一年以上前とはいえ、小説を読んだので何となく筋は覚えている。
回想を補う多角的視点
書評でも述べたが、この作品のいいところは多角的な視点を通したオムニバスと、スクールカーストを描いた世界観である。
小説ではその章ごとにフィーチャーされた人物に、主眼を置いて進んでいったが、この映画には人物によるナレーションはなく、ある意味客観を貫いている。
不親切といえば不親切かもしれないが、人物の関係図さえ頭に入れば、原作を未読の人も入り込めると思う。
原作の形式とは異なり、時間軸で区切ったオムニバスの形をとっているが、複数の視点から切り取った同じシーンという面白さは残っている。
同じシーンでも女子4人組が見たものと前田(神木)が見たものとは違うし、片方のシーンでは写り込んでいない(片方側の視点では認識されていない)台詞などが、キャラクターの人となりや、心情を際立たせていた。
あとこの映画で特筆すべきは、全く回想シーンがないところ。
前述の同じ場面を複数の視点によって重ねることはあっても、過去の回想シーンや妄想シーンで説明を補強するパターンがない。
だから、スクリーンの中で起こっていることは全てが現在進行形で、それでいて視聴者を置き去りにしない工夫がシーンの重ね合わせだと感じた。
スクールカースト
さて、スクールカーストはどうだったか。
これも小説に匹敵しうる出来でした。
そもそもスクールカーストって何や?というと、校内、ひいてはクラスや部活動や、もっと小さいコミュニティでも当てはまる序列関係。
本作ではクラスという範囲は越えているにせよ、放課後にバスケをやる宏樹、竜汰、友弘(帰宅部&野球部幽霊部員)という男の子3人組と桐島、女子は桐島の彼女であるリサと宏樹の彼女である沙奈、バドミントン部のかすみと実果といったあたりが上位のカーストグループである。
主演の神木隆之介は映画部という所属がゆえに下位のカーストに属する生徒として位置付けられている。
沢島という吹奏楽部長を演じた大後寿々花(明日ママのオツボネ役)も、女子のその他大勢の序列である。
学内の序列関係と聞くと上位グループが下位グループをパシリにしたり、いじめたり、という光景を思い描く人もいると思う。
でも、朝井リョウの生きた高校生活ではそれは違ってーー僕も彼と歳があまり変わらないのでわかるけどーー上位カーストと下位が接点を持つことは基本的にない。
桐島を描写した数少ないシーンで、彼女のリサがバレーボール部員に「(桐島は)元から貴方たちのことは眼中に無いんじゃないの」と言い放つシーンがある。
原作よりも明らかに桐島に対しての描写が乏しいので、これを鵜呑みにされても桐島が可哀想なのだが、リサの感覚ではそうなのである。
上位カーストにとって下位の連中とは、自分たち以外の何者か、であり眼中に無い。もちろん下位カーストもそれを自覚している。
その最たる例が体育のサッカーのチーム決めであり「取りっぴ(これ方言ですかね?)」で最後まで残った2人が映画部の2人だった。体育のサッカーは彼等下位が活躍できる場ではなく、むしろそこで活躍できるような人間は上位カーストに入れてもらえるのだろう。
また上位カーストにとっての何者かが眼中の範囲に侵入した場合も沙奈と沢島を例にとって描かれている。
ハタから見たら嫌な奴だが、やり過ぎていないので現実味がある。
実写版を見ることで、文章の飾り部分に目がいった原作もやっぱり良い視点で書いているなと僕は再評価できた。
校内での立ち位置、発言権、居場所、恋心。そういうのって自由でありそうで実は全然自由じゃない。
かすみを演じた橋本愛が可愛い。
かくいう僕は、、、というと、うちの学校も比較的序列はあんな関係。
僕は帰宅部で、上位とも下位とも普通に話すんだけど、グループで行動するわけではないので結果的に居場所というのは凄く狭かった。
小説読んで、また観直したい。