映画『やがて海へと届く』ネタバレ感想|あの日、すみれが見た世界は

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こんにちは。織田(@eigakatsudou)です。

今回は2022年公開の映画『やがて海へと届く』をご紹介します。

主演に岸井ゆきのさん浜辺美波さん。監督は中川龍太郎監督
原作は彩瀬まるさんの小説です。

映画初見時はいまいち理解が追いつかず、原作小説を読んでから再鑑賞しました。

結論から言うとやはり映画版のストーリーを理解するのは私の頭では難しかったんですが、大切な人の不在をどう消化するのか、という部分を描いた作品だと思いました。

だいぶ小説とは違った切り口の印象です。

今回は以下の2つに触れながら考えていきたいと思います。

  • “喪失と再生”の捉え方
  • 震災の記録シーンの効果

以下でネタバレ・展開に触れていきますので、映画未見の方はご注意ください。



あらすじ紹介

引っ込み思案の真奈(岸井ゆきの)と、自由奔放なすみれ(浜辺美波)は親友同士だったが、一人旅に出たすみれはそのまま行方知れずになる。親友がいなくなって5年が過ぎても、真奈は彼女の不在を受け入れられずにいた。

出典:シネマトゥデイ

スタッフ、キャスト

監督 中川龍太郎
原作 彩瀬まる
脚本 中川龍太郎、梅原英司
湖谷真奈 岸井ゆきの
卯木すみれ 浜辺美波
遠野敦 杉野遥亮
国木田聡一 中崎敬
すみれの母 鶴田真由
伊藤羽純 新谷ゆづみ
楢原文徳 光石研
岸井さんと浜辺さんがとても輝いていましたね…!

これまではいわゆる主人公・ヒロイン的な役が多かった印象の浜辺さんですが、この作品で見せた周囲を包み込むような一面は、俳優・浜辺美波としての引き出しをいくつも増やしたのではないかと思います。

 

この後、本記事はネタバレ部分に入ります。映画をまだご覧になっていない方はご注意ください。



映画のネタバレ感想

以下、感想部分で作品のネタバレや展開に触れていきます。未見の方はご注意ください。

 

映画『そして海へと届く』は、ある日消息を絶った卯木すみれ(浜辺美波)の不在を消化できない親友・湖谷真奈(岸井ゆきの)が主人公です。

時系列で言うと、

  • 2005年春 大学入学
  • 2007年夏 同棲スタート
  • 2009年  就職
  • 2011年  東日本大震災
  • 2016年  現在パート
  • という形をとっていました。

    湖谷は震災の日を境にいなくなってしまったすみれの不在を受け入れることができず、すみれの恋人だった遠野(杉野遥亮)すみれの母(鶴田真由)が、彼女を故人として扱おうとしていることに違和感、もっと言えば憤りを覚えていました。

    自分の世界から突然見えなくなってしまったすみれ。「私たちには、世界の片側しか見えていないんだよね」というすみれの言葉もあり、彼女を私はどれだけ知っていたのだろうかと、湖谷はすみれと向き合っていきました。

    “喪失と再生”の捉え方

    原作小説には「親友の死をめぐる喪失と再生の物語」というコピーが記されています。

    この“喪失と再生”の主語は湖谷真奈(岸井ゆきの)な訳ですが、彼女にとって映画の中での“喪失”は二つあって、一つはすみれがいなくなったこと、もう一つは勤務先の店長・楢原さん(光石研)が亡くなったことですよね。

    すみれは死んだことになっている

    すみれが消息不明になったことへの向き合い方として、湖谷と遠野、そしてすみれのお母さんは違うアプローチをとっていました。

    「お母さんと遠野くんの中では、すみれは死んだことになってるんだよね」

    事が起きてから5年が経ったという経年もあると思いますが、母親と遠野はすみれを死者として捉えています。

    お母さんはすれ違いが多かった娘と、再びまた親子になれたような気がすると話します。自分に挑発的な態度をとるすみれはもうそこにいません。
    生きていないと認めることで、生前とは違う関わり方、自分にとって理想的なすみれの像をかたちづくっていました。

