映画『雨にゆれる女』ネタバレ感想~青木崇高の関西弁と映像美~

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こんにちは。織田です。

2016年の映画『雨にゆれる女』をAmazon Prime Videoで鑑賞しました。

主演を青木崇高が務め、監督には世界的な音楽家・半野喜弘を迎えています。
半野監督はUAや持田香織などの著名なアーティストのプロデュースもこなす一方で、本作品で映画監督デビューを飾りました。また脚本、編集、音楽すべてを自身で手がけています。

ホウ・シャオシェン、ジャ・ジャンクーといった映画界の巨匠を魅了してきた音楽家の新たな可能性の発露。
『雨にゆれる女』は2002年に半野監督が当時バックパッカーだった青木崇高とパリで出会ったことがきっかけで誕生したそうです。



『雨にゆれる女』のスタッフ、キャスト

監督・脚本:半野喜弘
飯田健次:青木崇高
理美:大野いと
下田:岡山天音
水澤紳吾
伊藤佳範

青木崇高は大阪府八尾市出身。主人公の健次は基本的にぶっきらぼうな喋り方でしたが、ある時を境に関西なまりを発動します。
ネイティブの無骨な関西弁をぜひご堪能ください!

あらすじ紹介

かつてある過ちを犯した則夫は、現在は飯田健次という別人に成り済まし、勤務先の工場と自宅を往復するだけの孤独な日々を送っていた。そんなある日、同僚の男が健次の自宅に女を連れて現れ、彼女を一晩だけ預かって欲しいと頼み込む。これまで他人との関わりを避けてきた健次は断るが、同僚のあまりのしつこさに渋々彼女を預かることに。女も健次と同じく秘密を抱え、自分のことを語ろうとはしない。ふたりはそれぞれの本当の姿を明かさないまま、次第にひかれあっていく。

出典:映画.com

謎多き孤独な男(青木崇高)のところに、こちらも謎多きワケありの女(大野いと)がやってきて、お互いが触れ合っていくうちにある種の秘密がだんだんと明らかになっていくタイプの作品です、

謎多き女を健次に託した下田(岡山天音)という男が、ある意味で最も人間ぽいキャラクターかもしれませんね。

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。



映画のネタバレ感想

以下、作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

陰鬱な映像美

半野監督のデビュー作となったこの作品では、火であぶったナイフを腹部に当てる冒頭のシーンから一貫して「重たい」カットが用いられています。

倉庫のように暗く無機質で、理美が「死体でもあるよう」とこぼした健次の部屋。
テーブルの上のアルコールランプとグラスの水。
健次の勤務先に漂う気怠い雰囲気。
佇む理美を容赦なく叩きつける冷たい雨。

“邦画っぽい”という言葉では片づけられないほど暗い場面でのシーンが多く、それを意味ありげな陰と捉えるか見づらいと捉えるかで映画全体の受け取り方は変わってくるでしょう。
儚さと哀しさを含んだ重い映像は終始美しく、こだわりが滲み出ています。そのこだわり抜いた美しさが強いゆえに、見る人を選びそうな作品でもあります。

また青木崇高の演じる健次という謎多き男は、あまり多くを語ることをしません。
彼が片足を引きずる原因も、他者との関わりを避ける理由も、中盤まで明かされません。
トタンで覆われたボロボロの家に住み、明かりを最小限にして隠れるようにして生活しているわけもそうです。

理美(大野いと)と出会い、心を通わせて彼女を受け入れていく過程はセリフも少なかっただけに少々説明不足に映りました。
陰鬱な映像に後押しされた不透明な展開と理美が驚きの素性を明かす終盤の唐突感。それはこの映画の課題といってもいいかもしれません。

一方で何を考えているかわからない健次を、切れたら何をしでかすかわからない健次を演じた青木崇高は抜群でした。
主演の演技次第によっては一気にチープなメロドラマになりかねなかった中で、作品をミステリアスな緊張感に保っていたのは間違いなく青木崇高の力だったと思います。

禁断の運命的邂逅

主人公の男とヒロインが訳ありの関係で繋がっていく設定は、『さよなら渓谷』『夢売るふたり』にも少し似ています。

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映画『さよなら渓谷』ネタバレ感想〜真木よう子のカサつく肌と低い声〜

2013年9月17日

ここで挙げた2作品は何か過去の事件を共有しているカップルの生活だったり、カップルがこれから何かの事件を共有していくというカップル成立後のスパンで描かれているのに対し、『雨にゆれる女』は男女が偶然に出会い、健次が自らの素性を語ってお互いの警戒心を解いていった後に、理美の過去についての独白が始まります。

独白した“その後”の二人の世界はありません。映画内で描写された海辺のシーンを含めて、見た人の想像に委ねられる部分が大きい作品です。
健次と理美が出会うきっかけを作った下田という男(岡山天音)のキャラクターが全く分からなかったことも、いろいろこちら側で想像する必要がありました。

東京国際映画祭のメッセージで、半野監督はこのような言葉を残しています。

「罪」は気づかぬうちに我々の中に存在し、生きるとは完璧なまでに不公平。私は「他者として生きる」サスペンスの中で、逃れられない喪失を抱えた男女の贖罪を描こうと考えました。ふたりの苦しみと悲しみを通して当たり前の日常の価値を観客に伝えたいのです。

上で挙げた『さよなら渓谷』は「逃れられない喪失を抱えた男女の贖罪」を確かに描いていました。
それは『雨にゆれる女』と異なり、『さよなら渓谷』が禁断の運命的邂逅を前提情報として先に公開していたからこそ感じられたことかもしれません。

ただし、本作からは贖罪の要素はあまり見えなかったし、気づかぬうちの「罪」や日常の価値の再確認もそれほど感じることができませんでした。
こちらに想像や妄想の余地を残す“余白”と説明不足は紙一重。

伏線の回収や綿密なプロットよりも、映像美を愛でるべき作品でしょうか。