映画『ぼっちゃん』感想〜性格ブサイクの果て〜

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2016年1本目の映画は、2013年公開の『ぼっちゃん』を鑑賞。

大森立嗣監督。
水澤紳吾、宇野祥平、淵上泰史、田村愛。

加藤智大容疑者による秋葉原の無差別殺傷事件に絡めて作られた作品である。

あらすじ紹介

秋葉原の歩行者天国で、ネットの掲示板に自身のコンプレックスや孤独な叫びを書き込んでいる派遣労働者の梶知之は、派遣先の工場で自分と似た境遇の田中さとしと出会う。社会から疎外された者同士、梶と田中の間には友情が芽生えていくが……。

出典:映画.com

スタッフ、キャスト

監督 大森立嗣
脚本 大森立嗣、土屋豪護
梶知之 水澤紳吾
田中さとし 宇野祥平
岡田コウジ 淵上泰史
岡田ユリ 田村愛



ブサイクなのは外見か

秋葉原事件をモチーフにした、とは言うものの、映画の展開としてあの事件との関係は出てこない。

描かれるのは、長野県佐久の工場で働くことになった自称ブサイクの梶(水澤)の鬱屈して捻じ曲がった心である。

この作品には社会的、精神的な階級格差が色濃く出ている。
梶が職場でムカつくと言われて貶されたり、同じ時期に入社した岡田(淵上)に抑圧されたり、コンビニでお釣りを投げるようにして落とされたり。

ただし、岡田からの抑圧以外に関しては、梶本人にも原因があると思う。
いわゆる「いじめられる側にも原因がある」というアレである。

梶はブサイクである。
梶は人に嫌われるのが怖い臆病である。

にもかかわらず、
彼は自分が劣った人間だと前提した上で、他の劣った人間を貶める。
自分が不遇であることを周りのせいにして、また自分の生まれてきた運命を呪う。
常に判断基準は自分が幸せかどうかではなく、他人が自分「よりも」幸せかどうかである。

自分と他者を比較してでしか幸せを測れない梶。自己愛の強さも印象的だ。

卑屈の塊である梶に共感できる人はそれほど多くないと思う。

『苦役列車』の貫多とはまた少し違うタイプのコンプレックス人間であり、ただ単に「どうせ俺なんて…」となるよりも「どうせお前らは俺を見て嗤っているんだろ」となる種類である。

その感情の発露が突然の大きな奇声であり、矛先は「自分以外の人間」全体になりうる。

作品内で「ブサイクだと心もブサイクになる」という台詞があるが、まさに文字通り、心までブサイクである。ここまで思わせるんだから凄い。

顔が良ければ許される?

イケメン(梶いわくイケメソ)として描かれている岡田もまた彼なりのコンプレックスを抱いているわけだが、鬼畜の所業の割には現実感がどうも薄い。
言葉を変えれば、そこまで嫌悪感を抱かない。

抑圧という面で梶に対してのマインドコントロールの描き方が足りないのか、あるいは梶の心情描写が足りないのか、理由はよくわからない。

はっきりしているのは、岡田は自分に自信を持ち、犯罪を犯すときでも自分を信頼しきっており、かつ梶よりも顔が良いということである。

はっきり言って世の中、顔が良い方がそれは有利だ。

有利だけども、決して覆せない差ではないし、容姿で予期せぬところから妬み僻み恨みを買ってしまう人間もいるだろう。

宇野祥平が演じた田中を見て僕は思うのである。

心が綺麗なイケメン
心が荒んだイケメン
心が綺麗なブサイク
心が汚いブサイク

そして、振り向かれるのは三番目までだろうと。

容姿とはあくまでも人間の一面である。
顔が良いのに運動ができない、とか
顔が良いのにとても猫背、とか。

自分の中の様々な価値を探し、磨いていく。
人間とはそういう生き物だと思う。

あまりにも照明が暗すぎるカットと、ボソボソ喋りが若干気になった。