    これに対して湖谷は嫌悪感を抱いていましたよね。

    遠野もお母さんの気持ちがわかる、と言って、すみれの死を受け入れて前に進もうとしています。
    引っ越し、別の人との婚約もそうですよね。映画では「新しい職場の近くにいい物件を見つけたんだ」と言っており、彼が転職した過去も匂わせていました。

    一方で湖谷は、すみれを死んだことにするのは彼女のつらさや痛さから自分が逃れるための手段ではないかと考えていましたよね。

    すみれはどんな子だったんだろう?と何度も煩悶し、生前のすみれと向き合おうとする湖谷。遠野もすみれのことを、こうだったんじゃないか、こう思うんじゃないか、と慮るものの、湖谷はそれに対して「あなたに何がわかるの?」と反論しました。

    進むのか、とどまるのか

    「確かに、あいつは辛い死に方をしたかもしれない。気の毒だし、俺だっていやだ。でもそれはすみれが一人で背負うどうしようもないもんだろ。他の奴がなにかできるかなんて思うべきじゃない」

    引用元:彩瀬まる『やがて海へと届く』P68(講談社電子文庫)

    遠野の考え方としては、命を落としたすみれはその死や無念を彼女自身で背負うものだというものです。

    一方で湖谷の考え方は原作の言葉を引用すると、すみれは「死んだあとも隔絶された苦しさの中に置き去りにされて」いて、そんな彼女を私が置いていけるわけがない、繋がり続けていなければいけないというものです。
    これについて遠野は次のように評していました。

    「湖谷にとって死んだ奴はずっと同じ場所に留まってるイメージなんだな」

    引用元:彩瀬まる『やがて海へと届く』P69-70(講談社電子文庫)

    遠野にとって(死者としての)すみれは、留まっているのではなく、歩みを進めているイメージです。自分がそこに留まっていたらすみれに置いて行かれてしまう。だから遠野も歩みを、人生の針を進めていく。
    それはもちろんすみれを忘れるのではなくて、空の上と下でともに歩んでいくという意味でしょう。

    それに対して湖谷は作品のキーワードともなっている「フカクフカク」を表現するように、すみれに寄り添い、つないだ手を離すことなく、世界中で彼女だけを愛する安心できる場所でありたいと思っているわけですね。いつでも帰って来れるように待っています。

    言い方を変えると、残されたのはすみれなのか自分なのか、ってことだとも思うんですよね。

    近しい人を亡くした後、その人の魂、遺志みたいなものをどのように背負って生きていくのか。それは人によって変わってくると思います。

    自分だけが幸せになっていいのだろうか、前に進んではいけないのではないかと迷うのか、それとも自分が前向きに幸せになってこそ、天国のあの人は報われるのではないかと思うのか。どちらも故人を慮る結果ではありますよね。

    この作品では、大切な人を弔うというのはどういうことなのか?を、それぞれの視点から炙り出していると思います。

    湖谷の“再生”

    すみれに一貫して寄り添い手をつなぎ、留まっていた湖谷でしたが、原作小説では「好き」がきっかけとなって新たな道を歩もうとしています。

     砂糖を混ぜたコーヒーを飲みながら、誰かを好きになりたいな、と思った。恋人でも友人でもいい。(中略)
     私は、すみれを手放す支度をしている。
     そう自覚した途端、息が止まるほどの衝撃が体を通り抜けた。本当か、本当にいいのか。

    引用元:彩瀬まる『やがて海へと届く』P98(講談社電子文庫)

    湖谷が自覚した「すみれを手放す支度をしている」という表現は、この小説でいちばん印象に残りました。

    この後湖谷はある女子たちと関わることで“いなくなった大切な人”とどのように向き合うかの道標を手にし、好きな人ができたよ、と明かしました。その湖谷を、遠野は本当に良かったと言って祝福しました。

    遠野にとって湖谷は、亡くなったすみれが味わったであろう痛み、苦しみを自分も共有しなくてはいけない、自分が“苦しんでいる”すみれのそばに留まっていなければいけないと縛られているように映っていたと思うんです。

