映画『苦役列車』感想〜卑屈を風刺し続けた傑作〜

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12年の映画『苦役列車』を観た。

原作は芥川賞作家・西村賢太。
監督は山下敦弘。主演に森山未來。

あらすじ紹介

昭和の終わりの酒と風俗におぼれる日雇い労働の青年の姿を通して、孤独や窮乏、生きる力について描き出していく。1987年、中卒で19歳の北町貫多は、日当5500円の日雇い労働でその日暮らしの生活を続けていた。生来の素行の悪さと性犯罪者だった父をもつ引け目から友人も恋人もいない貫多だったが、ある出会いによって大きく変化していく。

出典:映画.com

スタッフ、キャスト

監督 山下敦弘
原作 西村賢太
脚本 いまおかしんじ
北町貫多 森山未來
日下部正二 高良健吾
桜井康子 前田敦子
高橋岩男 マキタスポーツ
古本屋の店長 田口トモロヲ



卑屈な貫多になりきって

原作は未読だが西村氏自身の生き様を反映した私小説というのは有名な話。

主人公の北町貫多を演じる森山はぷっくりとした冴えない顔と数年後のロン毛を使い分けているが、恐ろしいほどに格好良くない。

これが森山未來の凄いところ。

いくつかの作品で彼を見てきたけど、すべての作品において森山未來は森山未來でありながらキャラクターはそれぞれ違う。イケメンあり、キモオタあり、そして今回は残念な鬱屈した男。

例えば、本作に共演した高良健吾は(彼ももちろん素晴らしい役者であることは前置きしておく)いくつかのキャラクターを演じた場合、全てにおいて高良健吾というブランドを感じさせる一方で、全てにおいて端正なイメージが一貫しがちである。どんな役においても。

高良健吾はどこまでいっても彼らしさというか、端正なキャラクターなのだ。

妻夫木聡は逆で、役に応じて妻夫木聡というブランドを完全に没個性化できる存在に感じられる。だから彼は演じられる役割が広い。あくまでもイメージだけど。

森山未來の場合は、カッコ良い人間もどうしようもない人間にもなりきれる一方で、我々に映るその人間の名前はキャラクター名ではなく森山未來なのである。
ただ、どんなにかっこ悪くともそこにいるのは間違いなく森山未來が演じている貫太で、役者の個性が没していない。カメレオンというべきか多彩というべきか。

説明するのが難しい感覚ですね。

森山への感想が長くなってしまったけど、素晴らしい作品だった。

卑屈でビビリで卑怯で計画性も全くない貫多への共感はないこともない。

友達の作り方がわからない、お金の貯め方がわからない。
どうせ僕に言っても無駄だと思うんだろう?中卒だから。

ただ、人から卑屈であることを指摘され、呆れられたり失望されることで自分の存在を確認する方法では、結局自分と同じ境遇かあるいは同情してくれる人しか周りには残らない。

人と違う生き方をしてきたことは武器でもあるのだが、それに気づいていない上に人間としての前提条件のレールすら壊そうとしている。

中卒で、その日暮らしを経ても貫多よりよっぽどまともに生きている人間はたくさんいる。

僕から見たら貫多は中卒という言い訳にいつまでもこだわり、見くびられることが当たり前の境遇に甘んじているように見えた。

最後までうだつは上がらず

その貫多に対しての作り手側の揶揄というかチクリとえぐる部分が彼の台詞や挙動に現れているようで、主人公を最後までうだつの上がらない男に仕上げたのは凄い。

前田敦子が隣に住む老人に尿瓶を当てるシーンも秀逸。
この一年後に『もらとりあむタマ子』でも山下監督とタッグを組む前田敦子だが、やっぱり作り手を魅了する何かを持っている。

光彩を調整して時間の経過を微妙に表現していたのも好き。