人の青さと幼さと優しさをダイレクトに僕らに伝えてくれた。
そしてエンディングはMr.Childrenの「himawari」。
言うまでもなくミスチルは「キミ」の有名な使い手である。
最後まで言わなかった言葉
冒頭で言ったように、「僕」と桜良の関係は恋人でも友達でもなく仲良しである。
これは余命のはっきりしている桜良に対して「僕」が自らに課した割り切り方の一つであり、「僕」にとっての「友達」という言葉は最後に意外な人に向けられる。
その伏線もまた青くて微笑ましい。
まだこの映画を観ていない人に向けて書くと、僕はこの記事内で一人の女子生徒について触れていない。
そのキーパーソンは「キミと僕/私」のドライな関係に比べてとっても依存性の高い関係を求めるキャラクターで、それがゆえに「友達」「親友」「恋人」といったワードが作品内でより強いメッセージを持つようになったと思う。
「僕」はその人物に向かって「キミは本当に彼女(桜良)のことが好きなんだね」と言う。
「僕」と桜良が「友達」にならなかったのは、また決して「好きだ」という言葉を発しなかったのは彼女の存在が大きかったんじゃないかな。
直球の感動作と評した通り、僕は泣くべきところで泣いた。
そのシーンはあくまでスタンダードにストーリーに載せられたものだったけど、北村匠海の発した一つの台詞、「お門違いだとは…」で涙の鎖がちぎれていった。
細かな演出が心地よい
死期を覚悟してもなお日常を過ごそうとする桜良が見つけた大切な人。
その「僕」と織り成す、短く太く濃い記憶。
ただの「死ぬまでにやりたいこと」ではなくて、そこには「キミをもっと知りたい」が存在する。真実と挑戦ゲームのように。
「僕」と「ガム君」の関係性の描写が少し弱かったのと、予定調和のストーリーはややインパクトに欠けたかもしれない(ただこれは仕方ないし、これで良かったと思う)。
だけど、繰り返すようにこれはまぎれもない感動作。
小栗旬が演じる「12年後の僕」の描写を最低限に抑えて浜辺と北村にフォーカスしたのも良かった。
僕は原作を読んでいないけど、映画に駆け足感がまるでない。
他にもささいな演出の回収が。
冒頭の「12年後」の教室で栗山くんがちょっかいを出されて本を落としたのはなぜなのか。
なぜあの日、桜良は「僕」に「図書館に寄る」とメールで言ったのか。
なぜ度々、通学路の桜を映すのか。
なぜ「僕」の名前は出てこないのか。
個人的には「12年前」の演出でガラケーのメール本文の最後に署名を入れていないのも気に入った。
よく演出でありがちだけど、メールの最後に自分の名前を入れる高校生なんていなかった。12年前には。
桜良の「やっほー」で始まるメールも懐かしい。あれでメール始めるやつ、確かにいました。
旅行中のシーンもデジカメではなく使い捨てカメラをジリジリ巻いてたり芸が細かい。お見事です!
後年に公開されたアニメ版も鑑賞しました。
合わせてご覧いただけると幸いです。