    だから、そんな湖谷が前に進んでいいんだ、進むべきなんだと思えたことが遠野はとても嬉しかったんでしょう。

    一方で映画版では、湖谷の“再生”は恋愛によるものではなかったですよね。
    彼女は想い続けたすみれと再会を果たしたことで、すみれと違う場所にいることを受け止め、消化しました。

    小説版のように、これから湖谷は誰か別の人とフカクフカク愛する関係になるのかもしれません。けれど新たな愛ですみれの不在を埋める(言い方悪いですが)のではなく、湖谷がすみれに寄り添い、彼女の辿った道をなぞることですみれともう一度会う事ができたのは素敵でした。

    次に湖谷のなぞった道という部分を考えたいと思います。

    震災の記録シーンの効果とは

    映画を最初観た時に少し唐突に感じたのは、東日本大震災を経験した被災者の人たちがカメラに向かって語る記憶、記録のシーンです。

    高田町というアナウンスが流れてたので、設定としては岩手県の陸前高田市のあたりだと思います。

    “喪失と再生”というキーワードに対して、被災者という大きい主語を取るのであれば、それはなんか違うなと思ったんですね。

    ただ、そうではありませんでした。
    映画の中に入り込んできたドキュメンタリー要素。そこには小説の中で描かれたすみれのパートを担保する部分があったと思います。

    あの日のすみれ

    『やがて海へと届く』の作者・彩瀬まるさんは2011年3月11日、自身が旅の途中で被災した経験を持っています。当然すみれの描写には自身の体験が深く刻まれています。

    原作小説では、職場、遠野、国木田などと関わり、またすみれとの思い出を回顧する湖谷のパートと、被災し、沿岸の道を歩き続ける人物のパートが交互に描かれています。

    後者の「人物」とはすみれなんですが、小説におけるすみれのパートが実に幻想的で、彼女は色々な“誰か”と出会いながら足を進めていきました。

    ちなみに小説ではすみれにとって「歩くこと」がとても象徴的なものになっていて、彼女の履く靴も同様でした。

    ただ、そのパートは幻想的がゆえに実写に落とし込むことは難しかったようで、すみれが辿った道のりは挿入されたアニメーションのシーンを除き、映画版では大きくカットされていました。

    湖谷視点ではないすみれの描写をどうカバーするのか。すみれはどんな子だったんだろうという部分をどのように表現するのか。

    その答えはビデオカメラの使用だったり、終盤のすみれ視点による過去パートだったりするわけですけど、個人的にはそれよりも少女・羽純(新谷ゆづみ)をはじめとする被災経験者の独白パートが意味を持っていたと思うんですね。

    あの日、あの場所で、何が起きていたのか。

    それを当事者が証言する形で映し出す効果は、観ている私たちに対して以上に、そこに居合わせた湖谷に示す部分が大きかったと思うんです。あの時すみれの周りでどんな事が起きていたのかを示すという意味で。

    湖谷は(遠野たちと違うアプローチで)すみれのことを慮り、彼女の痛みや苦しみを想像してきました。共有したいと思い続けてきました。

    湖谷の探してきたあの日のすみれは、あの日すみれに訪れた世界は、羽純たちのインタビューによって少し輪郭が見えたのではないでしょうか。



    この記事では湖谷がすみれの不在をどのように消化するのか、向き合うのかと書いてきましたが、映画内で触れられていた「世界の片側」という部分は正直私の頭では理解が及びませんでした。特に後半のすみれ視点の部分ですね。

    最後になりますが、この映画の岸井ゆきのさん浜辺美波さんはとても魅力的でした。

    湖谷のすみれに対するフカクフカクを表現した岸井ゆきのさんにはかけがえのない相手への想いとともに、彼女の心の中にある焦燥感、使命感のようなものが見えましたし、そんな湖谷を包み込むようなすみれの浜辺さんにもまた、新境地を感じました。

    私自身も近しい人を失った経験がある中で、その時にどのような形で消化できていたのだろうか、故人に想いを馳せる事ができていたのだろうかと考えると、岸井ゆきのさんの湖谷が背負うものと比べると小さいものだったんだなと実感しました。

    最後までお読みいただき、ありがとうございました。

    彩瀬まるさんの原作小説です。映画との違いも見えてきますのでよろしければご覧になってみてください。

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