先日08年の映画『ジャージの二人』を鑑賞。
中村義洋監督、出演は堺雅人、鮎川誠。
「カノウショウ」
グラビアカメラマンの父親(鮎川誠)と無職の息子(堺雅人)が別荘で避暑をする話である。
ストーリー性やリアルなあるある感が優れているわけではない。登場人物に感情移入できる類でもない。
堺雅人は男から見てもうだつの上がらないニートであり、痛々しく、また父親の鮎川誠も「なんか、こう~」というセリフとともに抽象的な人間である。
二人に対して抱く共感とすれば家でひたすら怠惰に過ごしているときの自分を客観視しているような恥ずかしさか。ただ怠惰に、ではなくひたすらという強調語が必要だが……
では何処にこの作品の魅力があるのか、
そう考えてみると、それは構図だった。
いい年した二人が仕事もせずに山荘にこもり、ジャイアントカプリコを食べたりトマトを食べたり、ファミコンで麻雀をやったり。
浴衣だったら少しは風流なのかもしれないが、彼らが着ているのは学校指定のジャージの上下である。
この作品においては堺雅人の妻を演じる水野美紀とともに、言葉遊びのマジックが幾つか出てくる。
一例であるが、飼い犬の鼻の上にできたおできを見て「カノウショウね!」と言われたら、それは化膿症という病気があるのだと思うだろう。
堺雅人もそう思っただろうし、僕もそう思った。でもカノウショウとはそういう意味ではなかったのである。
日常のありふれた何かに、名前をつけ続けていくとこのような作品が生まれるのではと感じた一本。
同じような場面の繰り返しも嫌らしさがないから比較しやすい。
余談ではあるが、僕はジャージのチャックを上まで閉める派である。中学の時は開けていたけど。
あと、ジャージパンツの裾のチャックは全部開けて裾をボロボロにする派である。サッカーをやる時は、逆に裾をソックスの中に入れてしまう派である。
だから、この映画で描かれているような裾チャックがないジャージを僕が着たらどうなるだろう。
そんなつまらないことを考えながらエンドロールを見ていた。