映画『祖谷物語 おくのひと』〜田舎にとっての外と内〜

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早稲田松竹で鑑賞した『祖谷物語 おくのひと』。

14年、蔦哲一朗監督、出演は武田梨奈、田中泯、大西信満ら。
蔦監督は、高校野球で池田高校をかつて率いた蔦文也さんの孫。



電気も水道も通っていない山奥で

さて、蔦監督の自主製作、長編処女映画ともいえる『祖谷物語』は、徳島の秘境・祖谷(いや・三好市)で一年間カメラを回して撮った作品。
デジタル化の時代に逆行するように35ミリで撮られた重厚な雰囲気に、雪山、青々と茂る山を流れる川……自然という言葉では片付けられないような雄大で時に恐ろしくもある祖谷の環境を最大限に生かしていく。

春菜(武田梨奈)とともに暮らすお爺(田中)はこの作品の根幹を成す存在であるにも関わらず、言葉を一切話すことはない。

視線と背中と所作だけで全てを語り、風の音、山の音、水の音、自然の奏でる音が山深くに暮らす彼らの日常を代弁する。

もちろん現実には文明化しているのだろうが、朝起きて滝つぼに水を汲みにいき、囲炉裏に鍋をかけ、ランプを持って夜の戸口に立つ春菜。
電気も水道も来ていないような奥の奥に棲む二人が印象的だった。

ファンタジックな部分や、東京に春菜が出るシーンもあり、尺は160分以上と長い。

僕は映画の専門家ではないので深い評論や解釈をできるだけの頭を持ち合わせていないのであるが、蔦監督が撮りたかった気概というものは十分に伝わってきた。冒頭で述べた過酷な撮影からもよくわかる。

自主製作、初の長編作品というと渡部亮平監督の『かしこい狗は吠えずに笑う』が印象に残るが、やりたいことをやって突っ走った中にも整合性が高いレベルで共存していた『かしこい狗~』に比べると粗削りというかいくつかの穴は残っていた。

しかし、その粗削り感さえもどうでもよくなるくらいのスケールの大きな作品。
お金を払って映画館で見るべき一本だった。

よそ者が抱く自然への幻想

最後に、東京編を除いて三好市全ロケのこの作品は、いわゆる邦画のご当地作品とは一線を画していた。

僕が一番いいなと思ったのは、よくこの手の作品で描かれる「中の人間と外の人間」。

祖谷を思い、環境破壊に反対する「外から来た」人間たち。
一方で祖谷の人間は、暮らしてきたからこそわかる、自然のデメリットと開発の重要性を強調する。

「外から来た」人間が正論を吐いているように見えて、人間が暮らしていくために必要な開発はあるでしょう?と問いかけてくれる作品。
「田舎で暮らしてみたいなぁ」とか「これが手つかずの自然」なんて言葉は所詮、身を置いたことのない「外から来た」人間の甘ったれた妄想にすぎない。

必要悪ではないけれど、二元論を語る時に理想だけでは片付かないことがある。自然と共生していくためには。

そんなことも教えてくれる作品。

その意味では大西信満のラストシーンはとても良かった。
田舎は日本人の原風景とかよく言うけれど、そんな田舎はもはや観光地化された「作られた田舎」なのかもしれませんね。